浦賀型海防空母





<要目>
基準排水量 12,500t   全長 180.0m  全幅 35.0m  蒸気タービン 出力 25,000馬力(二軸)
最大速度 22ノット  乗員 1030名

兵装
三連装25o機関銃 10基
搭載機 固定翼機20機(海上護衛任務時)

同型艦 25隻


 戦時標準規格貨物船を原型として三原型海防空母の建造を行なった日本海軍ではあったが、三原型の就役直後より次なる海防空母の設計に着手していた。
 三原型で一応の完成を見た海防空母ではあったが、船団護衛用の空母としてはまだ能力不足が否めなかった。日本本土から英国本土まで至る長距離大規模船団の随伴護衛を行うには三原型では過少であり、効率的な護衛を実施するには複数隻の貼付けが必須であると分析されたからである。
 日本本土から英国本土は極めて遠距離にあり、航行距離、時間も大きくなっていた。勿論、三原型の航続距離などの航行性能が問題とされたわけではない。というよりも三原型の船体は大部分を戦時標準規格貨物船から流用しているため、船団を構成する貨物船と同等の航行性能を持っており、給油などの補給タイミングは貨物船と同様であり船団と随伴するだけならば正規空母よりも適切であった。
 しかし、ドイツ海軍の水上、水中艦による襲撃が予想される危険海域も多く、そのような海域では密度の高い航空援護が必要だった。だが、予想脅威に対して三原型海防空母の航空機搭載数及び整備能力では十分な数の航空援護を船団に提供するのは難しかった。
 そこで、建造中の貨物船を改造するのではなく、戦時標準規格貨物船の設計を流用しながらも、新たに一部を改設計し大型化した空母として浦賀型海防空母が建造された。

 浦賀型は当初は三原型を純粋に拡大して搭載機を増大させた艦として設計されていた。しかし、戦訓と新型機の搭載計画によって、浦賀型の設計は大きく変更されることとなった。
 まず、当然のことながら浦賀型ではまず、三原型と比べると船体の大型化が図られることとなった。排水量で三千トンの増大は格段に広大となった格納庫と豊富な予備部品や整備員の環境を考慮した整備区画によって高い整備能力を持つこととなった。

 排水量の増大以上に機関出力は向上が図られた。船団に対して有効な航空援護を与えるために、しばしば海防空母は航空機の離着艦のために船団進路を離れる必要があったが、そこから船団内の定位置に復帰するためには船団を構成する貨物船よりも格段に早い速力が求めらえたからである。
 そこで浦賀型では戦時標準規格貨物船と同時にブロック建造で大量生産に突入していた松型駆逐艦の主機を流用することとなった。これは従来型駆逐艦よりもは低出力ではあったものの、三原型や戦時標準規格貨物船などと比べると格段に高出力の蒸気機関であったが、量産体制の確立された松型のおかげで生産数も多く、性能も安定していた。
 浦賀型の機関構成は松型に類似したものとされ、二軸を稼働させるタービンとボイラーが搭載された。ボイラーからの排煙は一本にまとめあげられたうえで、艦橋と半一体化した煙突から排気された。

 浦賀型の格納庫は三原型と比べると閉囲構造に近づいている。これは逆行しているようにも見えるが、被弾による戦訓から、三原型の開放面積が明らかに過大であることが判明したからである。
 実際には、もっと開放面積が少なくとも、搭載機の誘爆程度で生じた爆圧ならば十分に逃げることが判明していた。そのうえ、過大な開放壁面は吹きさらしとなって整備性を低下させる要因にもなっていた。
 そこで、浦賀型では大部分を閉囲構造とした上で、開放部を新たに開発されたサイドエレベーターとすることで開放空間を確保すると共に、有効活用を図っている。
 サイドエレベーター自体は数年前に米海軍の空母で取り入れられた装備で、日本海軍の空母では大鳳型でも一時採用が論じられていたが、開発が難航したため一番艦では取り入れられていなかった。
 浦賀型は、日本海軍で初めてサイドエレベーターを採用した空母となった。サイドエレベーターの採用によって、これまでの飛行甲板の一部をエレベーターとしたインボード型では不可能であった機体の収容と同時の離着艦が可能となった他、格納庫空間の有効利用も図られることとなった。
 浦賀型の実績から、改大鳳型では全てのエレベーターをサイド式とすることとなった。

