哨戒機東海




零式陸上哨戒機東海11型


二式艦上哨戒機東海22型


<要目>
全幅16.0m 全長12.1m 自重3.1トン 乗員3名 武装7.7ミリ機銃×1 エンジン出力610hp×2 最大速度320km/h 航続距離2,400km(零式陸上哨戒機東海)
全幅16.2m 全長12.1m 自重3.8トン 乗員3名 武装20ミリ機銃×1 エンジン出力1140hp×2 最大速度340km/h 航続距離2,000km(二式艦上哨戒機東海)

 先の欧州大戦でドイツ海軍潜水艦隊による襲撃から船団護衛を行っていた日本海軍は、戦間期に船団護衛に係る研究を行う研究機関(後に海上護衛総司令部として再編成)を創設していたが、その研究結果から新兵器である航空機による対潜哨戒に注目していた。
 上空からの偵察では二次元的な海上での哨戒よりも遥かに広範囲を捜索することが出来るからだった。低速で長時間巡航が可能な専用機の開発が望ましかったが、予算不足などから哨戒専用機の開発は進捗しなかった。

 しかし、1930年代後半には電子技術の進化から、レーダーや磁気を使用する対潜探知手段が考案されており、これらの新兵器の実験機として海軍航空技術廠が開発したのが日本軍初の専用対潜哨戒機となる東海だった。
 敵潜水艦の潜望鏡やシュノーケルを探知可能な精度の高い対水上レーダー、敵潜水艦の存在によって発生する地磁気の乱れを探知する磁気探知機の開発、実用化などに従事していた東海は製造を委託された九州飛行機において若干の生産が行われたが、陸上哨戒機の主力とはされなかった。
 第二次欧州大戦開戦直後に攻撃任務に使用するには脆弱として前線から引き上げられた一式陸上攻撃機が哨戒機として転用されていたからだ。東海に搭載されていた機器も一式陸攻に装備されることとなっていた。
 この時点でも生産済みの一式陸攻の数は多く、しかも長駆敵艦隊を雷撃するために開発された同機の航続距離は長く乗員も多いために対潜哨戒には向いていると考えられたのだ。

 陸上哨戒機としては限定生産された実質上の実験機であった東海だったが、それに代わってこれを艦上機として転用する計画が開始された。当時アジア圏の植民地などから集積された物資や日本製の兵器、弾薬などを前線となっていた欧州まで輸送する護送船団が編成されていたが、この船団護衛部隊で運用する艦上哨戒機として東海を使用する計画だった。
 日本本土から欧州までは地球を半周するに等しい長距離航海だったが、大戦中盤にあってもドイツ海軍潜水艦隊は大西洋における通商破壊作戦を継続しており、またその航行距離や国際連盟軍制圧地域の偏在などの理由から航路全域をカバー可能な数の陸上哨戒機を配置するのも難しかった。
 その為に船団護衛部隊に有力な対潜哨戒機を搭載することが求められたのである。

 制式化された艦上哨戒機仕様の東海は、限定的ながら量産されていた陸上哨戒機仕様が零式であったのに対して制式年度に差があった為か二式と類別されている。
 その一方で陸上哨戒機仕様を東海11型、艦上機仕様を東海22型とする書類もあり正式な名称については不明点が少なくない。もっとも東海が海防空母に配属された頃は、哨戒部隊の訓練機などを除いて陸上哨戒機仕様が運用されることは稀になっており、単に東海と言えば艦上哨戒機仕様で通じたものと思われる。
 艦上機仕様にあたって東海は少なくない箇所に変更を加えられていたが、外観にはさほどの変化はない。着艦フックの取り付けや主翼外翼部の折りたたみ機構の追加などである。
 また、強い衝撃を受けるために主脚は構造材の強化やオレオ機構のストローク長の増大が図られた他、尾脚は収納式に変更されている。
 飛行甲板が短く、航行速度の低い海防空母から重量級の東海を自力発艦させるのは難しく、通常は油圧式の射出機を使用するため、胴体部の構造も強化されていた。
 もっとも元々東海は自機が発見した敵潜に対して250キログラム爆弾で急降下爆撃を実施することが要求されており、艦上機に改造するにあたっての機体構造強化は局部的なものに留まっていたという証言もある。
 使用されたのは主に対潜爆弾だったが、大戦後半では実用化された対潜誘導魚雷を運用した例も多かった。また固定式の銃兵装も主に浮上した敵潜を目標とするものだったが、当初搭載した7.7ミリ弾では威力が不足しており、後期は20ミリに強化されている。
 この機銃砲の強化は艦上機仕様への改設計によるものとされることが多いが、実際には細々と生産されていた陸上哨戒機仕様も同様に強化されていた。

 東海22型は艦上機としての改装によって機体重量は増大しており、元々アンダーパワー気味であったこともあってエンジンは天風から栄に換装されており、出力はほぼ倍増している。
 栄は元々最大出力時よりも巡航時の燃料消費を抑えていることから最大出力の増大の割に航続性能の低下はさほど大きくはなかったが、保証重量として燃料タンク容量が削減されていることもあり二割ほど航続距離は短縮されてしまっていたが、機動性のある空母から運用されたためか、致命的な問題とはされていなかったようである。

 制式化後は主に船団護衛にあたる海防空母に搭載された艦上哨戒機仕様の東海だったが、小柄な海防空母から運用するのが難しかったのか制式化された1942年度には部隊配備が開始されていたものの、実際に護衛部隊で実戦に参加したのは1943年に入ってからのことにあった。
 海防空母では搭載機数の半数を東海として対潜能力を高めていたが、大戦中盤以降は4機程度の分遣隊が航空戦隊隷下の正規空母にも配属される場合が多かったようである。


 


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