キーロフ級軽巡洋艦





<要目>
基準排水量 8,550t   全長 180.2m  全幅 19.7m  蒸気タービン 出力107,000馬力(4軸)
速力 33.5ノット  乗員 700名

兵装
三連装57口径18cm砲 3基
単装56口径10cm高角砲 6基
四連装60口径40mm機関砲 10基
三連装53cm魚雷発射管 2基

同型艦 キーロフ、ヴォロシーコフ、マレンコフ、モーロトフ、ケーレンスキイ
 キーロフ級はソ連海軍が実質上初めて建造した近代巡洋艦である。その最大の特徴は米国海軍の全面的な技術支援のもと建造されたことである。

 キーロフ級が建造計画された1930年代は、急速に米ソ関係が良好に発展をし始めた時期だった。ソ連首脳部としては国内開発と、シベリアーロシア帝国とそれを支援する日英同盟に対する一応の防衛計画策定が一段落してその目を諸外国に向け始めた頃だった。
 対して米国でもソ連に期待の目を向けるものが多かった。第一次欧州大戦への参戦を拒み続けたおかげで対欧州輸出が減少の一途をたどっていたからである。本来であれば大戦で疲弊した欧州諸国に輸出されるはずだった余剰農作物は、倉庫で腐るのを待つばかりだった。その代わりに欧州諸国にはアジア植民地や日本帝国から続々と穀物などの輸出品が流れていた。つまり米国はアジア、欧州諸国の国際連盟加盟国が結成した巨大なブロック経済圏からはじき出されていたのである。
 このような理由や、両国共に日英露同盟を仮想敵としている、敵の敵は味方という考えから、国家体系の違いを乗り越えて米ソ関係は急速に進み始めていたのである。
 その象徴的な出来事として、1933年にソ連外務人民委員を歴任していたレフ・トロツキーが米国入りし、首都ワシントンDCを皮切りに米国各地を訪問している。
 このときトロツキーは単なる外務部門の長ではなく、人民委員会議長ヨシフ・スターリンの代理人として米国を訪れたことを強調しており、トロツキーがレーニン死去後ヨシフ・スターリンと親密な関係であったことを考えれば、これは実質上の首脳訪問といってもよかった。
 トロツキーは米国大統領に選任されたばかりのルーズベルトと会談し意気投合したといわれている。ルーズベルト大統領は特にトロツキーを米国風にレオンと最後まで読んでいたといわれている。このとき米ソ両国間の軍事協力が決定された。
 その内容は多岐にわたっており、キーロフ級の建造支援はその一つであるに過ぎない。

 実のところソ連にとって海軍の再建は後回しにされ続けてきた事案だった。まずはシベリアーロシア帝国と対峙する陸軍を再建しなければならなかったからである。しかし長期にわたって海軍関連の技術開発を怠ってしまったため、ソ連はいざ海軍を再建しようとしても恐ろしく旧世代の技術しか有しないという事態に陥っていた。
 そのため実質上の主力艦として建造されたキーロフ級は米国海軍の条約型重巡洋艦を参考として建造された。
 実際、船型はペンサコラ級とノーサンプトン級を合わせたような形状をしている。兵装はソ連独自の18センチ砲などを搭載しているが、対空機銃は米国製を採用している。その対空機銃は他の兵装の搭載量と比べて突出しており、洋上で使用可能な航空戦力に乏しいソ連海軍のお家事情を反映している。
 米国製の重巡洋艦とは異なり、上構は前後が分かれておらず一体化している。これは米海軍と異なり、ソ連海軍は寒冷地での行動が多いので、将兵の居住設備を充実させるだけの艦内容積を確保する必要があったためといわれている。
 なおキーロフ級はワシントン海軍軍縮条約に照らし合わせれば重巡洋艦に相当するが、ソ連は同条約に加盟していないため、ソ連海軍はキーロフ級を軽巡洋艦と呼称している。

 完成したキーロフ級は、堅実な米国製技術が使用されたこともあって使用者である海軍からの評価も高く、当初の計画を変更し五隻が連続して建造された。
 キーロフ級はソ連海軍の主力である北方艦隊、バルト艦隊、黒海艦隊にそれぞれ所属した。
 しかしバルト艦隊に所属したヴォロシーコフ、ケーレンスキイの二隻は第二次欧州大戦末期にソ連海軍によって惹起したバルト海海戦において日本海軍に撃沈されている。
 





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