三原型海防空母





<要目>
基準排水量 9,500t   全長 140.0m  全幅 27.0m  ディーゼル 出力 9,000馬力
最大速度 16.4ノット  乗員 800名

兵装
三連装25o機関銃 2基
搭載機 固定翼機20機

同型艦 25隻


 

 翔鷹によって護衛空母の概念を確立した日本海軍は、いわば実験艦であった翔鷹で得た戦訓を元に量産型の護衛空母の設計を行った。この設計は翔鷹の就役とほぼ同時に開始され、逐次新たな戦訓を受けて改設計が幾度も行われた。
 それどころか設計変更の可能性が少ない一部ブロックは初期設計案が固まると同時に建造が開始されていた。
 ひとつ間違えばスクラップを大量に発生させるこのようなやり方が行われたのは、当時日英同盟が独潜水艦に追い詰められていたという証明でもあるが、同時に日本がものにしつつあったブロック建造法が柔軟な設計変更を可能としていたからである。

 この設計変更は、基本的には翔鷹で発生した不具合の改正であったが、同時に欧州戦線で得られた戦訓も取り入れられている。
 例を上げれば開放式格納庫の採用が挙げられる。翔鷹の運用結果からは荒天時の整備の容易さから閉鎖式の方が適していると判断されていた。
 しかし、欧州戦線に投入された第二艦隊の正規空母赤城、龍驤が撃沈されたことによりこの判断は覆された。

 ドイツ軍に奪取されたマルタ島周辺海域で行動していたこの二隻は、ドイツ空軍の急降下爆撃機によって相次いで撃沈されたのである。この内、赤城の撃沈から得られた教訓は、飛行甲板の装甲化の必要性であった。赤城と天城他からなる第一航空戦隊は急降下爆撃によって飛行甲板を損傷、これにより航空能力を喪失した同戦隊は後方への退避中に再度敵機の襲来を受け雷撃により赤城、駆逐艦数隻を喪失した。
 このとき同海域で作戦を行っていた英国海軍の装甲空母は、同程度の敵機の襲来を受け、同じく後方への退避を余儀無くされたものの、短時間で飛行甲板の応急修理を行うことに成功した。これにより少ないながらも航空援護を展開させることができた英国空母群は後方への退避に成功した。
 マルタ島攻防戦は、直後の大規模水上戦闘で日英同盟艦隊に大損害を与えたのと引き換えに独伊仏連合艦隊が壊滅したことからドイツ側の戦意が急速に低下し、その後一週間でマルタは日英同盟の軍門に再び下った。しかし、この一週間の間も一部ドイツ軍部隊による反撃で日英同盟陸軍には少なからぬ損害を被ることとなった。
 もし、日本海軍の空母が装甲化されており、短時間で戦線に復帰することができていれば、この損害はもっと軽微なものですむはずであったのだ。つまり戦場に留まる能力を確保するために飛行甲板の装甲化が必要とされていたのである。
 この教訓にしたがって後の大鳳型は飛行甲板の装甲化が図られることになった。しかし装甲化による特殊鋼材使用のコスト増大や上甲板以上の重量増大によるトップヘビーは、護衛空母にとって正規空母以上に問題となった。数を揃えるために安価で建造される護衛空母は、同時に長距離船団に同行するために航洋力をも必要とされていたからである。

 護衛空母にとってより大きな戦訓となったのは、龍驤の撃沈にいたるまでの過程であった。
 龍驤はドイツ空軍の爆撃によって損害を受けたが、その際に飛行甲板を貫通した爆弾は格納庫内で爆発した。この爆発により格納されていた搭載機が誘爆し火災が生じた。だが、この火災自体は大したものではなく、消火にあたる将兵の初動が正しければ鎮火に成功して後方への退避も可能であるはずだった。
 しかし、龍驤は初期消火に失敗し、延焼したまま無防備に海上をさ迷った挙句、敵機の襲来が迫ったために総員退艦命令が下り、友軍艦によって雷撃処分された。
 龍驤はこの時点で就役から十分な年月がたっており、練度がまず十分と言える将兵たちによって運用されていた。初期消火に失敗したのは格納庫内で発生した二度の爆発によって消火設備及び消火にあたるはずだった兵員に大きな損害が生じたためであった。
 爆発の規模からいえば、格納庫全体にまでこれほどの被害が生じるとは考えづらかった。これには格納庫内の爆発で生じた爆圧の逃げ先が無かったために格納庫壁面に設置されていた消火ホースが寸断されてしまった。また同時に格納庫内で作業していた将兵たちも多くが戦死、あるいは行動不能となるほどの負傷状態となった。これにより初期消火は失敗したのである。
 この時龍驤はエレベーターを上げて格納庫は閉鎖状態にあった。また、ドイツ軍の爆撃も飛行甲板を貫いた際に小孔を開けたのみであり、爆圧が逃げるほどの空間は生じなかった。これにより爆圧は飛行甲板下部と格納庫壁面で全て受け止められ大損害を龍驤に与えたのである。
 もしも、龍驤の格納庫が開放式であれば爆風が開放部から流れ去り、格納庫壁面にかかる爆圧は軽減されたはずであった。また、火災が生じた機体を速やかに投棄することすら可能であるはずだった。
 この教訓から三原型は、側面を切り抜かれた開放式の格納庫を有することとなった。なお、波浪や塩害から格納庫を保護するため通常は開放部には帆布性のカーテンが掛けられる。

