二式局地戦闘機雷電




14試局地戦闘機試作一号機


局地戦闘機試製雷電二号機


二式局地戦闘機雷電


<要目>
全幅10.9m 全長10.1m 自重2.6トン 乗員1名 武装20ミリ機関砲×4(主翼:スペースのみ、代替重量品搭載) エンジン出力1,800hp 最大速度640km/h 航続距離1,800km 14試局地戦闘機
全幅10.9m 全長9.69m 自重2.5トン 乗員1名 武装20ミリ機関砲×4(主翼) エンジン出力1,800hp 最大速度620km/h 航続距離1,800km 二式局地戦闘機雷電


 1930年代後半、欧州での新型戦闘機の相次ぐ就役に影響された日本陸軍は、高速戦闘機を指向した重戦闘機を含む兵器研究方針を改訂しており、それに釣られるように日本海軍航空本部も基地防空戦闘などに使用する局地戦闘機の開発に乗り出した。
 しかし、この時点で政治的な対立が悪化していた欧州やその欧州に派遣される可能性の高い陸軍ならばともかく、この時点では仮想敵である米海軍に対する戦備に集中していた日本海軍にとって、航空機の整備方針は水雷戦隊などと並ぶ長槍としての攻撃機能に特化した陸上攻撃機や艦隊航空戦力に集中しており、防御に使用する迎撃戦闘機の優先度はさほど高くはなかった。

 当初海軍航空本部は当時海軍の戦闘機を半ば独占的に納入していた実績のある三菱重工に局地戦闘機の開発を指示する予定だったのだが、三菱重工の戦闘機開発班ではこの当時零式艦上戦闘機の実用化の真っ最中であり、また初期型の実用化の目処がたった時点でスペイン内戦の戦訓や英国本土に姿を表したドイツ空軍の新鋭機Fw190への対抗などから次々と改設計、さらには次期主力艦上戦闘機の開発が行われたため、艦上戦闘機とは設計思想からして異なる局地戦闘機の開発に割り振れる人的リソースは存在しなかった。
 そこで航空本部は部内の研究開発機関である航空技術廠に対して高速戦闘機試作の指示を出した。

 空技廠ではこれに対して、当初は同時期に試作開発が行われていた二式艦上爆撃機彗星と構造の一部を共通化した水冷エンジン搭載機を考案していたものの、彗星の製造を行う愛知時計電機に生産ラインの余裕はなく、機体の設計には関わらなかったものの試製戦闘機の製造業者は航空本部の意向で三菱に指定されていた。
 三菱では水冷エンジン搭載機の製造ノウハウがなく、また中島飛行機と技術協定を行って零式艦上戦闘機の水冷エンジン搭載型である44型の試作開発を行っていた愛知時計電機にもこれ以上の技術者のリソースがないため、水冷エンジンの搭載は断念せざるを得なかった。
 しかし、当時の小口径戦闘機用空冷エンジンはすでに零式艦上戦闘機に搭載されており、それどころか本来より大型の艦上攻撃機や陸上攻撃機に搭載するはずのより大口径の金星エンジンを搭載した型まで試作中であり、運用上これよりも高速を要求されていた高速戦闘機に搭載するには問題が少なくなかった。

 残された手段は、金星エンジンよりも大口径であってより大出力な多発機用エンジンの搭載しか無かった。そこでこの時点でも1800馬力を発揮する火星エンジンの搭載が求められた。
 空技廠では、このまま従来の戦闘機と同じ手法で大口径エンジンを搭載するままでは、画期的な高速性能を発揮するのは難しいとの判断から、数々の新機軸を導入して空冷エンジン搭載機でも水冷エンジン搭載機並に空気抵抗を極限することを企画した。
 まず大口径のエンジンを機首に搭載したままでは抵抗が大きくなると判断した空技廠はエンジンを機首後方に配置して、絞り込んだカウリング形状としてエンジンとプロペラ間は長大な延長軸を使用して動力を伝達するものとした。
 通常は機首下部などに配置する滑油冷却器も、中島製戦闘機を参考にした環状の冷却器をこの延長部に配置した。また、この環状冷却器の前方には延長軸に連結された強制冷却ファンを設けて絞りこまれたカウリング開口部から冷却空気を取り入れるとしていた。
 しかし、空気抵抗のさらなる削減を試みた空技廠では、さらに絞り込んだカウリング形状と繋がる曲線を持つ巨大な鋭角スピナーを装備していた。これにより試作局地戦闘機の空気抵抗は水冷エンジン並か、液冷用の冷却器が存在しないことを考慮すればそれ以下になる、はずだった。

