アーカム級航空巡洋艦



1−4番艦

5−7番艦


<要目>
基準排水量 10,000t(5−7番艦11500t)   全長 190.6m 全幅 19.05m   蒸気タービン 出力 9,000馬力
最大速度 32.8ノット(5−7番艦30.2ノット)  乗員 970名

兵装
三連装47口径15.2cm砲 3基(5−7番艦2基)
連装38口径12.7cm両用砲 3基(5−7番艦4基)
単装20mm機銃 6基
航空機 24機(5−7番艦36機)


一番艦CF−1 アーカム
二番艦CF−2 ゴッサム
三番艦CF−3 ラクーン
四番艦CF−4 アイソラ
五番艦CF−5 ライツヴィル
六番艦CF−6 キャッスルロック
七番艦CF−7 ハイキャッスル

 1930年にロンドン軍縮条約は、航空機の発展によって有力な戦力となりつつあった航空母艦を厳しく制限するものとなった。これに対して、保有量が制限された航空母艦の代わりとして米海軍は飛行甲板装備巡洋艦として艦種記号CFを制定した。アーカム級は米海軍初の航空巡洋艦として建造された艦である。

 米海軍がこの様な艦を建造した理由は、米海軍が空母を偵察巡洋艦の延長として捉えていたためであるといわれている。第一次欧洲大戦において既に水上機母艦は対地攻撃などを実施していたが、モンロー主義を唱え、欧州への介入を避けた米国は、最後まで大戦に参戦しなかったために十分な戦訓が得られずに、水上機母艦をあくまでも艦隊随伴の索敵艦として運用することしか考えていなかった。
 その一方で、索敵手段として捉えた際の航空機の優位さは明らかだった。特に大戦間において十分な出力の機関が次々と開発されたことから、長大な滑走距離を必要としない高性能の艦上機も実現しつつあった。これらの艦上機は水上機に必須のフロートを持たない分高速で航続距離も長いため、長時間の滞空が可能だった。
 米海軍巡洋艦は、打撃力に特化した日本海軍巡洋艦などと比べると砲力こそ優越しているものの、雷撃能力が無く、索敵艦として運用されることが多かった。飛行甲板装備巡洋艦も、高性能の艦上機を駆使しして従来艦よりも格段に広い索敵範囲を備えたピケット艦として計画されたものと考えられる。

 アーカム級は艦体の2/3近くを占める飛行甲板を装備しており、当艦が建造された時期に採用されていた全艦上航空機の運用が可能だった。
 実際に搭載された機体はF2A、F14C、F15Cなどの艦上戦闘機とSBN、TBD、TBFなどの艦上攻撃機などであった。もっとも艦上攻撃機は正規空母での運用と比べると偵察機としての能力に比重がおかれており、アーカム級の航空爆弾搭載量は搭載航空機数と比べると少なかった。それどころか米海軍において40年代後半に増槽が実用化されると、元々容積の限られていた爆弾搭載庫は増槽の搭載によってさらに爆弾搭載量が減らされている。
 この限られたアーカム級の航空弾薬搭載量は継戦能力においてネックとなっており、太平洋戦争中に対潜作戦に従事したアーカム級が十分な戦果を上げることが出来なかった背景の一つには少ない爆弾搭載能力があったといわれている。これらの欠点のため、アーカム級の半数は、大戦中には搭載機の大半を容積の小さい機銃弾しか必要としない戦闘機に絞って艦隊主力直衛任務についていた。

 アーカム級の船体は、計画時期に建造されていたブルックリン級軽巡洋艦をタイプシップとしている。砲配置や艦体構造はほぼブルックリン級のままであり、艦体後半部の格納庫や艦橋はヨークタウン級を参考にして設計されている。装甲配置もこれを反映しており、前半部は軽巡洋艦に準じた装甲を配置しているが、後半部は機関部上部のみに配置されている。なお、舷側配置はブルックリン同様となっているが、やはり格納庫部分には装甲は配置されていない。
 格納庫及び飛行甲板を無装甲としているのは米海軍建造の正規空母も同様であったが、アーカム級の場合は重量問題などの他にトップヘビーを軽減する必要性もあったものと考えられる。巡洋艦同様の細い艦体構造でありながら幅広の格納庫及び飛行甲板を艦輻一杯まで配置したために、アーカム級の復元力は建造当初から懸念されており、後のアーカム喪失の一因も疑われたほどだった。
 主砲である15.2cm砲はブルックリン級のものと同様である。この砲自体は優秀な砲ではあったが、アーカム級の多くが軽空母として運用されたために実戦での使用例は少なかった。

