翔鷹型護衛空母





<要目>
基準排水量 9,500t   全長 140.0m  全幅 27.0m  ディーゼル 出力 9,000馬力
最大速度 16.4ノット  乗員 800名

兵装
単装40口径8cm高角砲 2基
三連装25o機関銃 4基

搭載機 固定翼機20機

同型艦 無し


 1939年、欧州で第二次欧洲大戦が勃発する以前から、日本海軍はこれあるを半ば予期し、戦時標準船の設計案をまとめつつあった。
 しかしながら、開戦直後のドイツ海軍による通商破壊は重大な脅威となっていた。特に潜水艦による被害は極めて多く、損耗を織り込んだ戦時標準船の大量建造計画とはいえども、予想しうる被害が許容数を上回るのは確実だった。
 これに対して海軍艦政本部と海上護衛総隊は、量産型駆逐艦である松型や外洋型海防艦鵜来型の大量建造によって護衛艦をまかなおうとしていた。
 また、これとは別に英国が船団護衛に投入したカタパルト装備商船や大型航空機による長距離哨戒の有効性から、簡易な航空機搭載艦を求める声が上がっていた。
 密かに参戦を決意していた日本海軍は、難民化したユダヤ人保護の名目で航空母艦を中核とした遣欧艦隊を先遣部隊として派遣すると同時に、参戦後の船団護衛の為にいわば護衛空母とでもいうべき小型空母の建造計画を開始させた。

 この護衛空母よりも先に、海軍艦政本部が計画していた小型空母としては、戦時に消耗するであろう正規空母を補佐すべき存在として、高速商船から改造した補助空母があった。
 政府が建造費を補助する代わりに、戦時に優先的に徴用された補助空母改造対象船は、終戦までに七隻(鹵獲されたドイツ商船シャルンホルストを含む)を数えたが、これらの補助空母は、軽空母として連合艦隊指揮下で使用され、海上護衛総隊に配備された護衛空母とは扱いが明確に異なっている。
 実際には、これら軽空母は、次々と大型化していく新型機に対応するのが難しく、前線での任務に付いたのは短期間にとどまった。戦中はほとんどの時期を航空機輸送艦として運用されていた。戦後はすぐに退役するか、特別陸戦隊を輸送する強襲揚陸艦として運用された。
 神鷹のみは、改装前の名称であるシャルンホルストに艦名を戻した上で、ドイツ連邦に返還されて同国海軍旗艦として長く現役に留まった。

 護衛空母は、これら補助空母が正規空母寄りの性能を期待されていたのに対して、徹底的にコストを押し下げるために一部の性能を犠牲にしても量産化が図られたのが特徴である。
 その原型には当然のことながら、建造が開始されていた戦時標準船が採用された。実は戦時標準船二型として建造が開始された中で最初に進水したのは、建造中に改設計が行われた空母翔鷹となっている。
 翔鷹は前述の通り、建造が始まった戦時標準船の中でも大型輸送船の中核となる2−A型一番船を建造中に海軍が買い上げるという方法で改設計が行われたものである。船体部は、大型化するであろう上部構造物とバランスを取るためにバラストを大量に搭載した他はほとんど輸送船型と変わらなかったため、ブロック建造初期はそのままの設計で流された。
 その一方で上部構造物は、原型をほとんどとどめていない。揚錨機などの一般甲板機械には手を加えられなかったが、それ以外の船橋などの上部構造物はほとんど取り払われ、代わって飛行甲板と若干の兵装が加えられている。
 航空艤装は最小限に留められる予定だったが、先行して英国が建造した改装空母オーダシティが全ての搭載機を飛行甲板に係止されていたため搭載機数を増やせず、運用性も悪かったという戦訓を受けて、輸送船型では船倉となっている部分のうち上部を格納庫、下部を航空要員によって増員された乗員の居住区としている。
 格納庫と飛行甲板をつなぐエレベータは前後で一基づつ搭載している。エレベータは船底部近くに設置されたモータと歯車で押し上げられる。このエレベータ関係の機器は大きく空間が確保され、信頼性と整備性を向上させている。これは正規空母と比べて乗員の錬度や数を確保出来ない護衛空母では何よりも信頼性を重視されたためではあったが、同時に難しい加工を避けて量産性を向上させる目論見もあったといわれる。
 エレベータを充実させる一方で、前後の格納庫間は元設計から存在する船橋下部の居住区が存在するため機体の連絡は出来ない。居住区内の通路はさほど広くはないため、細かな部品しか移動は出来ず、運用性は悪かった。
 後方格納庫は、飛行甲板の重量を負担させる構造物を兼ねて閉囲構造としているが、前方格納庫は支柱で重量を負担しており、エレベータのみ飛行甲板と接続している。この構造のため前方格納庫は風雨が激しいと整備課業に支障をきたすこともあった。
 このため着艦した機体はできるだけ後部格納庫に収納するようになり、前部格納庫は倉庫や防水カンパス布で覆った予備機を置くケースが多かった。これらの戦訓から以後の護衛空母は格納庫を全通としている。

 飛行甲板を可能な限り大きくとるため、原型では中央部にあった操舵室などの艦橋機能は、飛行甲板最前部の下部に設置されている。これは戦前に就役した龍驤型空母などを参考にしたものと考えられるが、条約型とはいえ、上部構造物が船体と比べて高い龍驤型と違って、翔鷹はトッピヘビーを抑えるために飛行甲板の設置高さが抑えられており、自然と艦橋も極めて低い位置におかれることとなった。
 そのため艦橋からの視界は極端に悪く、船体最後部との機関部との連絡性の悪さも相まって総合的な操艦性能は極めて悪かった。特に艦橋の上部を飛行甲板が完全に覆っているため上空への視界は絶望的なまでに狭く、対空監視は困難を極めた。また、飛行甲板と同レベルにしか航空機管制機能を設置することが出来なかったために、連続発着艦に支障をきたす結果にもなった。このため、小型の空母といえども島型の艦橋は必須であると判断されることとなった。
 また、ここまでして飛行甲板を広くとろうとしていたのに、煙突を完全に飛行甲板下に抑えこむことが出来ずに、わずかばかりとはいえ煙突は飛行甲板より突出している。
 これは船体高さ(深さ)が押さえ込まれた後部に主機関が設置されていたため、煙突を十分に排煙させながら曲折させるために十分な空間が確保出来なかったものと考えられている。

 数少ない兵装は機銃と四〇口径八センチ高角砲が搭載されている。この当時ですら旧式に位置する兵装だったが、護衛空母には十分と判断された。八センチ高角砲は旧式とはいえ生産数の多い砲で、護衛艦艇などに搭載される他に、特別陸戦隊の戦車にも主砲として搭載されていた。

 様々な問題を抱えながらも翔鷹は1941年終わりに早々と就役し、主に航空護衛の訓練や実験に従事した。搭載機には旧式化しつつあった九六式艦上戦闘機が選択された。
 当時のドイツ潜水艦の主力であった7型は小型で航続力に乏しい艦であったため、航続距離の短い九六式に対戦爆弾の組み合わせという当座の組み合わせであっても有力な戦力として使用することができた。
 翔鷹で訓練を終えた航空勤務兵の多くが海上護衛総隊に所属し、翔鷹の戦訓を受けて建造された後継の護衛空母に乗り込んで海上護衛戦闘に従事した。翔鷹は実戦任務に出ること無く戦後早くに退役したが、その功績は大であると認識されていた。






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