八雲型重巡洋艦




八雲1949年


<要目>
基準排水量 15,000t   全長 207.7m  全幅 21.9m  蒸気タービン 出力 130,000馬力(3軸)
最大速度 30.8ノット  乗員 1500名

兵装
連装50口径20.3cm砲 4基
連装65口径10cm高角砲 8基
連装25mm機銃 4基
(第一次改装時)

旧ドイツ海軍プリンツ・オイゲン

 ナチスドイツによる再軍備制限後に合計5隻が計画されて最終的に3隻というまとまった数で建造されたアドミラル・ヒッパー型重巡洋艦だったが、ドイツ敗戦時に残存したのはプリンツ・オイゲンただ1隻となっていた。
 しかも、欧州に食い込んできたソ連に対抗するために戦後直後から国際連盟軍に一定の戦力保持を要求されていた陸空軍とは異なり、バルト海から追い出されて相対すべきソ連海軍を失ったドイツ海軍は不遇をかこつこととなった。英国などから強く要求される形で全ての潜水艦は講和条約締結と同時に接収となり、水上艦艇はバルト海での戦闘が続く間は保留されていたものの、対ソ戦終結後はめぼしい艦艇は潜水艦同様に賠償艦として接収されていた。
 この時点で国際連盟軍による支援がなければソ連軍に対抗し得ないドイツには余裕がなく、第一次欧州大戦後にスカパ・フローで発生したような接収艦隊の自沈など到底考えられなかった。
 終戦時に残存している艦の中で、ブレストで修理中だったビスマルクは既に講和条件によってフランスに接収されており、かろうじて洋上にあったテルピッツはイタリアと英国で半ばスクラップの同艦を押し付け合うような状況であり、稼働するなかで最も有力な大型艦だったプリンツ・オイゲンは日本帝国が取得することとなった。

 当初、日本海軍はプリンツ・オイゲンを長期間運用する計画はなかった。同時期は、余剰となった旧式装甲巡洋艦が続々と除籍されてスクラップや標的艦として処分されていた。維持費のかかる旧式艦を戦時中は訓練艦などに使用していたものの、戦地に赴いていた新鋭艦の本土帰還で不要となっており、いずれは賠償艦であるプリンツ・オイゲンも必要な技術調査が終了すればこの群れに加わるものと考えられていた。
 ところが、民主化によって権限が強まっていた帝国議会が海軍の判断に異を唱えていた。プリンツ・オイゲンを正式に編入して連合艦隊で運用することを求めたのである。議会は、プリンツ・オイゲンを日本艦として運用することで対独勝利を国民に強く印象づけると共に、日米海軍で不均衡が明らかとなっていた巡洋艦の戦力比を改善しうるものと考えていたのである。
 二度の欧州大戦に未参戦であったにも関わらず、米国海軍は有事予算を立てて艦隊の増強を行っていた。交戦国に対する抑止力としての戦力整備と内外に主張していたものの、今次大戦中に国際連盟軍が船団護衛用の護衛艦艇を重視していた間も戦闘力の高い純粋な大型艦ばかりを建造しており、特に集中して整備された巡洋艦は新鋭艦ばかり50隻程も建造されて日英を圧倒していた。
 米海軍の巡洋艦重視の一方で駆逐艦の代替が進んでいないことも掴んでいた日本海軍は、大型艦の建造数ほどには戦力比には大きな差異はないと考えてはいたものの、議会との関係を悪化させるほどでもないと判断してプリンツ・オイゲンの本格的な運用に同意していた。巡洋艦戦力の不均衡は確かに存在しており、ドイツ艦の運用で技術的に得られるものもあるのではないかと考えられたのだ。

 賠償艦として欧州で引き渡されたプリンツ・オイゲンは、以前に廃艦となっていた装甲巡洋艦の名を受け継いで重巡洋艦八雲と命名されていた。旧八雲は連合艦隊最後のドイツ建造艦であったためだろう。当初日本海軍はプリンツ・オイゲンを大きく原型を改装することなく運用する予定だった。米海軍と全面戦争になるのでもなければ同艦は訓練艦や技術調査などに用いればいいという程度の軽い考えだったのだろう。
 ところが、日本本土に回航した後に実弾射撃を含んで何度か行われた試験の結果は海軍関係者の眉を顰ませるものだった。これは以前からある程度わかっていたことだが、ドイツ海軍艦艇の高速力の源である高圧蒸気は多分に運用面でも無理を承知で採用されたものであり、故障頻度が高く安定した運用には減圧での運用を余儀なくされていた。
 それに加えて対空兵装に関しても技術的な問題が生じていることが判明していた。ドイツ海軍では画期的な三軸式の安定装置を射撃指揮装置、高射砲、挙句の果てには探照灯にまで搭載していた。しかしこの安定装置は技術的に未熟な代物を強引に搭載したようなものであり、技術的な資料価値は高かったものの容易に振動などで故障する代物でしか無く、いわゆる「武人の蛮用」に耐えうるものでは到底なかった。しかも安定装置のために重量も大きく、アドミラル・ヒッパー型が条約型と同程度の兵装でありながら過大な排水量となった原因はこれらにもあるのではないかとまで言われた程だった。
 比較的状態が良いとされていた主砲にも別の問題が潜んでいた。概ね日本海軍の条約型重巡洋艦が装備した三年式と同等の能力を持つと評価された8インチ主砲だったが、生産施設が北部のソ連軍占領地帯に含まれていた上に、在庫の主砲弾の殆ども最後にアドミラル・ヒッパー型が母港としていたキールに集積されており、本艦搭載分を除くと在庫どころか正規の製造図面すら欠く有様だった。使い捨てるつもりであるならばともかく長期間の運用には支障があったのだ。