 砲力、防空力も兼ね備えたアーカム級はまさに万能巡洋艦であると思われたが、40年代における航空機の急速な発展には、短すぎる飛行甲板と狭すぎる格納庫では対応することが難しかった。
 斜め甲板を採用した後続の航空巡洋艦と比して飛行甲板の全長が抑えられていたため、着陸速度の大きくなる一方の新型機を着艦させるのは搭乗員に多大な負担をかけることになったのである。
 発艦には当初から油圧カタパルトが備えられていたため1950年当時も主力艦上戦闘機の一つであるカーチスF15Cを発艦させることが可能だった。しかし重量の大きくなる艦上攻撃機を装備状態で発刊させることは難しく、AM-1モーラーを装備状態で発艦させるのは不可能であったため、旧式化しつつあったがより軽量のカーチスBT2Cを搭載していた。
 実際にはBT2Cは攻撃兵装を備えることはまれであり、ほとんど哨戒機として運用されていたようである。

 1940年代前半に四番艦アイソラまで建造されたアーカム級だったが、第二次欧州大戦の勃発による軍縮条約の無効化は米海軍に主力となる戦艦の大量建造を促した。当初条約に従った旧式艦代替として建造されていたノースカロライナ級を始めとしてサウスダコタ級、アイオワ級、モンタナ級と続いた戦艦の大量建造は戦艦以外の補助戦力に対する建造予算削減とほぼ同義だった。
 アーカム級も例外ではなく、五番艦以降の予算は一時凍結されることとなった。しかし、このモラトリアム期間はアーカム級にとってはプラスに働いたと言われる。この期間に既建造艦の問題点を洗い出すことができたからである。1945年度予算計画に盛り込まれた五番艦ライツヴィル及び六番艦キャッスルロックは、格納庫及び弾薬庫面積の増加や復元性を向上させるための巨大なバルジを備えた条約規格を超えた艦として建造された。
 太平洋戦争後はアーカム級は全艦がヘリ搭載巡洋艦(CH)に改造されている。これは表向きはヘリコプターが急速な発展によって有力な戦力として認識され始めたからではあったが、同時にアーカム級が本格的なジェットエンジン搭載機の母艦としては能力不足であったためでもあった。
 実際にはアーカム級は海軍の艦艇維持優先リスト中ではかなり低い位置におかれており、改造予算も最小限しか与えられなかった。改装は民間造船所で実施されたが、通常検査工事の他は不要となったカタパルトの撤去、及び装備跡の甲板覆いの装備に工数は集中している。
 この甲板覆いは写真等から判断すると単なる鉄板を周囲の甲板と段差が無いように溶接したものにすぎないようである。なお、同時に主砲の一基を撤去しミサイル発射機を搭載する計画もあったが、予算不足により実現していない。

