四三式夜間戦闘機極光




四三式夜間戦闘機極光


15試陸上爆撃機仮称銀河


<要目>
全幅20m 全長15.5m 自重7.7トン 乗員2名 武装20ミリ機関砲×4(内翼内×2、機首下部×2) エンジン出力2,400hp×2 最大速度595km/h 航続距離2,000km 四三式夜間戦闘機極光
全幅20m 全長15m 自重7.2トン 乗員3名 武装無し(スペースのみ) エンジン出力1,800hp×2 最大速度550km/h 航続距離2,220km 15試双発陸上爆撃機


 優勢な米海軍と太平洋で対峙する日本海軍は、個艦の優越を図った艦隊整備と平行して、漸減邀撃戦術の為に陸上に展開して広範囲の索敵と長距離攻撃を実施する航空部隊の増強に取り組んでいた。
 この戦備方針に従って開発されたのが一連の陸上攻撃機で、特に九六式陸上攻撃機とその後継である一式陸上攻撃機は機種改編途上ながら双方ともに第二次欧州大戦序盤における日本海軍航空隊の主力機として運用されたが、大威力の魚雷を抱えて長距離攻撃を実施することを優先して設計されていた大型の陸上攻撃機は大きな損害を出すことになった。
 その一方で一式陸上攻撃機の後継機としてすでに次世代の長距離攻撃機として15試陸上爆撃機と呼称された機体の試作が海軍隷下の研究機関である航空技術廠で進められていた。
 試作機の製造こそ航空技術廠で行われていたが、本格的な量産は研究機関である航空技術廠では難しいために、生産業者には中島飛行機が内定しており、試作機のエンジンも中島製で当時審査中だった護が想定されていた。

 だが、後に仮称銀河と愛称まで付けられていたこの機体は、陸上爆撃機という機種名が示すとおりにこれまでの陸上攻撃機とはやや性格が異なる機体だった。
 海軍の機種分類においては、魚雷攻撃や高々度からの水平爆撃を実施する攻撃機に対して、爆撃機とは命中率の高い急降下爆撃を行う機体だったのである。
 急降下爆撃は、対象に対して高い降下角で爆撃を実施することで機体に大きな負荷がかかるために、より高い強度が求められていた。そのために15試陸上爆撃機は双発機とはいえ大型で5から7人程度の乗員を有するこれまでの陸上攻撃機とは異なり、操縦員、偵察員、電信員という最低限の三名にまで乗員を絞ってまで機体を小型化させて強度の高い機体としていた。
 結果的に正面面積の小さなスマートな機体となった15試陸上爆撃機は、エンジンを問題が多く量産を断念した護から、中島飛行機がブリストル社との技術提携を進める中で唯一の自社技術のみのエンジンとして残されていたハ45に換装して完成しており、試作機の各種試験では一世代前の単発戦闘機をも凌駕する高速性能や、大型の陸上攻撃機をも超える航続距離を発揮しながらも、航空魚雷1発乃至50番爆弾2発の搭載が可能という優れた性能を発揮して関係者を喜ばせていた。

 しかし、第二次欧州大戦序盤におけるマルタ島沖海戦及びプロエスティ油田地帯への爆撃作戦で得られた戦訓が、それまで順調に進んでいた15試陸上爆撃機の開発に冷水を浴びせかけることとなった。
 両戦闘における戦訓には様々なものがあったが、海軍の基地航空隊にとって大きなものは、陸軍の重爆撃機に対して、陸上攻撃機は同程度の搭載量を有するものの、防御力が弱く敵戦闘機の妨害に極めて脆弱であるということ、それに電探技術などの長距離捜索能力の向上や対空攻撃手段の高性能化によって、雷撃戦闘が従来考えられていた程には有効ではないのではないかという疑問が呈された事にあった。
 後の世から見れば、この2つの戦訓が得られた結果には偶然が重なったものもあり、必ずしも正確なものとはいえなかったのだが、海軍航空関係者がこれを深く受け止めていたのは事実であった。