 実は大鳳型及び改大鳳型と浦賀型の共通点はサイドエレベーターのみではない。というよりも、浦賀型は船体構造こそ三原型に準じた戦時標準規格貨物船のブロック構造設計を発展させたものではあったが、その航空艤装に限ればほぼ正規空母と同等のものが装備されていた。
 油圧カタパルトも大鳳型が二番艦から二基装備していたものを浦賀型でも一基装備している。カタパルトと対になると言っても良い着艦拘束装置、アレスティングワイヤーも改大鳳型と同様のものを数を減らして装備している。
 このように航空艤装を強化したのには三原型と比べて格段に大きな機体を運用するためだった。

 三原型を運用開始した後に、日本海軍は対潜哨戒機東海を就役させた。東海は世界初の対潜哨戒機であり、電探や逆探の他、磁気探知装置を装備していた。元々は海上捜索電探による電波警戒を目的としていたが、短距離かつ浅深度であれば磁気探知装置でも潜水艦を探知することが可能だった。
 もっとも東海自体の機体性能は中途半端と言えた。東海は低速での長時間滞空が可能だったが、対潜哨戒機の主力は、実際は一式陸上攻撃機などが多用されていた。
 これは三座の東海よりもより大型の陸攻の方が乗員が多い分長時間の対潜哨戒でも乗員の疲労度が小さく、また各哨戒用機器や対潜爆弾などの機材の搭載量も多かった。
 また、このころは一式陸攻は防弾性能が低いことから攻撃的な任務にはほとんど使用されず、大半が哨戒機に転用されていたのである。
 そのため東海用として開発された機材の多くも一式陸攻などの増強機材として使用されていた。その後の陸海軍基地航空隊の独立化、すなわち空軍の設立時も一部の陸攻は海軍籍に残されて対潜哨戒部隊として運用された。

 この流れのなかで、半ば実験機扱いとなっていた東海だったが、これを脚部などの構造を強化した上で艦上対潜哨戒機として運用する案が持ち上がった。
 陸地を遠く離れた洋上での哨戒任務は母艦航空隊がこなさなければならなかったが、この頃の母艦機では対潜哨戒に難があり、ハンターキラーという二機一組での対戦チームを組む必要があった。しかし、東海では一機で完結した対潜行動が可能であり、その分のリソースを護衛機などに回すことが可能であると考えられたのである。
 また、東海の運用によって長期間の航行をしいられる長距離輸送船団の安全度が格段に向上することが期待された。
 そこで浦賀型では、カタパルトからの発艦や拘束装置での着艦を可能とするよう構造が強化された東海二二型の運用能力を持たされることとなった。
 東海二二型は構造の強化のほか、格納庫への収納性を高めるために主翼の折り畳み機構などが追加されたが、それでも従来機よりも格段に空間を必要とした。
 浦賀型が三原型よりも格納庫面積が拡大されていながらも、搭載機が同程度であるのは、東海の搭載によるものである。三原型では単発機二十機を搭載して航空隊を編成するが、浦賀型が長距離護衛任務に着く際は、東海対潜哨戒機十機と護衛の単発戦闘機十機で航空隊を編成した。

