鵜来型海防艦




鵜来型海防艦


鵜来型海防艦後期型


<要目>
基準排水量 940t   全長 79m  ディーゼル 出力 4,200馬力(二軸)
最大速度 19.5ノット  乗員 150名

兵装
単装40口径12.7サンチ高角砲 1基、同連装 1基
単装25ミリ機銃 2基(初期生産型)
三連装25ミリ機銃 4基、同単装 9基(後期生産型)
爆雷投下軌条 1列
爆雷投射機 12基
 1930年代半ば以降の国際情勢の悪化を受けて日本帝国は戦時標準規格船を始めとする戦時量産を前提とした艦船の設計を開始した。その中で船団護衛を主目的とした護衛艦艇として計画されたのが鵜来型海防艦である。
 第一次欧州大戦に参戦した日本海軍は、通商路確保のためには大量の護衛艦艇が必要との戦訓を得ていた。船団護衛用のこの艦艇は対水上戦闘は自衛戦闘が可能な程度で十分だが、船団にとって脅威となる対潜戦闘を主目的としていた。
 また、この種の艦艇は平時においては整備の必要性が薄いが、戦時には大量建造が必要だった。このため開戦前の日本海軍が建造した海防艦は、戦時量産用艦艇のプロトタイプとしての傾向が強かった。
 このプロトタイプとしては千島列島の警備などに当たる占守型が建造されていた。占守型は近海に出没する米国などの外国艦艇を警戒するために北方警備部隊として編成された第5艦隊隷下に置かれた。この海域では同時期にシベリアーロシア帝国海軍の警備艦艇も同様の任務につくことが多く、排水量一千トンにも満たない小艦艇ではあったが諸外国艦艇との接触も多いことから、制度上は軍艦籍にあった。
 鵜来型はこの占守型から不要な北方警備用の暖房や解氷装置などを取り除いて簡略化を図ったもの言っても良かったが、占守型とは任務が異なることから同じ海防艦であっても軍艦籍は与えられなかった。その為船型は同程度であるにもかかわらず指揮官の階級などは著しく異なっていた。

 鵜来型は燃費の良いディーゼルエンジンの搭載もあって航続距離は長かったが、機関出力は小さく速力は低かった。主目的があくまでも輸送船団の護衛であったために、駆逐艦のような高速性能を要求されていなかったためだった。
 航続距離も、超長距離船団の護衛につく際に途上での給油回数を減少させるためだった。英国海軍では洋上補給などを考慮せずに、カナダ航路ではカナダと英国本土から出動した護衛部隊を大西洋の中間で交代させていたが、日本本土から英国などに向かう船団では距離が長すぎて直接船団に護衛艦艇を随伴させるしか無かった。

 日本海軍では鵜来型と同時期に、同様のブロック建造と電気溶接を多用した戦時量産型の戦闘艦艇として松型駆逐艦を建造していたが、松型駆逐艦がそれまでの高性能な艦隊型駆逐艦などを補填するために最低限の質を確保したあくまでも駆逐艦として設計されていたのに対して、鵜来型海防艦は対潜や対空護衛戦闘を重視しており、対艦攻撃能力が無きに等しい代わりに爆雷投射機数や搭載定数は多く、対潜戦闘能力は高かった。
 対空戦闘能力も松型駆逐艦とほぼ同等であり、哨戒機の妨害程度は十分に可能だった。もちろん搭載された高角砲は浮上した潜水艦との水上砲撃戦もある程度は可能だった。

 松型駆逐艦と共に第二次欧州大戦勃発に前後して大量建造が開始された鵜来型海防艦は、初期生産型の戦訓を受けて改設計が続々と行われていた。その内容も松型駆逐艦同様に近接対空砲火である機銃の増備や新兵器である前方投射兵器である対潜迫撃砲の一種であるヘッジホッグなどが搭載されたほか、その任務上常に最新鋭の水中探信儀や聴音機が装備されていた。
 だが、対潜終盤になると潜水艦の水中航行速度が著しく向上したこと、艦型の小ささから搭載能力が制限されることなどから鵜来型海防艦の有用性は失われつつあり、日本海軍では護衛艦艇としての数上の主力はより搭載能力のある松型駆逐艦に移行しつつあった。
 第二次欧州大戦終結後は多くの艦艇が哨戒艦艇として独立間もない東南アジア旧植民地諸国や大戦で疲弊した欧州諸国に売却された。一部の艦艇は想定の艦齢を大きく超えて長期間現役に留まっていた。




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