 なお、戦訓から得られた開放式と装甲化という矛盾した要求は、日本海軍に英国式の航空機を保護するために格納庫上面側面を覆う装甲方式を単純に採用することを許さなかった。また航空機の性能の向上や日本海軍独自の空母の集中運用法などを考慮すると、対砲弾向けとも言える垂直装甲は無駄となる可能性が高かった。
 このことから後に建造された大鳳型では飛行甲板に対500kg爆弾の装甲が施されたが、格納庫側面には装甲と言えるほどのものは施されず、エンクローズドバウのため前面は閉鎖されていたが、後方部は開放式が採用されている。
 さらに蒸気カタパルト、アングルドデッキが当初から採用された改大鳳型では、これら新装備によるトップヘビーを避けるために装甲は重要部のみに採用されている。このころとなると装甲化によって直接防御を行うよりも、艦載戦闘機による迎撃、防空艦による誘導弾、両用砲などの縦深防御によって敵機の攻撃自体を防ぐ方向に防御方針が変化していた。
 空母にとって何よりも必要とされたのは自身の重装甲によって耐え忍ぶことではなく、艦隊の遠距離打撃力、防御力としての艦載機を多数収納し、迅速に発艦させる空母本来の機能となっていたのである。これには電探技術の発達により近接砲撃戦闘に空母が巻き込まれる可能性が著しく減少したためでもあった。
 実のところこのような思想は三原型の頃から顕著になっており、船団護衛用の空母とはいえ艦固有の兵装が機銃座二つに甘んじているのはその為であるとも言われる。

 当然のことながらこれらの戦闘で得られた戦訓の他に、翔鷹の運用で得られた教訓も三原型には取り入られている。それは島型艦橋の採用である、飛行甲板右舷側にへばりつくように設置された艦橋は、島型というよりも塔型というべき小型のものではあったが、操艦性および航空管制能力は大きく向上している。
 また、艦橋後方には対空電探も装備された。対空電探の存在は遠距離で敵機を発見することができたが、電波管制体制で航行することも多く、艦橋後部に設置された逆探の使用率も高かったらしい。しかしこれらの電子兵装を活かすには小型の艦橋では能力不足であり、正規の大型戦闘艦に比べると航空機管制能力は低い。

 三原型の最大の問題は2−A型戦時標準船を元にしたことから生じた排煙問題だった。建造中の一番船を施工途中に改装した翔鷹と違って、当初から空母として建造された三原型ではあったが、船体部のブロックは2−A型そのままだった。当然機関部ブロックも戦時標準船そのままだったのだが、それが問題となったのだ。
 2−A型で軸を短縮し鋼材使用量を減らす為に最後部に設けられた機関部であったが、空母に改設計される際も変更されなかった。大重量である主機関を移動することによる重量再計算の時間とコストを嫌ったためであったが、空母に改装される際に排煙処理が問題となった。
 輸送船ではそのまま上部に排煙しても何の問題も無かったのだが、空母の飛行甲板にそのまま煙突を設けるわけにも行かず、排煙は舷側に向けるしか無かった。翔鷹では小型の煙突に分けてから左右舷の上部から排煙を行なったのだが、これは着艦機が高温の排煙によって生じた読みづらい上昇気流に悩まさられることとなった。

 三原型では、排煙を一度後方に向けた長い煙路を通る過程で排気温度を低下させた上で船体後方から排気することになっていた。排気は飛行甲板の後部左右舷から排出された。これによる上昇気流は最小限に抑えられていたが、消え去ったとは言えなかった。実際着艦に失敗した例のうちいくらかは排煙によるものと結論づけられている。
 しかもこの長い煙路自体が著しい熱源となって居住性を圧迫していた。煙路周辺から排気温度を低下させる効果はあったものの、その分の熱量は周辺区画の温度を上昇させることとなった。当初兵員居住区となるはずだった格納庫後部の空間は一番艦の公試直前で急遽予備の倉庫に転用された。
 そのため施工中であった四番艦までは倉庫としては奇妙な隔壁跡などが残され、兵員居住区もしわ寄せを受けて三段ベットとなるはずあった区画がハンモック式になるなどこの問題は後を引くこととなった。
 なお、とりあえず倉庫となった問題の区画ではあったが、格納品が熱によって速く劣化する傾向が高かった事から主計長や倉庫長、整備長の頭を悩ませることとなった。主にこの区画には予備機の部品が置かれたがグリスなどの格納はできるだけ避けるようになっていたらしい。

 戦後、残存した艦はすべて予備艦指定を受けたが、対米戦において六番艦来島が北方哨戒部隊の旗艦として現役復帰する最に受けた改装においてこの区画に補助ボイラーを設置した。このボイラーは増設された蒸気カタパルトや炊事所の炊飯などに蒸気を供給するのが目的だったが、煙路に直接接する区画は復水されたボイラ水を加熱するための過熱管が設置され、熱量のエネルギーとしての回収がなされるようになっていた。
 なお、三原型は約半数が英国海軍に貸与されたが、これらの艦では英国式に再艤装されるさいにこの区画が何故か科員食堂となっており、兵員からの評判は極めて悪かったらしい。

 翔鷹を護衛空母の実験艦とすれば、三原型は先行量産型とも言える存在だった。翔鷹型からの教訓を受けて改良された部分も多かったが、さらなる改善が必要な部分もあった。これらの改善点は量産型護衛空母となる次の浦賀型の設計に生かされることとなる。
 しかし既に三原型から実質上の量産は始まっていた。そのためか、従来の空母の命名基準である幻獣名は早急に使い果たすと考えられた。そこで新たに護衛艦として運用される空母に海防空母という艦種を設けて新たに城名を命名基準として採用した。
 




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