 重点整備機種となっていた一式陸上攻撃機は新規調達数が減少し、陸戦隊支援などの地上攻撃においても使用が難しかったことから輸送機や哨戒機に転用されることが多くなっていた。
 皮肉なことに、この当時試製東海や九六式陸上攻撃機を転用した実験機を用いて開発が終了していた磁気探知機などの新型対潜機材を搭載した一式陸上攻撃機は、哨戒任務に有利な多数の乗員や長大な航続距離を活かして、対潜哨戒機としては有力な機体となっており、特に英国本土に駐留した部隊の中には独海軍潜水艦隊に大打撃を与えたものも少なくなかった。
 そして、15試陸上攻撃機もこの騒動に大きく巻き込まれることとなった。接近しての雷撃も急降下爆撃も実戦においては大きな損害を受けるであろうことが明確であり、さらに軍縮条約の制限が緩んだことで主力艦の対米比率が上昇した日本海軍にとって、そこまでの大きな損害を受けることを強要される漸減邀撃戦術そのものが疑問視されていたのである。
 航空雷撃でも、急降下爆撃でもない、より損害の少ない航空攻撃手段を日本海軍は模索していたが、15試陸上爆撃機は想定されていた主兵装を失って文字通り宙に浮いた形になってしまっていたのである。

 陸上爆撃機、陸上攻撃機としての銀河の制式採用が危ぶまれた中で、夜間戦闘機としてその派生形が採用されたのは、半ば偶然によるものだった。
 基地航空隊主力となる陸上爆撃機としては採用の目がなくなっていた試製銀河だったが、機体性能そのものには不安があるわけではなく、中島飛行機では技術提携を行っていたブリストル社で基礎設計を行い、日本国内でライセンス生産が予定されていたセントーラスエンジンの空中試験機として使用されていた。
 空気抵抗の大きな空冷エンジンながら2,000馬力を超える大出力を発揮するセントーラスエンジンはスリーブバルブ方式の複雑な機構を持ってはいたが、初期不良の解消後は、当時の日本国内の航空機生産シェアで最大級の企業である中島飛行機の工作精度で十分に量産が可能だった。
 このセントーラスエンジンの量産のために、中島飛行機ではブリストル社と同じ工作機械を導入しており、英国製のエンジンと同等の精度で生産できたのである。
 当時の中島飛行機では実質上の失敗作となった二式重単座戦闘機の後継となる機体を開発中であり、その搭載エンジンとしてセントーラスの成熟につとめていた。そこでシベリア―ロシア帝国に亡命してきたラヴォアチキン戦闘機や鹵獲したFw190を参考としたカウリング艤装方式などを含めた総合的な実験機として銀河が使用されていたのである。
 セントーラスエンジン搭載型の試製銀河は、形式上航空技術廠委託の実験機という扱いではあったものの、両翼合計で5,000馬力近い大出力によって一線級戦闘機並の最高速度を発揮することが出来た。
 このエンジン空中試験機としての試製銀河は、その後ジェットエンジン搭載型へと進むのだが、この時点で海軍航空本部が注目したのは、夜間戦闘機、それも次期主力機の生産までの繋ぎとしての役割を期待してのものだった。

 この時期既に陸海軍の共同開発機として後に電光の愛称で知られる夜間戦闘機が開発中だったのだが、電探照準の旋回銃座の開発などに時間がかかっており、機首捜索用電探など他のコンポーネント開発に対して機体本体の開発が遅延している状態だった。
 それに対して従来の夜間戦闘機である陸軍の夜間戦闘機仕様用の二式複座戦闘機、海軍の月光共に旧式化が進んでおり、次期主力夜間戦闘機と現用機の繋ぎとなる機体が求められていたのだ。
 原型を陸上爆撃機とする試製銀河は、夜間戦闘機の要求に対して、多座による夜間戦闘時の航法、通信機能や電探などの搭載空間など大部分を満たしており、引き続き中島飛行機を担当とする夜間戦闘機仕様への改設計が開始された。
 この試製銀河のセントーラスエンジン搭載型の夜間戦闘機仕様とも言うべき機体となったのが、四三式夜間戦闘機極光だった。

 この当時、英国をはじめとする国際連盟軍参加諸国軍への兵器供与、輸出が本格化していた日本帝国陸海軍では、制式採用された兵器の年式をこれまでの皇紀表記から西暦表記に改めており、また同時に特に夜間戦闘機などの陸海軍共用機では両軍間である程度の名称基準の共通化も図られていた。
 そのため、四三式夜間戦闘機極光にとって、制式名称が四三式であり、極光は単なる愛称ということになっていた。