 さらに浦賀型では、このような大型機を連続して着艦させるために飛行甲板の構造強化が図られた。これは従来と比べて上下方向に伸ばされた梁構造の採用という形で実現した。この梁構造は高さが二メートル以上有る巨大なものであり、蜂の巣のように飛行甲板下に配置された。
 ここで、逆転の発想として、この梁構造の内部を甲板として有効利用することが考えられた。
 実はこの構想は既に米海軍で採用されており、日本海軍はそのギャラリーデッキというアイディアを採用したに過ぎなかった。
 しかし、このギャラリーデッキは浦賀型でこのような広大な梁構造が採用されるまでは無用の存在と思われていたのである。
 この後の日本海軍の空母では、飛行甲板の構造がさらに強化される必要があったこともあってギャラリーデッキが全ての艦で採用されている。
 浦賀型建造当初はまだギャラリーデッキの有効活用が完全に図られているとは言えなかった。
 この空間は最初は倉庫として使用されるはずだった。双発機である東海には単座機よりも多くの予備部品を必要とすることから倉庫空間の拡大が必要とされた。そこで今まで格納庫天井からつるしていた予備部品を、床面の有るギャラリーデッキに置いたのである。
 そのためギャラリーデッキの一部は床面が開けられるようになっており、天井には天井クレーン用のレールが設置されていた。ギャラリーデッキに置かれた予備部品は天井クレーンで吊るされた後開けられた床面ハッチから格納庫に下ろされるようになっていた。
 しかし、ギャラリーデッキ全てが予備品倉庫として活用されていたわけではなく、大部分は空所のままだった。それらは幾つかは員数外の予備品や食料品などの保管庫として運用されるだけだった。
 だが空間が確保されていることは知られていたため、しばしば員数外の人間を乗せる場所として活用されることとなった。
 長距離輸送船団では、捕虜となった潜水艦乗員や、撃沈されて救助された船団員などの便乗者がしばしば発生した。一番艦浦賀が護衛した船団でも何度かの襲撃が発生し、その幾つかは浦賀航空隊によって阻止されたものの、撃沈された船員は浦賀に収納されることとなった。
 飛行甲板直下のギャラリーデッキは騒音や衝撃が激しかったものの、予想よりもは快適な空間であったらしい。
 そこで艤装中であった三番艦からは急遽ギャラリーデッキにも正式の船室として使用されることとなった。
 これらのギャラリーデッキは下士官兵の居住区となった他、一部士官室や搭乗員や甲板作業員の待機室にも活用された。
 また、四番艦岩国では使用用途が通常の海防空母とは異なることから、他艦では省略されていた艦長公室が計画されたが、これも艦橋に最も近いことからギャラリーデッキ右舷側に配置された。

 この様な新機軸などによって高い航空機運用能力を与えられた浦賀型だったが、固有兵装は三原型に準じており、自衛火器程度しか保有していない。船体構造に余裕があることから舷側にスポンソンを設けることが出来たため三原型に比べれば兵装の搭載数は多いが、長射程の高角砲は搭載せずに近接防空用の機銃のみを装備している。
 三原型同様に海防空母では重装備を施す余裕がなく、また兵装を充実するくらいならばより航空機運用能力を向上させた方がより戦力になると考えられていた。高価値かつ代替艦を揃えづらい正規空母では比較的自衛火器を充実させる方向にあったが、海防空母ではそれほど重要視されていなかったようである。

 しかし、浦賀型では、これまでの海防空母とは隔絶した航空機運用能力を持つために一部の艦は海防空母としてではなく正規空母の補助として運用されることとなった。特に四番艦岩国は建造当初から艦長公室や士官次室などを設けるなど正規軍艦と同様の艤装が施された。内装などは簡素化されたものだったが、ほぼ補助空母に準ずる程度であったらしい。
 浦賀型の航空艤装は戦時中に開発された新型を搭載していたため、早期に改装されていた補助空母などよりも格段に空母としての能力は上だった。そのため浦賀型が就役し始めてからは、海防空母と比べて運用に手間のかかる客船改装空母は次第に欧州から引き上げられて内地での訓練などに従事するようになった。
 補助空母として運用する際の浦賀型は、護衛任務時と航空隊の編成をかなり変更していた。護衛任務では半数を護衛機とし、残りを哨戒機としていたが、補助空母として運用される際は搭載機はほとんど単発の戦闘機か攻撃機を搭載している。
 バルト海海戦当時、松型駆逐艦(防空型)四隻を従えて航空戦隊を編成していた岩国は、電探を搭載して管制機任務を行う艦爆彗星三機と艦戦烈風三十機を搭載して防空任務に就いていた。格納庫面積からこれらすべてが稼動機であった可能性は低いが、飛行甲板への露天係止で可動機を増大させていたと思われる。いずれにせよ浦賀型ではかさばる東海を搭載しなければ三十機前後を運用可能であった。
 また、時期によっては東海から対潜機材をおろして電探による早期警戒機として運用していた例もあるようである。東海は機体容積が大きいため、彗星よりも管制能力は上であった。

