レッジアーネRe.2005bis






<要目>
全幅11m 全長8.9m 自重2.6トン 乗員1名 武装20ミリ機関砲×2 12.7ミリ機銃×2 エンジン出力1,580hp 最大速度650km/h 航続距離1,250km

 Re.2005bisは、イタリア空軍が第二次欧州大戦終盤に主力として投入した戦闘機だったが、工業地帯が集中したイタリア北部が未だ占領されていた時期に早くも同機が就役出来たのは、幾つかの偶然に左右されたものだった。
 第二次欧州大戦が開戦した頃は、イタリア航空産業は特色のある業界となっていた。航空黎明期から続く老舗が数多く存在していたものの、その多くはレーサー機の製造を職人芸で行う様な小規模な航空会社だったのである。
 旧式化していたイタリア空軍戦闘機の近代化を目指したR計画が発動した際にも一社の製造能力では空軍が必要とする生産数を満足することが出来ずに、マッキMC.200サエッタ、フィアットG.50の両機が同時に採用されていた。
 また、同計画に応じて試作されたレッジアーネRe.2000もイタリア空軍での制式化はされなかったものの、頑強な構造など一部の性能では両機に勝っていた為に貴重な外貨を獲得する輸出用戦闘機として何カ国かに輸出されていた。
 また、頑丈な機体構造がカタパルト射出に適していると判断されたことから、艦隊航空戦力の獲得を目指していたイタリア海軍に注目されてフロートを追加した水上戦闘機仕様が製造されていた。
 水上機母艦の沈没により、水上戦闘機が配備された海軍独立戦闘飛行群は艦隊航空戦力としての運用を諦めて海軍基地の防空任務との建前で陸上戦闘機部隊に改変されていたのだが、その装備機は水上戦闘機からの付き合いであるレッジアーネ社製の戦闘機とされていた。

 海軍への販路として独立戦闘飛行群との繋がりを重要視していたレッジアーネ社では、主要工場は他社同様に北部に集中していたものの、イタリア半島最南部のタラントに展開する独立戦闘飛行群の本拠地近くに開戦直前になって分工場を設けていた。
 当初は修理機の受け入れ程度の能力しか持たない分工場であったが、レッジアーネ社は主任技師を常駐させる程分工場に注力しており、修理用部品の製造から部品組み立てによる完成機の製造と段階的に能力を向上させていった。これにはレッジアーネ社の意向に加えて、産業に乏しい南部の経済対策として政府の支援もあったようである。
 当然の事ながら、この分工場ではRe.2000に引き続いて海軍独立戦闘飛行群の装備機となったRe.2005の整備能力獲得を目指しており、北アフリカに展開する同隊の支援を行っていた。
 また、独立戦闘飛行群の依頼で組み立て段階にあったRe.2005の一機を利用した改造機が南部分工場で製造されていたが、これは原型機が装備するダイムラー・ベンツ製DB605あるいは同エンジンをイタリアで国産化したフィアットRA1050RC58から、北アフリカで破損状態で鹵獲されたスピットファイアから取り外されたマーリンエンジンに換装したものだった。
 独立戦闘飛行群には同隊を支援するマーリア皇太子へのある種の賄賂としてドイツから送られた純正のDB605が優先的に回されていたが、国産化されたとはいえRA1050RC58はDB605の精緻な設計から生産率は伸び悩んでいた。
 RA1050RC58は国産化当初は故障率も高く、その一方で鹵獲機から取り外されたマーリンエンジンはドイツ製のDB605などと遜色ない性能を発揮する一方で予備部品さえ確保できればドイツ製エンジンよりも整備性も高かった。
 また、ドイツ製の水冷エンジンはエンジン駆動軸内部に銃身を通すモーターカノン方式に機関砲を装備することを重要視しており、機関砲の搭載スペースを確保するために過給器などの補機を拡大する事が難しく、性能が頭打ちになっていたが、マーリンエンジンはエンジン後部を補機用に空けていたことからエンジン架との間に余裕を持って大型化した補機を搭載することが出来ていた。
 そのためにマーリンエンジンは戦時中本体には大幅な設計変更を行うことなく、主に過給器の拡張のみで出力の向上を果たしていったのである。

