ソビエツキーソユーズ級戦艦





<要目>
基準排水量 62,100t   全長 275.1m  全幅 38.8m  蒸気タービン 出力200,000馬力(4軸)
速力 28.3ノット 乗員 1950名
最大装甲厚 舷側 400o 10°傾斜  甲板 200o  主砲防盾 505mm

兵装
三連装48口径42cm砲 3基
連装12.7cm連装両用砲 14基
四連装60口径40mm機関砲 10基

同型艦 ソビエツキーソユーズ、ソビエツカヤウクライナ、ソビエツカヤベロルーシヤ、ソビエツカヤロシア

 ソビエツキーソユーズ級はソビエト連邦海軍が始めて建造した近代戦艦である。
 1940年代前半までソ連海軍が保有していた戦艦は、完全に旧式化していたガングート級のみだった。このような状況に対して、ソ連海軍は米国の技術支援による海軍近代化計画を実施した。これによりキーロフ級巡洋艦や実質上は空母であるリーリャリトヴァク級航空巡洋艦が建造された。ソビエツキーソユーズ級もこの近代化計画によって建造された新造艦の一隻である。
 建造開始は1930年代末のことだったが、対独戦が開始されたことから資材調達が難航し、1940年に1,2番艦が平均30%まで工程が進捗した時点で陸軍に物資を回す為に建造を中止され、一部は解体され船渠近郊の戦車工場で資材として使用されてた。

 第二次欧州大戦をかろうじて生き延びた未完のソビエツキーソユーズ級だったが、バルト海海戦において出撃したガングート級が大和、武蔵の二隻によって全て撃沈され、他の艦艇もかなりの損害を受けたことからその完成は急務となった。
 また大和型はこれまでの推測以上に強力な戦艦であるとソ連海軍では判断していた。それまで準戦艦として戦力化されていたクロンシュタット級重巡洋艦が、実際には戦艦に対して無力であったこともソビエツキーソユーズ級及びそれに続く大型巡洋艦の建造計画に影響を与えた。
 結局、ソビエツキーソユーズ級の建造は急務と判断されていたにもかかわらず対戦終結後もしばらく中止されていた。その間設計案は大幅に変更され、明確に仮想敵を大和型と定めた改定案にそって建造が再開されたのは1947年のことだった。
 しかしソビエツキーソユーズ級戦艦の建造再開からすぐにソ連と米国の関係が悪化し、一時期は建造計画の中断までうわさされるほどだった。これは米国において共産主義に反対するマッカーサー大統領が就任した為である。すでに契約も行われていたことからソビエツキーソユーズ級に対する技術支援が全て中止されることは無かったが、当初計画では米国より50口径16インチ砲を購入するはずだった主砲は、マッカーサー政権による輸出許可の取り消しによって白紙に戻されることとなった。
 しかしながら、実はソ連海軍首脳は当初より16インチ砲を採用する予定は無かったといわれる。彼らは大和型の主砲を18インチと推定しており、また自身の主砲に主砲戦距離において耐えられるだけの装甲を有しているだろうと判断していた。この推測は全く正しく、同時期の米海軍が大和型をやや装甲を充実させた16インチ九門艦と判断していたのと対照的である。ソ連海軍は、大和型に対抗する為には最低でも17インチ級の主砲が不可欠であり、16インチ砲では高初速砲であっても相当近距離まで踏み込まないと大和型を撃破するのは難しいと考えていた。
 また、第二次欧州大戦終結間際に鹵獲した未完成のドイツ製H級戦艦も、ソビエツキーソユーズ級の改設計に影響を与えている。鹵獲された戦艦は船体の建造がほぼ終了しており、またドイツ式の装甲配置は実際に確認してみると、米国の優れた艦艇建造技術を取り入れていたソ連海軍技術陣から見れば明らかに旧式で有った為、ソ連海軍は一部の構造、兵装を自国式に改めるのみで進水させてしまったが、その主砲である48口径という長砲身の42センチ砲は魅力的であった。
 明らかに長砲身による高初速によって近距離戦を得意とした砲では有ったが、これほどの大口径砲であるから並の16インチ砲よりも遠距離であっても威力は上であった。この砲を製造工場や労働者と共に手に入れたソ連軍は、ソビエツキーソユーズ級の主砲にSHS運用能力を付加した48口径42センチ砲を採用した。また装甲も同砲に対して有効な厚さと遠距離砲戦に対応した近代的な装甲配置がなされており、大和型に準じた防護力を有していた。

