第二話:満州戦車戦






    1945年 7月13日 羅子溝

 御剣軍曹は、目の前で繰り広げられる演習を見ながら、これを褒めて良いのかそれとも怒声をあげるべきなのか考えあぐねていた。
 今訓練を行っている半数は開拓団として満州に身一つで渡ってきた少年たちで、もう半数は兵役をとっくに終えていたはずの中年たちだった。彼らの間には親子ほども年の差があった。御剣軍曹のような実戦経験者は極少数しかいなかった。士官でさえ予備役士官がほとんどだった。
 御剣軍曹はすぐ目の前で腹が出っ張り始めた中年の一等兵が盛大に音を立てて転んだのを見てようやく意を決した。軍曹はため息をつきながら腰を下ろしていた岩の上に立つと集合を命じた。
 集合を命じたあとも気が滅入る事ばかりだった。少年たちはすぐに集まってきたが中年たちはばつの悪そうな顔をしながらやや遅れてやってきた。年による体力の低下というだけではないだろう。一ヶ月間ほとんど休み無く続けられた訓練でつかれきっているのだろう。
 御剣軍曹はもう一度ため息をつくと訓話を始めた。周囲の警戒を怠るなだの行動はもっと素早くかつ間違いなくしろだのといつもの様に一通り訓話を終えると不機嫌そうな顔で新兵たちを睨みつけながら解散を命じた。兵たちは三々五々といった様子で散っていった。少年兵のうち何人かは今までの訓練を話し合いながら復習しているようだった。彼らはあとで昇進させておこう。御剣軍曹は見所のありそうな新兵の顔を確認しながら中隊本部に行った。
 中隊本部に指定された民家に申告しながら入るとすぐに中隊長が御剣軍曹を手で招いた。軍曹も軽くうなずくと中隊長にしたがって元は応接室だったのだろう中隊長室に入った。部屋に入るなり椅子を勧めるよりも早く中隊長は御剣軍曹に質問した。
「師団編成から一ヶ月たっとるが新兵の調子はどうだ」
 同じ質問を毎日繰り返すくらいなら貴様も訓練に顔を出せばいいんだ。御剣軍曹はそう考えながら中尉で予備役編入させられていた中隊長の顔をまっすぐみながらいった。
「前にもお話したように新兵から娑婆っ気を抜くだけなら今でも出来ています。ですが我々が対峙するのはゴロツキでも暴徒でもない、れっきとした正規軍です。対戦車訓練を含む対ソ戦術を叩き込むのには時間がかかります。あと最低でも一ヶ月、それだけあれば彼らを精強な兵隊に仕立て上げることが出来ます」
 まったく感情の浮かんでいない顔を向けられた中隊長は一瞬ひるんだような表情をしたが、すぐに威儀を正していった。
「流石に南方帰りの言うことは違うな。では中隊の兵の訓練は任せるぞ」
 精一杯の虚勢を張った中隊長に興味を失うと御剣軍曹は中隊長室から出て伸びをした。これから兵舎をまわって軍規違反が行われていないか確認しなければならない。中隊に経験豊富な下士官は僅かしかいないから御剣軍曹の仕事は多かった。
 本当なら小隊長代理とはいっても、もっと楽な仕事であるはずだった。彼の人生でケチがつき始めたのはノモンハン事件からだった。無謀な渡河作戦によって御剣軍曹が所属していた第23師団は壊滅状態になった。その後南方に進出した部隊に転属になった軍曹は敵対戦車砲陣地撃破の戦功と引き換えに名誉の負傷を受けた。おかげで満州に帰還できたものの原隊復帰する前に新設の第128師団に転属となってしまったのだ。
 御剣軍曹が中隊本部を出ようとすると後ろから呼び止められた。また面倒ごとを押し付けられるのは厄介だから出来るだけ不機嫌そうな顔をして軍曹は振り返った。だが相手は満面の笑みを浮かべていた。昔馴染みのその顔に御剣軍曹は呆気にとられてしまった。ノモンハン事件の頃からの知り合いである新庄曹長は笑みを浮かべたまま御剣軍曹の方に手をおいた。
「どうだ外で話でもせんか」
「それはかまわないが・・・今日は唐突にどうしたのだ」
 御剣軍曹は首をかしげた。新庄曹長は中隊本部を出ながらいった。
「なに、しばらくぶりに貴様の顔でも見ようと思ってな」
 一度肩をすくめると御剣軍曹はおどけていった。
「嘘をつけ、貴様が用もなしに来ることなどあるまいよ。先に行っておくが金なら貸さんぞ」
 だが新庄曹長は御剣軍曹に答えることなく周囲を見回して誰もいないことを確認してからいった。
「そのとおりだ、貴様の顔を見に来たわけじゃない。一応伝えておこうと思ってな」
「急に改まって一体何をだ」
「俺の部隊な、今度第四方面軍に転属になった」
 とたんに御剣軍曹の顔が渋くなった。新庄曹長が所属しているのは新鋭の四式重戦車を装備する独立重戦車大隊だった。彼らの大隊が転属するとなるとこの方面に展開する重戦車大隊には旧式の二式重戦車しか無くなってしまう。
「そんなに第四方面軍は戦力が無いのか」
「無いなんてもんじゃない。あっちは第三戦車師団をのぞけば、ここみたいな新兵の集団か国境警備隊を改変した独立旅団ばっかりなんだぜ」
 御剣軍曹は大きくため息をついた。自分が南方で戦っている間にここまで関東軍が弱体化しているとは思わなかった。慰めになるのはどうやら第四方面軍にも自分と同じ立場の者がたくさんいるだろうということだけだった。