 結局、日本海軍の重巡洋艦八雲として再就役したばかりの本艦は短時間で本格的な再整備工事を余儀なくされていたが、その改造工事の内容は上甲板より上の各種構造物の大半に及ぶ大規模なものだった。ただし、搭載された艤装品はいずれも技術的に安定した既存品どころか廃艦から取り外されたものまで流用されていた。
 艦橋周りはドイツ艦時代と基本的には変わらないが、荒天航行時などを考慮して開放艦橋は閉囲されていた。これは日本海軍の基準では不足と判断された艦橋容積を補うものでもあったようである。
 塔型マスト頂部及び拡張された後部電探室上部には日本海軍様式の射撃管制用電探付きの射撃指揮装置が搭載された。これは新造だが設計は既存艦と同様である。これに合わせる形で主砲も日本本土に残されていた予備品の三年式が砲塔装甲ごと下部を改造されて搭載されていた。これは砲塔全体ではなく、給弾機構などの既存の下部構造を上部構造や砲弾に合わせて改造したものである。

 主砲関係が改造が施された上で一部は残された一方で、複雑な対空兵装は射撃指揮装置から機銃座に至るまで信頼性に欠ける上に重量が大きすぎるために完全に撤去された。それに加えて規格の異なる雷装もついでとばかりに撤去されていたが、前後部艦橋をつなぐその空間は従来よりも容積が拡大された甲板室で占められていた。
 この空間は旧式装甲巡洋艦に代わる練習艦としても運用するために居住区画の増設が求められたことに加えて、戦時中に有用性が認められた中央指揮所が追加されたためだったが、これは既存艦への中央指揮所追加の試作という面もあったようである。なお、実際に指揮所が設けられたのは艦橋下部であり、この空間には艦橋から追い出された形の艦長室などが設けられていた。
 対空兵装は甲板室に追いやられる形で空母にも似た舷側にはみ出す形で搭載されたが、計8基搭載された高角砲は艦橋上部に設けられた測距儀から換装されたものも加えて5基搭載された電探連動の高射装置によって管制されており、対空射撃は改装前よりも強化されたと判断されていた。
 対空機銃に関しては、有用性に加えて過剰に要求されていた戦時中と比べると需要そのものの低下から煙突周囲に装備された4基に激減していたが、これも機銃座に挟まれる形で備えられた探照灯同様に日本製に換装されていた。なお、これらはいずれも廃艦からの流用品であり、間に合わせ以上のものではなかった。

 電探搭載用に前部マストも日本式に換装されていたが、後部マストは同時期の日本海軍重巡と比べて基部の耐荷重に不安があったためか電探は前部に集中しており、特に対水上捜索能力には懸念もあったようである。また、他に日本艦と異なり従来から塔型マストを備えていた本艦は合計三本のマストを持つということになっていた。
 前後部マストに挟まれて配置された対空艤装は、射出機や吊り上げ起重機こそ中古の日本製に換装されたものの従来通り残されていた。この時期は水上機の需要が低下していたため回転翼機の搭載も検討されていたのだが、回転翼機の発着艦に用いるには煙突と後部マストの間は狭すぎる為に断念されている。
 航空艤装に関してはむしろ完全に撤去して甲板室や指揮所に転用する案もあったのだが、将来装備用として残されていた。ただし固有の搭載機は無く、当時練習艦任務についていた際も格納庫は天蓋を張られたまま講堂などに使用されていた。
 上部構造が一新された一方で機関部は戦時中に破損した箇所の修復を除いてほとんど手を入れられなかった。これは艦内配管の継ぎ手一つとっても日本製とは規格が合わないために換装となると工数、予算があまりに増大するからであり、日常的に減圧運転を強いられる状態に変わりはなかった。

 改装を終えた八雲は、排水量からするとその性能諸元は些か拍子抜けするものだった。対空火力はやや有力であったものの、戦時中から建造が始まっていた防空巡洋艦とは比べるまでもなく、8インチ砲8門という主砲火力は艦隊最古参の妙高型重巡洋艦にも劣るものでしかなかった。それに原型ではより大重量の砲弾を使っていたにもかかわらず給弾機構の余裕は小さく、主砲発射速度もそれほど高くなかった。
 速力や操舵性も大重量の艤装品が取り外されたにもかかわらず排水量が大きいこともあって低く、同格の重巡や大型軽巡洋艦と隊列を組むのに苦労したとの証言が残されている。
 実際の戦力では、雷装を除いても旧式化した妙高型に劣るとまで言われた八雲は、艦隊内では二線級の練習艦として運用するしかないとまで評価されていたが、本艦の改装を主導した艦政本部ではもともと実働戦力として再生することは考慮しておらず、余裕のある排水量を生かした実験艦として今後も再利用することを考えていたと言われる。





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