 浦賀型においてもっともネックとなったのは生産性だった。例として、三原型では戦時標準規格貨物船を建造可能な建造所の約90%で建造が可能であったものが、浦賀型ではこの数値は50%にまで低下する。航空艤装などの機材も正規空母同様の価格から取得数が限られることが予想された。
 もっとも日本海軍ではこの問題は大きく捉えられてはいなかった。船団へ編入する海防空母数自体が三原型を編入した場合と比べて削減可能であることから建造所が限られても致命的なほどの数量不足に陥ることはないと考えれたからだ。また、より大型の機体も運用可能であることから三原型に対してのコストアップも許容範囲内であったようである。
 日本海軍にとって浦賀型は三原型までの海防空母とは一線をかくしたものとなった。三原型が純粋に船団護衛用の海防空母としてのみ運用されたのに対して、浦賀型は海防空母としての任務のみならず正規空母を補佐して最前線にもしばしば出没した。四番艦岩国他数隻は第二次欧州大戦期間中を通じて英国本土からイタリア半島までの短距離船団を除いて船団護衛任務に就くことも無かったほどであった。
 これは浦賀型が正規空母に準ずる航空機運用能力を保持していたからであった。その為に日本海軍は英国海軍のように中途半端な軽空母を戦後に抱え込む事態に陥らずにすんだとも言えた。
 戦時中に空母不足に陥った英国海軍は、建造期間の短縮を図って正規軽空母の量産に着手した。しかしこれらの軽空母の就役は終戦後となり、また戦時中の機体を前提として設計された各装備は噴進機関を搭載した新型機には対応出来ずに戦後は、予算不足に喘ぐ英国海軍にはむしろお荷物となってしまっていた。
 実は日本海軍も、地中海での戦闘で空母赤城、龍驤を喪失したことから、今後も空母が減耗することを予想して戦時量産型とも言える中型空母の建造計画が持ち上がっていた。その中型空母は飛龍型空母を原設計として簡素化が図られたもので、就役すれば雲龍と命名される予定であったという。
 飛龍と蒼龍の2空母が第二次欧州大戦後に老朽化から早々と空母部隊で有る第二艦隊から戦艦部隊の第一艦隊に配属されていることから、雲龍が日本海軍で就役したとしても正規空母部隊である第二艦隊からは早々に離れていたと考えられる。
 この当時の日本海軍は装甲化された大型空母である大鳳型及び改大鳳型を空母部隊の主力としていたため、それらの大型空母と部隊を組みづらい中型空母は第二艦隊からは不要とみなされていた。
 また、雲龍型の建造を決行していた場合、英国海軍同様に雲龍型空母に建造ドックを占拠されて大型正規空母の就役が遅延する結果になっていたかもしれない。
 だが、実際にはこの空母は命名されること無く起工前に設計段階で建造中止が決定された。就役すれば搭載機五十機程度の中型空母となるはずだったが、その程度の搭載機であれば浦賀型でも二隻もあれば同程度の搭載機を展開させることも出来るからだった。
 雲龍型一隻と浦賀型二隻で部隊を組んだとして比較すると雲龍型が優っている点は主に速力にあったが、カタパルトと着艦拘束装置を搭載した浦賀型では航空機展開能力の点では速力は大きくネックになることは無かった。あるとすれば戦略的な展開速度と、艦隊決戦時に高速の正規空母部隊に随伴出来ないという点だったが、少なくとも欧州での戦争では独伊両海軍、さらにはソ連海軍も含めても日本海軍空母部隊と比べると明らかに貧弱であり、空母部隊による艦隊決戦が惹起する可能性は極めて低かった。
 実際、欧州大戦での空母部隊の任務は殆どが対地攻撃だった。また、浦賀型海防空母が護衛任務ではなく攻撃任務に付く場合は、烈風などの戦闘爆撃機を搭載しての補助防空及び対地支援攻撃を行った。正規空母部隊が初撃など全般支援にあたるのに対して、浦賀型に搭載された部隊は地上部隊からの要請に伴って攻撃を行う近接航空支援に就くことが多く、海軍陸戦隊などからは重宝がられたと言われている。