    1945年 8月1日 新京、関東軍司令部

 新設師団へのロタ砲と75ミリ砲の弾薬輸送計画書を書き終えた秋元中佐は固い椅子に座ったまま伸びをした。しばらく書類仕事を連続して行っていたものだから体のあちこちが悲鳴を上げていた。
 秋元中佐は休んだ姿勢のまま書き終えた計画書を取り上げた。ほぼ二ヶ月前に新設された師団は今まで編成されていた師団とは少々装備体系が異なっていた。いままで連隊と大隊に配属されていた歩兵砲が編成からとかれ、その代わりに大隊にロタ砲装備の対戦車隊が配属されていた。それに新設師団は陣地での防御が主任務となるから偵察任務に使われる捜索隊は全廃されていた。その代わり他の在満師団と同じように戦車大隊が配属されていた。
 編成年度の古い在満師団は編成にいまだに歩兵砲中隊が存在している部隊が多かった。だがロタ砲の装備後は本土配備の師団などと比べると歩兵砲は軽視される傾向があった。砲撃準備や移動に手間隙のかかる歩兵砲と比べて、射程や精度こそやや劣るもののロタ砲は簡易さで圧倒的に勝っているからだ。新設師団から歩兵砲が外れたのはロタ砲におされて歩兵砲に十分な備蓄が無いせいでもあった
 戦車大隊の編成も在満師団ならではの特徴だった。戦時に置いて戦車を集中配備させた戦車師団は師団が開けた穴からの突破、もしくは機動防御を行うことになっていた。しかし陣地防御や初期の攻勢作戦にも強力な対戦車兵器は必要だった。一応ロタ砲を始めとする対戦車兵器は配備されているが、機動力、防御力に欠けるのは否めなかった。
 ほとんど在満師団に限ってだが捜索隊以外に戦車大隊が配属されたのはそういった事情があるからだった。もっとも師団が配備する車両は戦車連隊から配備が外された百式砲戦車がほとんどだった。ソ連軍の新鋭戦車と正面きった戦闘は困難だが、配置さえ間違わなければソ連戦車の撃破は不可能ではない。旧式の長57ミリ砲とはいえ側面に回りこむことさえ出来ればT−34クラスなら貫通できる。
 しかも新設師団に配備された戦車は百式砲戦車の長57ミリよりも格段に強力な38口径75ミリ砲を装備する四式砲戦車だった。四式砲戦車は今までの百式や一式砲戦車とは違って閉鎖式の装甲室を装備していなかった。一応前方に防循は付けてるが装甲厚は薄かった。四式砲戦車は三式中戦車を改型に改造したときに外された短75ミリ砲を流用して作られた応急の砲戦車だった。だから装甲に対して火力だけは充実していた。
 本来なら四式砲戦車は在満師団の野砲部隊に配属されるはずだったが、師団新設による装備車両不足を補う為にすでに配備されていた車両を配置換えまでしてかき集められていた。
 秋元中佐は追加砲弾輸送計画に満足すると別の書類を取り上げた。それはやはり急造で新設された独立戦車大隊に関する書類だった。これも在満の戦車師団への三式中戦車の配備が終了したことで装備から外された一式中戦車が装備されていた。問題は人員不足だった。いままで輜重部隊などで乗車経験のある兵などを選抜していたがそれでも人員が編成までにそろわずに訓練不足である部隊が多かった。
 秋元中佐が書類を睨みつけていると中佐の机の近くに人が近づいてくる気配があった。秋元中佐が顔を上げると手持ち無沙汰な様子のエーアリヒカイト少佐が突っ立っていた。二ヶ月前に関東軍に保護されたエーアリヒカイト少佐は事情を聞きだされたと後は貴重な対ソ戦経験者として戦車部隊に対するレクチャーを行っていた。今では階級はそのままで関東軍参謀部付の顧問のような立場になっていた。
 エーアリヒカイト少佐はたどたどしい日本語で言った。
「タバコを吸いに行きませんか」
 秋元中佐は苦笑しながらうなずいた。エーアリヒカイト少佐はここ二ヶ月で簡単な日本語を覚えたにもかかわらず秋元中佐以外の人間とはあまり親しくしていなかった。他のドイツ人たちは早くも周囲に溶け込んでいたがエーアリヒカイト少佐は生真面目なのか軍人以外との接触さえ控えているような雰囲気があった。
「今日は確か君は部隊視察があったのではなかったかな」
 喫煙所に指定されている廊下の端で煙草を取り出しながら秋元中佐がいった。エーアリヒカイト少佐はすえつけられた簡易な椅子に腰を下ろしながら答えた。
「ええ、独立第四重戦車大隊です。彼らはちょうど移送途中で新京郊外に野営していますから。ですがそこまで私を乗せていくはずだった車が故障してしまいました。いま運転手が故障を直していますからそれまで私は暇なのです」
「なるほどな、だが君の休憩もここまでのようだぞ」
 怪訝そうにエーアリヒカイト少佐は首をかしげた。秋元中佐はにやにやと笑いながら少佐の後ろを指差した。そこには困ったような顔をした運転手が立っていた。片言ながらドイツ語をしゃべることが出来た為エーアリヒカイト少佐専属で四式小型貨車の運転手を勤めることになった綺堂一等兵は申し訳なさそうにいった。
「少佐殿、休憩中のところ申し訳ありませんが車の修理が終了しましたので出発できます。時間の方も遅れておりますので」
 それを聞くとエーアリヒカイト少佐は情けなさそうに火をつけたばかりの煙草に目をやった。秋元中佐は素早く自分の煙草を灰皿に押し付けるとエーアリヒカイト少佐から煙草を奪った。
「これは俺が吸っておいてやるよ。独立第四重戦車大隊は対ソ戦では重要な部隊だ十分に視察してやってくれ」
 エーアリヒカイト少佐はそれを聞いてため息をつくと秋元中佐に敬礼した。
「それでは中佐殿、自分は視察に参ります」
 そういうとエーアリヒカイト少佐は綺堂一等兵を伴って出て行った。秋元中佐もそれを見送ってからタバコを吸い終わると書類仕事に戻った。まだまだ仕事は残っていた。