 だが、本艦は航空巡洋艦という艦種の先駆けではあったが、戦績や艦容よりもその呪われたとしか言いようの無い数々の事件によってその名を知られている。

 就役直後のCF−1アーカムはグアムを母港とする太平洋艦隊に配属された。そして事件は1941年、アーカムが単艦での哨戒任務に就いていた時におこった。
 トラック方面に向かっていたアーカムから夜半になって「モンスターが出た」という切羽詰った通信が平文で入った。グアムの艦隊司令部はアーカムに対して詳細を知らせるように返信を行ったが、その通信を最後にアーカムは連絡を絶ったのである。
 当初はトラック諸島を警備する日本軍によってアーカムは撃沈されたのではないかと疑われていた。
 しかし一万トンもの巡洋艦は容易に撃沈できるものではなく(当時トラック諸島には戦艦は配置されていない)そうでなければ通信で詳細を送れるくらいの時間はあるはずだった。それに日本海軍はアーカムの遭難が公表されてすぐに関与を否定していた。当時の日本は第二次欧洲大戦への本格的な介入を決定しつつあり、その為に太平洋での衝突を望んでいなかったからである。
 第二の説は悪天候に遭遇して、荒天を乗り切れずに沈没してしまったというものである。高い位置に飛行甲板と格納庫を備えているにもかかわらず巡洋艦型の細長い艦形をもつアーカム級は建造当初から航洋力を疑問視されており、実際横揺れはかなり激しかったといわれている。
 しかし事件当夜は周囲の海域は比較的好天であった。突発的な悪天候があればトラックかグアムで観測されたはずである。また、アーカム艦長であるサミュエル・パリス大佐は航海科士官であり、悪天候下での航行も経験豊富であることから簡単に悪天候下で沈没するような航行をするとは考えづらかった。
 第三の説として大型の海洋生物、例えば鯨などの群に衝突して沈没したというものもあったが、これは一万トンの船を撃沈できる海洋生物の存在がまず疑わしい。しかしこの説は「モンスター」という最後の通信を肯定できることからそれなりに支持されている。
 またオカルトじみた説もある。例えば乗組員の一人が悪魔崇拝を行っており、艦と乗員はその生贄にされたというものである。
 同時期に喪失した駆逐艦エルドリッチと共に米海軍による極秘実験に失敗してアーカムは失われたのだという陰謀論者もいた。
 アーカムの捜索、救難活動はグアムから艦船航空機が出動して当たった。また日本海軍もトラック諸島周辺海域に哨戒機を飛ばして捜索を行った。だが米日共同の捜索活動にもかかわらずアーカムの存在を示す遭難者は勿論、漂流物や油膜すら見つからなかった。
 アーカムはこうして忽然と姿を消し、二十一世紀に渡る今でもその状況は変わっていない。航空巡洋艦アーカムは給炭艦サイクロプスとならんで米海軍史上の謎としてのみ残されたのである。

 ネームシップを失ったアーカム級の呪いはまだまだ続いた。
 三番艦ラクーンは太平洋戦争中にハワイからフィリピンへ航行中に行方不明となった。アーカムとは違いラクーンは通信ひとつ残さずに喪失したが、同時に付近で作戦行動中だった日本海軍の駆逐艦二隻が消失していることから偶発的に交戦し、相打ちの形で互いに撃沈されたものと考えられていた。
 しかし、後に付近で同じく作戦行動中だった日本海軍潜水艦伊257潜からの情報が真実の一端を明らかにした。伊257潜は偶然に米航空巡洋艦と友軍駆逐艦との交戦を目撃した。伊257潜は交戦海域からやや距離があたっため潜望鏡深度で監視を続行した。この戦闘は環礁の島影に隠れて襲撃をかけた友軍駆逐艦が圧倒的に優位であったと窪川潜水艦長は報告している。
 この戦闘ではラクーンは艦載機を発進させておらず、駆逐艦の襲撃に対する反撃は砲撃のみであった。実は作戦参加前に艦載機はパイロット、整備員と共にハワイに下ろされていたのである。彼らはこの作戦の詳細は全く伝えられておらず、単に部隊転換であると考えていた。だが、彼らの予想に反して代わりの艦載機部隊は搭載されなかった。その代わり一個小隊程度の海兵隊が何らかの荷物と共に格納庫に乗り込んでいったと港湾労働者がハワイ奪還後に証言している。
 巡洋艦としては標準を下回る砲力しか持たないラクーンではあったが、それでも窪川潜水艦長の見守る前で駆逐艦一隻を撃破していた。そして、攻撃力を失ったラクーンは日本海軍駆逐艦が接近してくると突如閃光を発して爆発した。
 この爆発は凄まじく、距離をとって監視していたはずの伊257潜も衝撃で被害を生じたほどであった。ラクーンはおろか接近していた駆逐艦一隻は完全に消失、おそらく轟沈した。それどころか撃破され漂流していたもう一隻の駆逐艦も爆発の熱波で激しく炎上していた。
 伊257潜は炎上している友軍駆逐艦を救出するため浮上して接近を試みたが、この行為は無駄に終わった。艦橋に上がった窪川潜水艦長の見守る前で炎上していた駆逐艦は僚艦の後を追う様に沈んでいったからである。沈む直前の駆逐艦の様子はスクラップ同然であり、生存者がいるようには見えなかった。
 ハワイ、フィリピン間の通商破壊戦に従事していた伊257潜は直ちに帰還した。そして伊257潜の船体に付着していた放射性物質が全てを明らかにした。ラクーンの消失理由は核兵器によるものであった。おそらくラクーンはその巨大な格納庫と高速力を買われて、当時既に日本海軍の妨害で航行が困難となっていた海域を突破するために使用されたのだろう。
 だが、そうなると謎がひとつ残る。いったい米軍は核兵器をどこで使用するつもりだったのか。このころはフィリピン上空の制空権は日米を行ったり来たりを繰り返しており、巨大な核弾頭を積んだ重爆撃機が安全に進軍出来るような状況では無かった。もしかするとフィリピンで直に接近する日本軍に対して自国領土内で使用するつもりだったのかもしれない。
 しかし、この件では米国は口をつぐんでおり、書類上はラクーンはフィリピン近海での哨戒活動中に戦没したこととなっている。