 このような任務の性格は第二次欧洲大戦が終結し、浦賀型のほとんどが予備艦となった後も変わらなかった。
 太平洋戦争によって再び戦場に送られた浦賀型は、海上護衛、対潜哨戒の他、米国海軍空母部隊との戦闘に忙殺された正規空母部隊に変わってフィリピン近海での近接航空支援に従事していた。
 搭載機は第二次欧洲大戦当時と変わらなかった。さすがに浦賀型の規模でジェット機を運用するのには無理があったためであるが、烈風はターボプロップエンジンに換装した烈風改に切り替わっており、ある程度の空戦であっても可能であった。

 このように二つの戦争を正規空母以外のすべての任務を引き受けることで、大鳳型などの大型空母を補佐してきた浦賀型だったが、太平洋戦争後はその充実した航空艤装があだとなった。
 太平洋戦争終結後、再び中立国となったハワイで締結されたホノルル軍縮条約において、空母というカテゴリーを定義付けるものがカタパルトの有無や飛行甲板が占める比面積、対艦兵装の搭載などとなったのだが、この定義に従えば浦賀型は補助空母ではなく正規空母扱いとなってしまったのだった。
 さすがに浦賀型を正規空母として運用するつもりは日本海軍にも無かった。そうするには浦賀型はあまりにも小型すぎたし、新型機の運用にも齟齬を果たしていた。
 だが、浦賀型海防空母の艦齢はこの時点でまだ余裕があり、廃艦とすることは帝国議会が認めなかった。そこで、日本海軍は新型の大型正規空母が就役するのに合わせて浦賀型を空母枠から外れる別艦種へと改装を行っていった。
 三原型の一部のようにフラットな艦型を活かして多数のアンテナを搭載して指揮艦改装を受けたものもいたが、大半はカタパルトを撤去して対潜ヘリ空母あるいは揚陸艦として改装された。
 揚陸艦として浦賀型が選択されたのには、広大な格納庫が上陸戦闘に必要な各種機材の倉庫として活用出来る他に、ギャラリーデッキなどの多くの船室が陸戦隊員を収納するのに便利であることも理由の一つだった。
 この両艦種の場合、改装内容はほぼ同一だった。まず、カタパルトやアレスティングワイヤーを除去し、固定翼機運用能力を排除することで正規空母枠から逃れており、その上で格納庫内装を搭載機材に合わせて改造されている。
 対潜ヘリ空母として運用する際は予備品倉庫の内容物を回転翼機に合わせて総入れ替えを行なった他は大して変わっておらず、固有の乗員構成もほとんどかわらず、航空要員のみ回転翼機に合わせて配置している。この場合、対潜哨戒用か掃海用の回転翼機を二十機以上搭載、運用することが出来た。
 揚陸艦として運用する際は十機程度の揚陸用回転翼機を搭載する他、格納庫内に上陸用の大発を搭載した。また、この場合右舷側エレベーターを最上部で固定している。大発は格納庫内の天井クレーンで釣り上げられるが、この天井クレーンは格納庫内から右舷側エレベーターの床面にまで延長されており、釣り上げられた大発は右舷エレベーターの下から海面に下ろされる。
 陸軍のあきつ丸や大隅型揚陸艦のようなドック揚陸艦と比べると大発の発進速度は遅かったが、兵員の輸送力は同程度はあったため、揚陸艦改装を受けた浦賀型は長く軍籍に留まるものもあった。
 なかには大発の搭載を行わず、回転翼機のみを搭載するヘリ揚陸艦として運用されるものもあった。

   




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