    1945年 8月9日 羅子溝

 最初に始まったのは上空から鳴り響く低い音だった。おそらくは野砲の音だった。それに重砲の重低音も聞こえた。
 御剣軍曹は慌てて壕の外に出ていた兵隊を引き摺り下ろした。同時に壕から頭を出さないように叫んだ。野砲の着弾はそれと同時だった。新兵たちはそれでようやく慌てて壕の底にへばりついた。御剣軍曹も同じように壕の底に縮こまった。
 野砲の弾着は連続して響いていた。弾薬が不足しがちな日本軍の野砲とは違ってソ連軍の弾薬はよほど豊富なのだろう、野砲の弾幕が途切れる様子は無かった。だがこのまま砲撃だけですむわけは無かった。おそらくこれはただの準備射撃だ。つまりはこれが途切れたときがソ連軍の侵攻の始まりというわけだった。御剣軍曹は野砲によって吹き上げられた土砂に埋もれながら数日前のことを思い出していた。

 第128師団が上級司令部から命令を受けて国境線近くに設営されていた前方陣地に入ったのは二日前のことだった。中隊長からもぎ取るように命令書を受け取った御剣軍曹は眉をしかめた。それは開戦準備に他ならなかったからだ。
 御剣軍曹たちの中隊は全力で陣地に入ることになっていた。中隊本部も各小隊も全戦力が出動することになる。それどころか弾薬は勿論、食料も最低でも一週間分は輸送することになっていた。つまりはあと一週間は陣地に貼り付けられる可能性があるというわけだった。それとも一週間も前線陣地を防衛できないと考えられたのかもしれない。
 前線陣地への出動を命じられたのは御剣軍曹たちの中隊だけではなかった。第128師団どころか第三軍、いや第一方面軍直轄を除いた部隊がすべて前線配置となったらしい。これだけの部隊を動かす命令は方面軍クラスで出せるものではなかった。明示はされていないが関東軍の全部隊が臨戦体制に入ったと考えてもよかった。
 命令書を見てから御剣軍曹はあちらこちらと連絡を取りながら必要なものを揃えていった。そして陣地に向かう中隊から離れると数名の使役兵を連れて後方の師団集積所に向かった。
 中隊長には秘密にしておいたがそこで御剣軍曹は規定量を超える弾薬や食料を入手していた。十分な根回しはしていたから集積所の責任者である将校も知らぬふりをしてくれた。それどころか下士官から累進したその将校は、あらかじめ誰かから頼まれていたのか御剣軍曹たちに予備のロタ砲まで渡してくれた。
 どうもこれは特別扱いというわけではなさそうだった。やはり下士官の勘が働いたのか多くの部隊が規定量以上の物資を集めているようだった。集積所のほうもいつ砲撃で破壊されるか分からない。それならば破壊される前に前線に送ってしまえというつもりのようだった。
 そして集積所の将校は御剣軍曹が帰ろうとしたときにそっと耳打ちした。
「戦闘が始まったらここには来んほうががいいぞ。ドンパチが始まったら師団補給廠は移動するからな」
 御剣軍曹は僅かに眉をひそめて周囲には聞こえない程度の声で答えた。
「その場合はどこで補給を受ければいいんです」
「心配せんでもええよ。少なくとも連隊本部くらいにはその時々の場所は知らせるようにしておくからな」
 御剣軍曹は礼代わりに軽くうなずくと中隊の陣地に向かった。予定以上の物資に使役兵と軍曹は疲れきって陣地にたどり着いた。だが物資を確認した中隊長は困惑した顔でいった。
