天城型空母



天城型空母就役時

天城型空母改装後


<要目>
基準排水量 41,500t   全長 261.0m  全幅 30.0m  蒸気タービン 出力 131,200馬力(四軸)
最大速度 31ノット  乗員 1300名(改装後約1600名)

兵装
単装50口径20p砲 10基
連装40口径12.7cm高角砲 6基
(就役時)
連装40口径12.7cm高角砲 10基
三連装25o機関銃 8基
(改装後)
搭載機 固定翼機80〜100機

同型艦 赤城


 第一次欧州大戦終結後、列強各国は増大した軍事費を削減するため、ワシントン海軍軍縮条約を締結したが、軍縮条約下では廃棄予定となる戦艦の内、建造中の戦艦を空母へと改装することが認められていた。
 この軍縮条約の規定を利用して、日本海軍が就役させたのが天城型空母である。
 天城型空母は、元々八八艦隊計画の中で巡洋戦艦として建造されていた艦で、長門型戦艦と同じ41サンチ砲10門を備えた上に主砲に対応した装甲を持つ艦を30ノットで航行させるために、大出力の機関と長大な艦体を有しており、大和型戦艦が就役するまでは日本海軍で最長の艦艇だった。

 改装計画が開始された頃は、英国海軍で大型巡洋艦から空母に改装されたフューリアスを参考にした多段式の飛行甲板で設計されていたが、同盟関係にあった英国海軍との技術交流から、多段式空母の問題点が指摘されたことから、最終的に閉鎖式格納庫の上部に飛行甲板のみを装備した単段式として就役している。
 当初計画では、この多段式の飛行甲板の一部に連装式の主砲塔を装備する予定だったが、単段式飛行甲板への改設計に伴い、軍縮条約の制限一杯の20サンチ砲10門が搭載された主砲は、艦体前部に搭載された主砲は砲塔式から、後部に搭載されたものと同じ砲廓式の単装砲に統一されている。
 また、連装砲塔と同じく、艦橋も中間の飛行甲板に装備される予定だったため、改設計後は最上部の飛行甲板右舷に移設されている。

 天城型空母は、1920年代末に二隻が相次いで就役したが、改装工事中に関東地方で発生した中規模な地震によって横須賀工廠が罹災して、一時的に工事が中断したため、一番艦である天城よりも二番艦である赤城の方が早期に就役した。その為、一部資料では一番艦を赤城として赤城型空母と記載しているものもあった。
 日本海軍で2番目の空母となった天城型空母は、巡洋戦艦から改装されたために、不必要な構造も多く、空母として運用するのは難しい箇所もあったが、寸法が大きいため同時発着艦数、露天繋止機も多く、概ね正規空母として十分な機能を持っていた。
 当初、英米に対するバランスをとるために建造された天城型空母だったが、後から見れば、日本海軍に取って必要な空母の原形は天城型で早くも確立してたともいえる。

 改正軍縮条約の締結後、新造艦の建造の合間を縫うようにして、天城型空母も近代化改装が実施されたが、その改装点はさほど多くはなかった。
 飛行甲板や格納庫は、艦隊でも既存の構造で概ね満足しており、将来出現するであろう大型大重量機の配備を想定して構造がやや強化された他は、殆ど変化していない。
 ただし、新型機の運用を見越して、着艦制動装置、着艦機制止装置を容量の大きな最新鋭のものと換装すると共に、飛行甲板前部には、英国からの技術供与によって開発された2基の油圧式カタパルトが増設されていた。

 改装工事の主な目的は防空能力の向上で、最新鋭の対空捜索電探、及びその操作を行う電探室の増設、射撃指揮用の電探と連動した高射装置への換装と共に、対空砲そのものも強化されて、片舷で三基装備されていた高角砲塔は5基に増設され、両舷10基計20門という日本海軍の空母でも最大の搭載数となった。
 これに加えて近接対空砲火も強化されており、高角砲と同じく飛行甲板下のブルワークに、三連装25ミリ機銃座が8基増設されている。
 対空砲火力の増設に対して、正規空母を集中配備させた航空艦隊を編成した日本海軍は、広大な太平洋での戦闘では空母が単独で他艦と砲撃戦を行う可能性は低いと判断するようになっており、対空砲の増設による重量対策として、改装時に平射砲である20サンチ主砲は全門撤去されて、主砲が配置されていた砲廓は、外板側に波除用の鋼板を貼り増しして増員された対空砲操作要員などのための居住区に転用されていたが、内側の隔壁は構造材と一体となっているため、撤去や開口工事が難しいためそのまま残されており、居住区としては通気性も悪く、狭苦しいと不評であった。

 連合艦隊に配属された天城型空母は、その搭載量、速力から日本海軍でも最優秀の空母として考えられており、後続の龍驤、蒼龍型などが就役した後も、艦内空間には余裕が有ることから、航空母艦及びその護衛艦艇が集中配備させれた第二艦隊の旗艦として一番艦天城、及び二番艦赤城が交互にその任についていた。
 第二艦隊から抽出された戦力を主力とする遣欧艦隊が、再度勃発した欧州大戦に派遣された際も、遣欧艦隊の旗艦は天城に指定されていた。
 遣欧艦隊に所属した二隻の天城型空母は相次ぐ戦闘で活躍していたが、マルタ島を巡る攻防戦において、基地航空隊からの相次ぐ空襲を受けた赤城は、龍驤ととも喪失した。
 僚艦を失った後も、損害復旧工事を現地で受けた天城は、旗艦として艦隊に残り続け、新鋭の装甲空母である大鳳に旗艦の任を譲った後も、終戦まで遣欧艦隊の主力航空部隊の一翼を担い続けた。

 しかし、大戦終結後は、戦訓から天城型のような閉鎖式かつ多段式の格納庫は、通風機能が不十分であることから格納庫内でのエンジン暖気などが困難であり、また赤城が急降下爆撃で撃沈されたように、格納庫内で可燃物に引火した際には、爆圧を逃がす場所が無いため、被害が増大することが認識されていた。
 天城型とほぼ同等の大鳳型、より大きな改大鳳型の就役に伴って相対的に旧式化していたこともあり、終戦後の天城は、退役した鳳翔に代わる練習空母として運用された。
 格納庫などはともかく、速力や飛行甲板面積、航空艤装の上では、天城は最新鋭の空母とさほど遜色ない性能を持っていたため、一線級の空母で運用される航空隊を支援する練習空母としては最適だったようである。


   




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