 四三式夜間戦闘機は短期間で夜間戦闘機への改設計が行われたこともあって、元々陸上爆撃機として開発されていた試製銀河に対して、同規模の大型戦闘機となる予定の電光用に開発されていたコンポーネントを搭載する形でまとめられていた。
 爆撃照準を行う偵察員は席ごと廃止され、操縦員席直前から機首上部には最大探知範囲20キロ程度の捜索用レーダーを装備し、機首下部には長砲身の20ミリ機関砲が左右合計2門装備されており、両翼の内翼部に追加されたものと合わせて、20ミリ機関砲は前方に合計4門を指向できた。
 重戦闘機並の前方固定機関砲の装備の代わりにレーダーの操作などに専念するために電信員が操作する後部旋回機銃は廃止されており、その点では月光や後の電光とは形態が異なっており四三式が応急であったことを示しているとも言えた。
 なお搭載されたレーダーは機首前方上部の捜索、射撃指揮用のものの他に、探知距離千メートル弱の後方警戒用のレーダーが尾輪格納庫後部に追加されている。
 前後の両レーダーは空中線がむき出しの従来型とは異なり、空気抵抗を低減するために電磁波を透過する樹脂製の風防で覆われていた。
 搭載された電子兵装はこれだけではなく、風防と尾翼間に逆探などを装備していた。

 月光と電光を繋ぐ応急機として陸上爆撃機から夜間戦闘機に転用された極光は、当初日本海軍が夜間戦闘機に期待していた迎撃戦闘機という任務に就くことは殆ど無かった。
 後部旋回機銃塔という日本海軍が夜間迎撃に必須と考えていた機構を保持していなかったこともあるが、それ以前に極光の実戦配備が開始された頃にはドイツ空軍は迎撃戦闘や前線への阻止爆撃を行う戦闘爆撃機の運用が殆どで、夜間迎撃専用機が必要な重爆撃機編隊による大規模爆撃など実施されることがなかったという方が大きな理由だった。
 迎撃任務に代わって極光が使用されたのは夜間長距離侵攻作戦だった。英国空軍のモスキートなどと共同での夜間爆撃に随伴しての護衛作戦、あるいはより積極的な単独での夜間戦闘機狩りに加えて、夜間対地攻撃にまで使用されていた。
 対地攻撃時は、前方固定の機関砲に加えて主翼下部に軽量高速のロケット砲弾を支持架を介して装備することが多かったが、初期生産型では未だ迎撃戦闘の需要が見込まれていたために支持架を取り付けることは出来なかった。
 夜間侵攻作戦に極光が使用されたのは、陸上爆撃機に由来するがゆえの長距離飛行能力を期待されたためでもあった。試製銀河の時点で機内には通常飛行用の燃料槽に加えて後部胴体に機内増槽が装備されていたが、長距離の夜間侵攻作戦時には使用されることの無くなった旧爆弾倉内に落下増槽を装備することが多かった。
 銀河では長距離の自力飛行進出用に爆弾倉内に前後2基、後部胴体下部に固定された後部機内増槽と合わせて3基の増槽を内装出来たのだが、極光では機首下部固定機関砲の機関部を収納するために、前部増槽を搭載することが出来なかったために、大型化が図られた専用の後部増槽が準備されていた。

 応急とはいえ、大出力エンジンと優秀な電子装備を兼ね備えた高性能夜間戦闘機として完成した極光だったが、陸上爆撃機を由来とする大型機であったため機動性に関しては純粋な戦闘機と比較されるレベルにはなく、夜の闇に紛れない限り単発戦闘機に対抗するのは難しかった。
 ただし、電子兵装を空気抵抗の少ない樹脂製風防内に格納したことや、昼間戦闘機並みの最高速度などから従来型の夜間戦闘機と比べれば高い完成度に達していたことは間違いなく、電光までの繋ぎではあったとしても双発重爆改造の応急夜間戦闘機などに代わって国際連盟軍の夜を守り切ったのも事実だった。
 また、歴史の闇に葬られる直前だった銀河の系譜を蘇らせて、後のジェットエンジン搭載型天河に至る道筋を残したのも、月光と電光の一瞬の間を飛び去った極光の隠れた貢献であったとも言えるだろう。


 


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