「軍曹、これは命令書に記載されていた物資の量とは違うのではないか」
 御剣軍曹は疲れてぼんやりした顔のままいった。物資の量など瑣末な問題だ、今にもそういいそうだった。
「それは困るぞ軍曹。これでは私が命令違反をしたことになるではないか。いますぐ命令書に書いてある物資以外は返してくるんだ」
 それを聞いて御剣軍曹は怒るよりも、呆気に取られて中隊長を見た。この男は本気でこんなことを言っているのだろうか。馬鹿馬鹿しくなってふてくされた様に御剣軍曹はいった。
「中隊長、今すぐにでも露介が攻めてくるかも知れんのですよ。武器弾薬はいくらあっても困ることはありません。食料だって同じです。いつ足りなくなるか分かったものではない」
 自分はノモンハンと南方で嫌というほどそれを味わってきたのだ。言外にそういう思いを込めていた。だが平時に予備役に編入されていた中隊長はしかめっ面になった。下士官が自分に逆らったのが気に入らないらしい。
「小官はそんなことを問題にしているのではない。貴様が軍機違反を犯しているといっているのだ。いいかこれはれっきとした違反行為だぞ。いまならまだ貴様を告発はしないでおいてやる。わかったらさっさと盗んだ物資を返して来い」
 紅潮した顔を向ける中隊長を御剣軍曹は冷ややかな目で見つめた。だが周囲の使役兵たちは中隊長の態度に激昂していた。今にも中隊長に暴力を振るいかねなかった。御剣軍曹はそんな周囲の怒りを感じて逆にさめて言った。
 御剣軍曹は目線で近くにいた伍長に合図するといった。
「分かりました、今すぐにでもいって来ます」
 周囲から不満の声が上がる前に合図された伍長が中隊長に話しかけた。
「中隊長殿、いまのうちに前線の壕を視察なされてはいかがですか」
 中隊長はそれを聞くとしばらく躊躇してから伍長に先導されてそこから去っていった。伍長は去り際にちらりと御剣軍曹に顔を向けたので、軍曹は中隊長に見えないようにこっそりと手を合わせて礼をした。
 中隊長が出て行くとここまで物資を運んできた使役兵たちは御剣軍曹に不満をぶつけてきた。
「軍曹殿、本当に中助の言うことなんて聞くんですか。俺またこの荷物抱えて戻るの嫌ですよ」
 御剣軍曹はそういった一等兵の鉄鉢を軽く叩くといった。
「いまの貴様の士官批判は聞かなかったことにしておいてやる。それから食料と弾薬は量がよく分からんように小隊ごと分散して適当に転がしておけ。どうせあの人じゃ見ても分からんだろう。ロタ砲だけはどうしようもないが・・・よし、これもどこか目端の利きそうな奴に渡しておこう。いざというときまで隠しておけば気づかれないだろう」
 使役兵たちは一瞬呆気にとられたが、すぐに笑みを浮かべた。ちょっとした悪事に加担するのが面白いのだろう。御剣軍曹はそれから彼らの笑みが消えないうちにさりげない顔でいった。
「それが終わったら貴様等は休憩だ。中隊長から見えないところで補給所に行って帰ってくるぐらいの時間だけ休んでおれ。いいか、何があっても中隊長に見つかるんじゃないぞ」
 それを聞くと使役兵の少年たちの顔には満面の笑みが浮かんでいた。御剣軍曹はそ知らぬ顔をしていた。



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