 就役したソビエツキーソユーズ級はソ連海軍の主力艦として脅威を国際連盟諸国に与えたが、衝撃度という点ではアルハンゲリスクの就役時を超えるものではなかった。しかしその完成度はアルハンゲリスクや、数年前に就役していた米海軍のモンタナ級の比ではなく、後の目で見れば大和型及びその改良型のライバルはソビエツキーソユーズ級だった。
 実際に、ソビエツキーソユーズ級は第三次世界大戦において第二次バルト海海戦で大和型と対峙している。対日戦線で苦境に立たされた米国がこれまでの方針を転換し、大西洋での日英を主力とする国際連盟側戦力の誘引、牽制をソ連に対して要請してきたのである。技術支援の再開や膨大な物資と引き換えにソ連はこれを受け入れた。これによりソ連海軍はソビエツキーソユーズ、ソビエツカヤロシア、アルハンゲリスクを主力とするバルト海艦隊と、ソビエツカヤウクライナを主力とする黒海艦隊を同時に出撃させたのである。
 これに対して連盟海軍参謀部は日本海軍遣欧艦隊所属の信濃、周防と英海軍最強戦艦のヴァンガードをバルト海に、イタリア海軍をギリシャ沖へと派遣した。第2次バルト海海戦と呼称された海戦において改大和型である信濃、周防と交戦したソビエツキーソユーズ級二隻は、アルハンゲリスクがヴァンガードに早々と全ての砲塔を撃ち抜かれ無力化されたのとは対照的に最後まで砲撃を続けることが出来た。
 国際連盟海軍艦隊が最終的に勝利を収めたのは、先任艦長である平大佐が臨時に率いていた太刀風型駆逐艦微風を旗艦とする駆逐戦隊が、砲撃戦を続ける戦艦群の反対側に回り込み水雷襲撃に成功したからである。自衛火力に乏しいソ連海軍戦艦部隊では、これを遠距離で阻止することが出来なかった。この結果、ソ連海軍はアルハンゲリスクを損失、ソビエツキーソユーズ級二隻も大きな損害を受けて撤退した。

 この戦いは両軍に大きな影響を与えた。ソ連海軍は敗北したとはいえ、少なくとも戦艦部隊は日英艦隊に対して互角の戦いをすることが出来た。そこでこれを支えるべき巡洋艦隊の再整備が最優先課題と認識された。これにより戦艦を中心として、護衛戦力である巡洋艦隊や防空力を提供する航空巡洋艦によって編成されたバランスの良い艦隊をソ連海軍は再整備することとなった。
 一応の勝利者となった国際連盟海軍にとってもこの海戦は大きな衝撃を与えた。いつのまにか巨大化していたソ連海軍は決して侮れる戦力ではなかった。そのため信濃、周防を主力とする艦隊は修理を終えた後もソ連海軍を警戒して欧州から引き抜くことが出来なくなった。結果的にソ連海軍による牽制は成功し、戦略的にはソ連の勝利といっても良かった。
 しかし、ソビエツキーソユーズ級そのものを日本海軍はそれほど脅威に感じることは無かったとも言われる。ソ連海軍の建艦能力や戦力維持にかかる経費を考慮するとソビエツキーソユーズ級を大きく越える戦艦をソ連海軍が建造するのはもうしばらくは無理であると判断していたし、当の日本海軍には信濃型や紀伊型を上回る水戸型が就役間近だったのである。




 



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