M3中戦車




M3中戦車


M3A1中戦車



M3A2中戦車


<要目>
重量30トン(M3A2は38トン)、全長5.9m、エンジン出力400hp、乗員5名、装甲厚80ミリ(最大)、武装40.1口径75ミリ砲M3、50口径76.2ミリ砲M7(M3A1)、53.5口径100ミリ砲D-10(M3A2)、12.7ミリ機関銃、7.62ミリ機関銃×4(最大)、最高速度40km/h

 第二次欧州大戦勃発時、予算に加えて先の大戦に参戦していなかったことから戦訓の蓄積が不足していた米陸軍は機械化部隊の近代化に遅れを取っていた。特に戦車部隊の中核である中戦車に置いてそれは顕著であり、第二次欧州大戦開戦当時に米陸軍が保有していたM2中戦車はM2軽戦車との部品レベルの共通性を要求されたこともあってか些か性能面で不満も持たれていたのだが、そうした声が大きくなったのは開戦以後に続々と参戦国が投入している主力中戦車の性能が漏れ伝わってきてからのことだった。
 こうした状況に鑑みて米陸軍もようやく重い腰を上げて本格的な中戦車開発に乗り出していたのだが、その目標となったのは友好国ソ連の新鋭戦車であるT-34であり、開発方針は無骨なソ連製T-34を有力な自動車産業が国内に存在する米国の高い技術力で再現するという大枠に則ったものであったと言われており、制式化されたM3中戦車のカタログスペックは概ねT-34に匹敵するものであったのだが、実際にはそのM3中戦車は米陸軍にとって妥協の産物と言えるものだった。
 何よりも 当時の米国軍需産業は他国と比べると海軍艦艇や後には航空機産業に偏っており、民間車の国内向け需要だけで会社を維持できる自動車産業は予想に反して軍需に冷淡だったのである。

 M3中戦車の開発にあたって最大の障害となったのはやはり予算不足だった。
 車体構造は旧式の鋲接構造であったM2中戦車と比べると溶接箱組構造へと進化していたのだが、一時期砲塔など複雑な形状となる箇所に関しては量産性と自在に形状や装甲厚をコントロールできる点にアドバンテージのある鋳造構造とすることも検討されていた。ところがM2中戦車までの小規模な中戦車の生産数では30トンもある巨大な戦車の部品を製造する鋳造工程を構築するのは割に合わないとされて溶接のみでの製造に切り替えられていた。
 車体前部には車外からカバーを介してアクセスできる変速機が設けられており、その上部には傾斜した装甲板を切り欠いて操縦手と前方銃手を兼ねる副操縦士が収まるスリット付きの装甲カバーが取り付けられていた。操行装置と繋がった変速機は大型トラック用のものを転用しており、信頼性は高いものの信地旋回が不可能で前後進中しか方向転換ができないという欠点が存在していた。
 また車体前面には銃手が操作する1丁の他に前方固定の7.62ミリ機関銃2丁が備えられており、主砲同軸の1丁とあわせて計4丁の7.62ミリ機関銃と砲塔上部の銃架に12.7ミリ機関銃1丁という豊富な銃兵装が装備されていたが、これは歩兵を支援して塹壕を突破するという従来の思想を反映したものだった。
 戦闘室を挟んで車体後部に収められたエンジンは、他国では例のない空冷星型エンジンを減速機に向かってシャフトを斜めに伸ばしながら搭載していたが、これも妥協の産物だった。開発当初はそれこそT-34に倣って戦車専用のディーゼルエンジンを新規に開発することも検討されていたのだが、これまでに例のないコンパクトながら大馬力のディーゼルエンジンの開発を打診された自動車メーカー各社は生産数に対して開発コストが大きく、1基あたりの生産コストが跳ね上がると判断していた。また大出力ディーゼルエンジンの開発ノウハウが他に生かせる分野がないことも自動車メーカーが撤退する大きな理由となっており、結局戦車にふさわしい出力とサイズが釣り合っていた航空機用エンジンが冷却機構を追加した上で搭載されることとなっていた。空冷星型エンジンは強制冷却ファンを含めても軽量ではあったものV型エンジンと比べると口径が大きく、これを車体に収めたM3中戦車は比較的車体が高い形状となってしまっていた。
 この車体を支えるサスペンションはM2中戦車に搭載されたものの発展形であり、渦巻きバネを垂直に配置して2個の転輪と上部支持輪、スキッドまでが一体化した構造を一組としたものだった。このユニット化されたサスペンションは信頼性が高く、車外から簡単にアクセスできるためにより先進的なねじり剛性を利用したトーションバー方式などと比べると整備性も優れていた。
 その一方で悪路走破性や急停止時における動揺周期といった戦闘時に必要な特性にはやや難があり、また重量化した後期型においては接地圧が課題となっていたこともあり、より大口径のバネを水平に配置した新型サスペンションが開発されていた。
 だが、この新型サスペンションも従来型との互換性を優先された為に性能面では妥協を余儀なくされていた。これは履帯も同様であり、舗装された米国本土で長距離装甲することを前提にふんだんにゴムを利用した履帯は車体規模からするとやや幅が不足しており、国内で運用する分には支障は目立たなかったものの、太平洋戦争における陸上戦闘の主戦場となったフィリピンの地形は、悪路が連続する熱帯雨林であったために適応しているとはいいかねるものだった。