 この他にもキャッスルロックにおける死体発見の顛末など米海軍の謎と恥を背負ったようなアーカム級ではあったが、必ずしも恥ばかりであったわけではない。それは後に大統領となるジョセフ・ケネディJrが指揮したハイキャッスルと荒くれ者ばかりを率いたウェイン大佐のゴッサムである。

 フィリピン周辺海域の制海権を巡って太平洋戦争序盤に起こったグアム沖海戦において、この二隻は他に無い戦果をあげた。開戦時ジョセフ・ケネディは水上機パイロットからハイキャッスル飛行長に就任していた。しかしグアム沖海戦初頭の被弾によってハイキャッスル艦長ホーソーン・アベンゼン大佐以下の幹部スタッフが戦死、最上級士官となったケネディ中佐が指揮をとることとなった。
 この戦闘自体は日米共に痛み分けの結果となった。グアム基地から発進する重爆撃機群の打撃力は大きく、日本艦隊は大きな損害を受け後退せざるを得なかった。また、強大な打撃力を誇る日本海軍空母部隊をもってしても、多数の戦闘機でもって防空力を高めた米艦隊を叩ききることは出来なかった。
 しかしながら、米艦隊はその少ない搭載機数から打撃力が日本艦隊と比べ格段に低いため日本艦隊に大した打撃を与えることは出来なかった。日本海軍に対して打撃を与えることに成功したのは命中率の低い重爆撃機と艦艇からの攻撃のみだった。
 この海戦は史上初となる空母部隊、航空機戦力を主力とした戦闘であったが、当時の艦隊の防空力は極めて高いレベルにあったため双方ともに大した打撃を与えることは出来なかったのである。
 この様な戦闘の中で、ハイキャッスルとゴッサムは少数の護衛艦と共に艦隊前方に進出、日本海軍の攻撃の過半を引き付けた。この戦闘でハイキャッスルは幹部スタッフを失い、ゴッサムも少なからぬ損害を受けた。しかし、2隻共に撃沈されること無く戦場を離脱することに成功した。それどころか、隙を見て主力部隊を雷撃すべく接近していた日本海軍夜戦部隊と交戦し、護衛艦の全滅と引き合えに敵部隊を撤退させることに成功している。
 搭載機数の少ない米空母群が大きな損害を被らずにその後のヒットアンドウェイ作戦を実施することが可能であったのはこの二隻の活躍があったからだと判断された。臨時指揮官であったケネディ中佐は、三十代半ばという年齢で異例の大佐に昇進したのが米海軍の評価となって現れている。もっともこれは英雄を欲した政府の介入があったからだとも言われている。支持率の下がり気味であったマッカーサー大統領は大物政治家であったケネディ家の支援を必要としていたからだ。
 グアム沖海戦終盤において(艦隊型軽空母としての)空母と砲撃型巡洋艦を兼ね合わせたアーカム級の能力を十分に発揮した2隻ではあったが、逆にこの戦果が十分に検証されること無く一人歩きすることにもなった。実際のところ敵対した日本海軍ではこの戦闘において一隻づつの巡洋艦と空母であればさらなる脅威となったであろうと分析していた。
 もしそのような編成がとられていた場合、巡洋艦が敵をひきつけ砲戦を挑みながら、空母は安全な後方に退避させることが可能であったからだ。実際、日本海軍を退けたゴッサムは水上砲戦で飛行甲板を損傷し着艦不可能となっていた。ゴッサム搭載機のうち残燃料に余裕の有るものは後方の空母群に退避、残りはハイキャッスルに着艦した上で機体は放棄された。
 だが、航空巡洋艦の戦果は米海軍においては過大評価されることとなった。時の大統領自身がそう評価してしまい、また後の大統領があげた戦果であるからである。もはやこれは軍事ではなく政治となっていたのだ。



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