 このマーリンエンジン搭載機は、エンジンの供給源が鹵獲機であることから分かるように、単なる実験機に過ぎなかったのだが、電撃的なイタリア王国の単独講和と国際連盟軍への参加によって大きな意味を持つようになっていた。
 従来イタリア空軍に主力機を供給していたマッキ、サエッタ両社はこの事態に対応することが出来なかった。北部の主力工場がドイツ占領地帯に含まれていた上に、領土回復後もドイツ製、ライセンス生産共にエンジンの供給が止まってしまったために生産能力の回復には戦後まで時間が必要だったのである。
 その一方で、南部に曲がりなりにも分工場を抱えていたレッジアーネ社は、実験機の改修経験を生かしてマーリンエンジンの供給さえ受ければ若干の作業のみで一線級の戦闘機を生産することが可能だったのだ。
 慌ただしくRe.2005bisの名で制式化されたマーリンエンジン搭載機は、直ちに生産が開始されていた。なお搭載されたエンジンは実験機に搭載されていたスピットファイアから取り外された英国製ではなく、ライセンス生産された日本製のものに代わっていた。日本本土で船積みされていた時は本来三式戦闘機の補充部品として輸送されていたものであったと言われているほど慌ただしいものだったと言う逸話が残されている。

 急遽生産されていたものとはいえ、予め実験機でマーリンエンジンの搭載方法などが確立されていた為にRe.2005bisの性能は概ねイタリア空軍を満足させるものだった。当初生産された機体は、これまでの経緯から海軍独立飛行群に受領されていたが、日本製のエンジン供給が安定したものであったために、既存機が急速に枯渇していた大戦終盤にはイタリア空軍の一線級戦闘機の大半はRe.2005bisとなっていた。
 ただし、エンジンはともかく機体部品の製造は南部の分工場の生産能力では不安もあり、Re.2005bisが大車輪で生産される傍らでは工場の拡大も行われていた。この工場拡大部分では従来のイタリア航空産業では採用されていなかった流れ作業や工数管理といった洗練された生産方式が日英などからもたらされており、生産効率の点では後になって解放された北部の工場よりも高かったと言われていた。
 タラント郊外に急遽現れたこの工場は、改装を繰り返しながらも現存しており現在ではレッジアーネ社航空部門の主力工場となっている。


 戦闘機としての性能面では国際連盟各国軍の主力機とも伍して戦う能力があるとイタリア空海軍に高く評価されていたRe.2005Bisだったが、一方でエンジンの換装によって火力が低下してしまったのは否めなかった。エンジン後部に直結するモーターカノンの装備が不可能になってしまったからである。
 また、エンジン同様に純正の火砲も入手が困難となったために既存部品の在庫が乏しくなってきた後は翼内の機関銃砲も国際連盟加盟諸国製の物に換装を余儀なくされていた。
 しかしながら主翼形状と密接な関係を持つ翼内機関銃砲の換装は容易ではなく、当初は主翼の改設計を行う余裕がないことから口径こそ20ミリではあるものの短砲身で初速に劣る日本製のホ5のライセンス生産品が余剰空間の発生も承知の上で搭載されていた。
 火力面でも他国戦闘機に並ぶようになったのは、エリコン系列の長砲身20ミリ機関砲4門を装備する新設計の主翼に換装されてからのこととなるが、実際にはこの新設計主翼の生産開始は終戦に前後する頃のことであり、戦後イタリア空軍もジェット機化に移行したために在籍するRe2005bisは純粋な戦闘機ではなくもっぱら戦闘爆撃機として使用されていた。

 また、実際に生じた問題は火力不足ではなく、本質的には形態管理の難しさを招いたことであるとする声も少なくなかった。機関砲やエンジン補機の換装が段階的に行われていたためである。エンジン補機はもちろんだが、機関銃砲も銃身カバーを搭載した状態では外部から正確に搭載物を特定するのは難しく、当該機体の正確な形態を把握するには整備記録を詳細に追いかけるほかなかった。
 機体名称も二転三転しており、当初の実験機は正式名称がなくRe.2005のままであり、イタリア講和後に日本製マーリンエンジンを搭載したものがRe.2005Bisとされていた。また、戦後生産された機体はRe.2006とナンバリングから変更されていた。
 Re.2005Bisは生産途中でホ5搭載機、既存機銃機が混在しているためにこれを初期生産、後期生産型と分類する資料もあるが、実際には書類上の区別はない。また、エリコン20ミリ4門機をRe.2006と特定するものも同時にあるが、やはりこれも実際には区別がない。
 つまり、Re.2005BisとRe.2006は生産時期が異なるだけで全く同じ機体であったのである。


 


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