 当初の想定とは異なり自動車産業の製造参入が無かったM3中戦車の製造は国営工廠が一括して行っており、生産期間の間殆ど変更箇所は無かったのだが、その例外となったのが砲塔部だった。
 原型となったM3に搭載された75ミリ砲は、元を辿れば第一次欧州大戦時に米国参戦を期待したフランスから参考輸入された野砲を原型としたものであり、第二次欧州大戦開戦時には有力な戦車砲といえるものだった。
 この75ミリ砲は炸薬量の大きい榴弾を使用できることもあって直接照準による歩兵支援や対戦車砲との交戦には十分な性能を有していたのだが、M3中戦車が実用化された大戦終盤には戦車砲としては陳腐化しており、T-34/85の概要がソ連から伝えられたこともあって長砲身で高射砲弾道となった50口径砲に換装したM3A1が開発されていた。
 しかし高射砲弾道の76ミリ砲は初速は高いものの、腔圧の高さから砲弾弾殻の強度が要求されるために榴弾の炸薬量では短砲身砲に大きく劣っていた。このため戦車を管轄する歩兵科上層部では歩兵支援能力の低下を危惧する声が根強く、一定の比率で従来型M3の生産も継続が求められていた。そのため太平洋戦争開戦時にはM3A1は脆弱な対戦車砲に代わって本来砲兵科が管轄する対戦車隊などに優先して配備されてはいたものの、歩兵師団配属の戦車大隊は大部分がM3で構成されていた。なおM3A1の形式名は本来制式化後に明らかとなったM3の様々な欠陥を修正した型式となることを想定されたものだったが、陸軍の予算不足から車体部は既存設計のままであり、M3とM3A1の違いは砲塔部分だけであった。

 中立国であったとは言え米国陸軍も第二次欧州大戦時には相応に軍拡に乗り出しており、自動車産業の予想に反してM3中戦車の生産数は従来米国で生産されていた戦車を総計したよりも多く1000両の大台に達していた。開発時は各部が既存設計の流用で妥協されたとは言えM3中戦車は工業大国である米国の信頼性の高いコンポーネントで構成されており、参考輸入車両を試験したソ連軍からも信頼性や整備性は高く評価されていた。また大戦終盤に投入された日本陸軍の四五式中戦車も高射砲弾道3インチ級砲を装備していたことがソ連から伝わったこともあり、米陸軍は当分は大戦中に大量生産されたM3中戦車を主力として運用する計画だった。
 こうした評価が一変するのは、ソ連軍の戦後第一世代戦車といえるT-54が100ミリ砲を備える事が伝えられてからのことだった。その時点でM6重戦車では105ミリ砲を装備したM6A2の生産が始まっていたものの、中戦車の火力増強に用いるには重戦車用の65口径105ミリ砲を搭載するのは難しく、当時米ソ関係が悪化していたにも関わらずソ連製のD-10、50口径100ミリ砲をライセンス生産の上M3中戦車に搭載する計画が持ち上がっていた。
 これがM3A2仕様となるのだが、大口径化によって砲塔部の重量が増大することから足回りの改善が施されることになり、長年戦車関係者が要望していた数々の改善点もようやくこの時点になって織り込まれていた。
 追加装甲や車体前面装甲の強化が施されたM3A2だったが、兵装面での変化も大きく実用性に乏しいとみなされていた車体部機銃は機銃手ごと廃止されて機銃手は無線士に変更されていた。
 一方で互換性を重要視されたこととと、航空機用の生産が優先されていたことを理由として以前からアンダーパワー気味が指摘されていたエンジンに関しては出力向上型への換装は果たせず、結果的にM3A2はA1以前よりも鈍重という印象をうけた乗組員が多かった。
 太平洋戦争時はM3A2は生産されたばかりであり、また米軍が四五式中戦車の備砲を誤認していた事もあって日本軍相手であればM3A1の性能でも十分と判断されており、フィリピンに配備されていたのは熱帯における運用試験を行っていた部隊の極小数に限られていた。
 急遽備砲を含む砲塔のみをM3A2仕様としたM3A2Eも暫定的に生産されていたが、実際には新規製造された砲塔のみを後方から持ち込んだ現地改修がほとんどであり、そうした急造車両は重量増加を足回りが吸収しきれずに故障が頻発していたと言われている。


 


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