東雲型駆逐艦



特務艇不知火(1919年)





<要目>(特務艇改装後)
基準排水量300t   全長 63.6m  蒸気レシプロ 出力 3,650馬力(二軸)
最大速度 20.7ノット  乗員 78名(陸戦隊員含)

兵装
単装40口径8サンチ砲 5基
他、陸戦隊員半個小隊及び揚陸設備

 東雲型を含む小型駆逐艦は、日露戦争前後に相次いで就役した日本海軍駆逐艦の嚆矢であったが、駆逐艦が排水量で区分されるようになって後は、三等駆逐艦に類別され、事実上の戦力外となってしまった。
 これは、当時の三等型駆逐艦では船型が過小であり、航洋力が著しく不足していたためであった。
 さらに、日本帝国が、第一次欧洲大戦への本格的な参戦を決意したため、駆逐艦においても概要で主力艦と艦隊行動を共にする出来るだけの大型艦が主力となり、三等駆逐艦は、次々と雑役船や運荷艇へと類別されていった。
 技術的な面から見ても、この時期は蒸気レシプロ機関から蒸気タービン機関への移行時期であり、ある意味、三等駆逐艦は、ドレットノート以前と以後で大きく戦力価値に差が開いた戦艦と同じ運命をたどったといっても過言ではなかっただろう。

 東雲型駆逐艦不知火及び陽炎も他の三等駆逐艦同様に雑役船へと類別されるはずだったが、この二隻のみは揚陸支援を目的とした特務艇へと改装が行われた。
 ガリポリ上陸戦への参戦を契機に計画が開始された揚陸艦開発であったが、のちの第二次欧州大戦において登場したビーチング式揚陸艦のように自ら沿岸に上陸するわけでも、また発動艇多数を搭載したドック型の揚陸艦とも異なり、揚陸専用機材は特に搭載されなかった。
 乗艦させた半個小隊程度の陸戦隊員の揚陸は、従来同様にカッターに分乗して行われていた。
 搭載艇がカッターから発動艇に切り替わったことを除けば、その性質は、後の一等輸送艦や駆逐艦改装の哨戒艇のような高速輸送艦に近いものであったようである。
 兵員や機材の搭載方法も、甲板室の増設の他、第一缶室を撤去し、その空間を居住区に当てるなど後の一等輸送艦との共通点は多く、一等輸送艦の艤装に関して影響を与えたことは間違いない。

 半ば実験艦として(他に類別しようがないため)特務艇として改装された不知火と陽炎であったが、改装直後にシベリア出兵に出動している。
 船型が小型であったためアムール川周辺での行動が可能であると判断されたためだったが、同時に、代用砲艦としての任務を兼ねた派遣だった。
 不知火と陽炎は、揚陸支援が任務であったため、原設計から重量軽減と使用する可能性が低いために魚雷発射管と57ミリ砲を排除する代わりに、揚陸した陸戦隊の支援火砲を兼ねた8センチ砲を増載している。

 実戦テスト的な出動ではあったが、水上機母艦高崎と共に臨時戦隊を編成した二隻の特務艇は、航空偵察と急速揚陸を駆使してシベリアーロシア帝国成立前後のアムール川周辺の治安維持に活躍している。
 また、出動直後に、シベリアまで脱出してきた後のロシア女皇となるマリア及びその妹アナスタシア両皇女を救出するという功績を上げている。

 シベリア出兵において輝かしい功績をあげた臨時戦隊であったが、不知火と陽炎の活動時期はさして長くはなかった。
 シベリア―ロシア帝国成立後は、臨時戦隊はシベリア派遣軍とともに、ロシア支援軍と所属を変えたが、ロシア帝国とソビエトとの事実上の国境線がバイカル湖周辺で固定されると、臨時戦隊が活躍する余地は消滅していた。
 ロシア帝国成立後数年で、臨時戦隊は、早々と高崎がアムール川を離れ編成を解除されている。

 臨時戦隊解体後も不知火と陽炎はアムール川に残ったが、その活動は不活溌なものとなった。
 不知火と陽炎は改装されたとはいえ、元々は駆逐艦であり、アムール川を上流まで遡行させるには喫水が深すぎたし、両艦が航行可能なアムール川周辺域の平定はすでに終了しており、周辺ではゲリラ鎮圧も軍事行動から警察行動へと移行していた。
 このような任務には、重装備の不知火と陽炎は不適切であり、また艦齢も超えて老朽化していたことから、1930年頃に揃って解体された。
 老朽化した二隻が、無事に日本海を超えられるか不安視されたため、除籍、解体はアムール川に面したシベリアーロシア帝国首都ハバロフスクで行われた。

 シベリアーロシア帝国軍、特に両皇女に同行したヴォスネセンスキー・ユサール連隊員の中には、両皇女救出に功のあった二隻、あるいは不知火だけでも記念艦として保存しようという声も上がったが、予算や保管場所に折り合いがつかず、結局僚艦はハバロフスク近くの河川造船所で解体された。
 解体直前に、アナスタシア皇女が不知火を訪れ、しばらく一人で艦内を歩いたと言われているが、公式記録には残されていない。





 


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