ドヴォアチヌ D.525




ドヴォアチヌ D.520



ドヴォアチヌ D.525


<要目>
全幅10.18m 全長8.76m 自重2.8トン 乗員1名 武装20ミリ機関砲×1(機首×1) 7.5ミリ機銃×4 エンジン出力910hp 最大速度530km/h 航続距離1000km
全幅10.18m 全長8.95m 自重3.2トン 乗員1名 武装20ミリ機関砲×1(機首×1) 7.5ミリ機銃×4 エンジン出力1,475hp 最大速度610km/h 航続距離630km

 ドヴォアチヌ社が開発したD.520はその高い性能から期待の新鋭機ではあったが、第二次欧州大戦序盤でフランスが降伏する直前に制式採用されたことなどから生産数は少なく、フランス侵攻前後から一大増産が行われたものの、雑多な旧式機を完全に代替することは到底出来なかった。
 フランス共和国のドイツへの降伏直後に当然ながら生産は停止したものの、その後のいわゆる休戦軍と俗称されたヴィシー・フランス軍でも継続的に使用されることが決定されて生産が再開されたが、植民地警備以外各軍の規模が縮小されたことなどから生産ペースは著しく低下していた。

 しかし、ヴィシー・フランスの政策変更がD.520の運命を大きく変化させることになる。
 旧フランス植民地に退避して中立を保つとしていた旧フランス海軍艦隊に対する相次ぐイギリス海軍の攻撃にフランス本国の反英感情は悪化し、日本帝国の参戦と新たに結成された国際連盟軍によるインドシナ植民地への侵攻、さらにはヴィシー・フランス政権から見れば逃亡犯罪者集団である自由フランスが国際連盟軍への参戦、協力と引き換えの旧植民地独立を承認したことで、反英感情は半国際連盟、親枢軸へと強まっていきヴィシー・フランス政権の枢軸側での参戦を招いた。

 だが、フランスの降伏からこの再参戦までの間に、主力戦闘機であるD.520の性能はその間に進化を続けていた各参戦国の新鋭主力戦闘機に劣位にあった。
 本格的な参戦に伴い、国際連盟軍との本格的な戦闘が開始されたが、これにヴィシー・フランス空軍は数、性能に劣る戦闘機で戦わなければならず、一刻も早い高性能戦闘機の取得が求められていた。
 この要求に従ってヴィシー・フランス政権側に残ったドヴォアチヌ社が開発したのがD.520の改造型であるD.525だった。

 元々ドヴォアチヌ社ではエンジンの換装を中心とした機体改装案を計画していたのだが、これはオリジナルのD.520が搭載されていたのと同じ液冷V型正立水冷エンジンに換装するものだったが、いずれも試作機の製造のみで計画は中止されていた。
 これらの改装案の廃案理由はエンジン出力が微増で機体性能にさほど変化が見られなかったものや、ドイツへの降伏で英国製エンジンの取得が不可能になったものなど様々であったが、次期主力戦闘機になり得ないのは確かだった。
 そこでドヴォアチヌ社のスタッフは現状の情勢で入手できる最も強力なエンジン、すなわち新たな同盟国となったドイツ製の水冷エンジンであるダイムラー・ベンツDB605の搭載を計画した。
 これが最終的にD.525としてまとめられた戦闘機となったのだが、その設計作業は容易なものではなかった。原型となるD.520や計画されていた派生型がいずれもクランクシャフトに対してV型配置にシリンダーを斜め上側に配置する正立配置であったに対して、ドイツ製のDB605は反対にシリンダーが下方に広がる倒立配置であったためだ。
 水冷エンジンの倒立配置は熱源であるシリンダーを下方に配置できる上に、シリンダーの配列が上方に突き出ないために機首上面幅を最小限として操縦席からの前下方視界を良好に保つことが出来るという利点があるために主にドイツ空軍が好んだ配置だったが、実際には潤滑油の使用量が正立配置に対して過大となる、エンジン全体に対してプロペラ軸線が下方に来るためにプロペラと地面とのクリラランスを確保するために主脚を伸ばす必要が出てくるといった欠点も多大だった。

 しかし、ヴィシー・フランス空軍では再軍備を急ぐためにかなりの欠点に目をつむってでもD.520の性能を強化する必要性を感じており、結局はドヴォアチヌ社がDB605にエンジンを換装するに当たってとった手段はかなり強引なものとなった。
 エンジンの推進軸線がこれまでのエンジンと異なるために、通常であれば主翼や尾翼の配置や形状に変更が加えられるところだが、設計期間の短縮、生産ラインの維持の為に機体構造は殆ど手を付けられておらず、その分のしわ寄せが機首部分に集中した形になっている。
 まず推力線の違いを打ち消すためにエンジン取付架台は機首尾に角度をつけて配置されており、この取付角度の違いや増大する潤滑油使用量に対応するための潤滑油タンクの増大分の空間を捻出するためにエンジン取付架台の隔壁が従来のD.520から前方に移動していた。
 このエンジンと胴体の間に差し込まれた空間によって機首が伸ばされて、結果的にプロペラと地面とのクリアランスもある程度は改善するはずだったが、それでも従来のプロペラではそのまま使用するには長すぎるために、全長が短縮された新型プロペラに換装されたが、増大したエンジン出力を受け止めるにはこのプロペラはやや貧弱なものであり、最終生産型では幅広形状のものに再度換装されている。

 ドヴォアチヌD.525は量産体制の確保のために最適設計を捨ててでも従来の生産ラインに適合させたいわば妥協の産物であったのだが、それだけに設計期間は短くドイツのダイムラー・ベンツで生産された純正のDB605を搭載した試作型は早々に完成し、1942年末にはヴィシー・フランス空軍によって制式化されたのだが、フランス国内でライセンス生産を請け負っていたルノー社の生産体制構築に時間がかかったために、一時期はドヴォアチヌ社の生産工場でエンジンが取り付けられていない機体が大量に滞留する事態が発生しており、実戦部隊への配備が開始されたのは1943年中盤、実戦投入開始は国際連盟軍のシチリア島上陸作戦に呼応して開始されたシチリア海峡航空戦となった。
 ルノー社の生産工場はパリにとどまっており、正確にはヴィシー・フランス領ではなくドイツ占領地であったため、当初はこのエンジン生産遅延はレジスタンスによるサボタージュが疑われており、戦後ルノー社が占領軍に協力した戦犯企業指定を逃れるために盛んに宣伝されていた時期もあったが、実際には技術的な問題に過ぎなかったことが判明している。
 本格量産開始後はヴィシー・フランス空軍の主力機として大量生産されたが、性能は向上したもののD.520との操縦性の違いから部隊配備当初は運用事故が少なくなかった。


 


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