 14試局地戦闘機と当時呼ばれていたこの試作戦闘機は、当初から冷却性能が不足しているのではないかという危惧が特に製造業者である三菱側から出てきた。
 三菱では機能設計段階では自社設計陣を関わらせておらず、試作機の製造段階でも事実上の実験機でワンオフものであることから、ほとんど熟練工の手作りであり製造図面も最小限に抑えられていたが、この試製戦闘機の性能次第では量産もありうるとされある程度は期待していたようである。

 だが、製造後、実飛行において三菱側の危惧通りに14試局地戦闘機は数々の問題を露呈してしまった。冷却能力不足は当初から空技廠でも把握していたはずだった。
 空気抵抗を削減することを再優先としたために、冷却器取り入れ口となるカウリング開口部とスピナー間の隙間は狭く、さらにエンジン本体前方には環状滑油冷却器が設置されており、その熱量も加わってエンジン冷却が追いつかなかったのだが、空技廠では14試局地戦闘機の試作1号機では半ば実験機として割りきっており、長時間の全開飛行が出来なくとも妥協するとしていた。
 だが、エンジン加熱問題は空技廠の想定を超えており、ごく短時間でエンジンがオーバーヒートを起こすために最大速度の計測も不可能だった。

 この冷却問題に加えてプロペラ延長軸の振動問題が発生したため、試作1号機は製造元に戻されて本格的な形状変更を行うとともに、製造中の試作2号機は基本的な構造はそのままにカウリングに開口とダクトを設けて冷却空気の取り入れ量の増大を図っていた。
 同時に延長軸振動問題に対処するため、三式襲撃機に関連して同様の問題に対応していた川崎航空機の例に習って延長軸の強度を向上させるとともに、軸ブレを抑えるためプロペラ周りの徹底的なバランシングと軸受けの追加が行われていた。
 これによりある程度のエンジン冷却と軸振動には対処できたものの、試験飛行ではその後もエンジンオーバーヒートが連続したことが記録されており、根本的な解決にはならなかったようである。
 しかし、より大きな問題は実機による試験飛行ではなく、模型を使用して行われていた風洞内の実験で発生していた。実機製作前にも風洞実験は行われていたのだが、この時期日本国内ではジェットエンジンなど新時代の航空技術開発が進められており、その一環として従来よりも巨大で能力の高い風洞が製造されていたのである。
 その新設された高速風洞での追加実験において、空技廠が極限まで空気抵抗を削減することが出来ると考えていた紡錘形理論を否定する数値が出てきてしまったのである。

 雷電は紡錘形理論を元に、大口径の火星エンジンを搭載する隔壁が胴体の最大面積となるように前後が絞られた形状となっていたのだが、実際には金星エンジンを従来通りに機首前端に搭載した零式艦上戦闘機33型や、鹵獲機によって詳細な構造が判明したドイツFw190などの大口径空冷エンジン搭載機の先例が出てきたことで、14試局地戦闘機に対して海軍がかけてきた期待は大きく低下していた。
 今更14試局地戦闘機を従来配置とするだけの設計コストを掛けるのは難しく、それだけの設計リソースは零式艦上戦闘機33型と同様に陸上戦闘機を兼ねる次期主力艦上戦闘機につぎ込まれることとなった。

 結局、14試局地戦闘機は試作1号機の改修でスピナーを小型化して開口面積を増大させるとともに、大型の滑油冷却器をカウリング下部に配置して冷却問題を解決した姿で一応は制式化され2式局地戦闘機雷電とされたが、海軍ではこの当時は既に艦上戦闘機を陸上戦闘機として運用する手法が確立されており、そもそも基地防空戦闘用の局地戦闘機の需要が少なかった。
 日本海軍では本土防空部隊に少数が配備されたのみで終わったが、第二次欧州大戦の勃発で外国からの高性能戦闘機の輸入が難しくなった中華民国向けに生産ラインごと売却されてある程度の数が配備されていた。


 


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