大鳳型空母




大鳳型空母


<要目>
基準排水量 30,500t   全長 265.8m  全幅 29.0m  蒸気タービン 出力 160,000馬力(四軸)
最大速度 33ノット  乗員 1700名

兵装
連装65口径10cm両用砲 10基
三連装25o機関銃 13基
搭載機 固定翼機60機

同型艦 白鳳


 軍縮条約の規定によって保有枠が制限されていた日本海軍は、第二次欧州大戦勃発後に艦隊型正規空母である翔鶴型を建造した。
 それまでに日本海軍が保有した空母は、何らかの制約を受けたものばかりだった。世界最初の新造空母となった鳳翔は実験艦のようなものだったし、天城型は巡洋戦艦からの改造となったために艦体規模や速力の点では新造艦に劣らなかったものの、改造艦故に純粋な空母としてみた時の使い勝手には問題もあった。
 条約制限下で建造された龍驤や蒼龍型の場合は空母としての使い勝手はともかく、日本海軍が空母に求めていた打撃力、すなわち搭載機数を発揮するには艦型は過小に過ぎたのだ。
 新造空母にはこれらの問題を解消することに加えて、当時続々と就役していた友邦英国海軍のイラストリアス級空母の影響を受けて飛行甲板の装甲化まで要求されていた。
 これらの多岐にわたる要求を実現するためには艦体の大型化は避けられず、結局理想的な高速艦隊型空母とされる翔鶴型の建造は第二次欧州大戦勃発によって軍縮条約が無効化されるのを待ってから行うしかなかったのである。

 しかし、日本海軍の航空行政を担う航空本部からすると、翔鶴型の能力も満足いくものではなかった。確かに翔鶴型は速力も高く、その装甲は急降下爆撃を無力化するほどと判断されていた。大戦中盤のマルタ島沖海戦で龍驤、赤城の2空母を沈めたドイツ空軍の急降下爆撃機の攻撃も、翔鶴型であれば耐久し得た、あるいは戦列を離れることがあっても沈むことはなかったとまで言われていたほどだった。
 その一方で、米海軍に備えるための新造戦艦や続々と欧州に向かう船団を編成するための戦時標準規格船の連続建造などを理由として翔鶴型の艦型に制限があったのも事実だった。
 その弊害は特に搭載機数に現れていた。大型化する新型機や装甲化による重量対策として格納庫が一段とされたことなどから搭載機数は天城型よりも少なかったのだ。
 これらの問題に対処するため、航空本部及び軍令部では翔鶴型に続く新空母に基準排水量にして4,5万トンという戦艦並の巨体で対応することを計画していた。翔鶴型並の装甲と天城型並の搭載機数を両立させるには、この程度の大型化は必要とされていたのだが、戦時中ゆえの建造量の圧迫と予算の関係からこれは最終的に廃案となった。

 この4万トン級空母の代案となったのが大鳳型空母だった。同型は設計、建造に関わる費用を圧縮するために翔鶴型を原型としていた。
 艦体部分は基本的に変化は無かったが、それまでの日本海軍の航空母艦の特徴であった海面に向けて湾曲した煙突を廃して、艦橋を一体化した構造物としている。これは、同時期に客船から特設航空母艦への改装工事が行われていた隼鷹型で試行されていたものだった。
 また、この艦橋構造物自体もこれまでの航空母艦における航空機運用の教訓を受けて、飛行甲板の拡張を意図して艦体から右舷側にはみ出して配置されていた。
 これ自体は航空機の移動などの動線確保に効果があったものの、当初艦政本部が懸念していた通り、重量のある艦橋構造物が艦体の重心から離れてしまったために傾斜や動揺が生じていた。そこで2番艦からは、釣り合いを取るために艦体左舷側も飛行甲板を貼り増ししていた。
 この空間は当初露天繋止機の待機所などとして運用されていたが、改装後はアングルドデッキ用の空間として活用されている。なお2番艦のみ左舷張り出しの最後部にサイドエレベーターを備えていた。
 1番艦では開発が間に合わずに搭載が断念されていたサイドエレベーターだったが、2番艦に搭載されたものも殆ど開発段階といえるようなものであり、艦載機の重量化にともなって、就役当初は比較的軽量な戦闘機専用としてしか使われていなかった。

 航空機運用に関しては、それまでの空母とは兵装搭載箇所も変更されていた。従来は爆弾や魚雷などは格納庫内で搭載され、試運転まで行われていたものの、翔鶴型以降は装甲化や耐候性を考慮したエンクローズドバウ構造などによって格納庫が閉鎖されてしまったためにそれが困難になっていたのである。
 そこで大鳳型では根本的に運用方法を転換して、兵装搭載や試運転は飛行甲板で配列中に行うものとして、従来は格納庫内に通じていた航空兵装用の揚弾筒を飛行甲板まで延長していた。
 この手法自体は後々まで踏襲されていたものの、翔鶴型と同じく飛行甲板と一体化したインボート式の前後部エレベーターのみを備える大鳳型では格納庫から飛行甲板に艦載機を移動させるのに手間取る事もあって、攻撃隊配列時間の増加や補給作業の遅れなどを招くことも多かったようである。

 この他の翔鶴型からの変更点としては、対空火器の増設が挙げられる。計画当初は翔鶴型とほぼ変わらない兵装だったものの、地中海戦線において頑丈な独空軍急降下爆撃機が機銃の弾幕では阻止が困難であったという戦訓を受けて遠距離から航空機を粉砕する事が可能な高角砲が増加されている。
 これに伴い機銃座は減少するはずだったが、最終的には全般的な対空兵装の強化という方針を受けてこれも翔鶴型とほぼ同数が搭載されていた。
 ただし、高射装置の増備は不十分であり、対空兵装の搭載数に対して効果は限定的と評価されることも多かったようである。

 しかしながら、大鳳型では戦訓を取り入れた抜本的な改良はなされなかった。特に2番艦は浦賀型海防空母の運用実績や戦訓などからサイドエレベーターやギャラリーデッキ構造の取り入れなども検討されたものの、艦体構造に深く関わる変更点は設計工数、期間の増大を招くことから容易に採用することが出来なかった。
 2番艦白鳳は先述のサイドエレベーターの採用や油圧式射出機を搭載した姿で就役したが、これらの装備は浦賀型海防空母で実物が運用された後に採用されたものだった。
 当時はマルタ島沖海戦で一度に赤城、龍驤の2空母を喪失したこともあって、設計変更によって単艦の能力強化を図ることよりも、早期の戦列化が求められていたのである。
 戦訓の抜本的な取り入れは改大鳳型となる次級に取り入れられる事となったが、この時期は日本海軍もだいぶ混乱しており、後に中止されたものの戦時量産型とも言える中型空母の建造計画まで立案されていた。
 この改蒼龍型ともいえる戦時量産型中型空母の設計などにも設計者の手が取られたために、改大鳳型の建造は遅れており、結果的に大鳳型が第二次欧州大戦で最後に日本海軍が建造した正規の航空母艦となった。






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