尾張型航空戦艦





<要目>
基準排水量 74,600t   全長 276.3m 全幅 39.0m 蒸気タービン、ディーゼル複合 出力 200,000馬力(4軸)
最大速度 26.8ノット  乗員 2450名
最大装甲厚 舷側 400o 19°傾斜  甲板 200o  主砲防盾 650mm

兵装
連装45口径51cm砲 2基
三連装60口径20.3cm砲 1基
連装65口径10cm高角砲 18基
連装65口径8cm両用砲 10基
航空機 20機


紀伊型二番艦尾張改装


戦果と損害

 尾張型航空戦艦は、第三次世界大戦開戦直後のトラック島沖海戦で損傷を受けた紀伊型二番艦尾張に、全面改装を行うことで誕生した異形の戦艦である。

 トラック諸島沖での戦闘において、尾張は接近してきたアラスカ級大型巡洋艦プエルトリコの12インチ砲およびアイオワ級戦艦ケンタッキーの16インチ砲から連続して砲撃を浴びた。その損害は大きく、特に艦尾の第三砲塔は半壊するほどの被害をこうむっていた。
 連装砲のうち砲身一本が直撃弾と破片によって折れ曲がっており、16インチ砲弾複数の直撃を受けたバーベットも湾曲して砲塔の旋回が不可能だった。
 この戦闘において、51サンチ砲の直撃でケンタッキーに大打撃を加え、さらに20.3サンチ砲の猛打でプエルトリコを制圧し続けた尾張の戦果は大きかったが、その代わりに長期の修理期間を必要とするほどの大損害を受けていたのである。

 同時に、尾張と臨時に戦隊を組んでいた長門型戦艦二番艦陸奥も、艦橋構造物をほぼ喪失するなど大損害をこうむっていた。プエルトリコを撃沈したのは陸奥の41サンチ砲弾だったためやはり戦果は大だったが、長期間のドック入りを余儀なくされたのは同様だった。

 しかしながら両艦の長期間のドック入りはしばらく延期されることとなった。両艦の修理に関して海軍内の意見が混乱したためである。

 まず、尾張の完全修理は、バーベットの作り直しから始めなければならなかった。さらに肝心の51サンチ砲は、同時期に就役していた水戸型の建造にすべての砲身を割り当てたあとであり、再生産されるであろう砲身も、可能であれば中途半端な紀伊型尾張の修理よりも、水戸型の損耗に備えたいというのが海軍の本音だった。
 さらに陸奥に関しては、すでに建造から半世紀近く過ぎた戦艦をいまさら大工事となるであろう修理工事を行っても有力な戦力となるのか先ず以て不明だった。確かにトラック泊地への核攻撃によって旧式戦艦多数を喪失した日本海軍にとっていまだ有力な41サンチ砲戦艦は魅力的ではあった。
 しかし日本海軍は、漸減戦術がすでに崩壊した今では、米国との主戦場となる広大な太平洋では、高速で航行し、広大な索敵、攻撃範囲をもつ空母が主戦力になると考えていた。戦艦同士の決戦があるとすれば、太平洋に散らばる諸島の攻防戦の推移が見定まってからではないかと考えていたのだ。
 だが空母は、飛行甲板への被弾によって容易に無力化されてしまうから、これを迅速に修理するためには損害を受けるたびに船渠工事が発生すると考えていた。この当時の日本海軍主力空母は、装甲化された大鳳型および大鳳改型だったからそれ以前の空母のように被弾が即喪失とはつながらないが、その分だけ無事に帰還した空母は迅速にドック入りして再戦力化することが求められていた。

 つまり開戦直後の日本海軍は、稼働率の高くなるであろう空母のために、決戦まで出番がない大型戦艦に船渠を長期間占拠させるわけにはいかないと考えていたということになる。
 これらの理由から、尾張と陸奥の完全修理には日本海軍は消極的だった。尾張に関しては比較的早い時期に第三砲塔の修理はあきらめられ、変わりにバーベットをふさいで後部甲板上に対空火器を並べて防空戦艦化する案が半ば決定され、短期のドック入りした後に早々と第三砲塔が撤去されようとしていた。
 陸奥は戦艦として再就役することを断念し、ドック入りすることなく最低限の補修を行った後に、後鐘楼から防空指揮を行えるように改装した上でどこかの軍港で防空砲台とする案が消極的ながら採用されるところだった。
 だが、政治が二隻の戦艦の運命を揺るがすこととなった。

政治と工数

 日本海軍、および政府は、自らの油断と失策が招いた緒戦での大損害から国民の目を一時的にでも背けさせなければならなかった。それにはなにか華々しい戦果が必要であった。
 この点において、緒戦から半ば偶然とはいえ反抗作戦を開始し、敵主力艦の一角を撃沈せしめた陸奥と尾張は格好の宣伝材料であった。
 開戦直後は日米共に硫黄島と台湾、フィリピン、グアムなどを舞台とした空母部隊と基地航空隊による消極的な航空戦に終始していたため、敵艦撃沈という派手な戦果はしばらくは望めそうもなかったことも必要以上に二隻の戦果を宣伝することにつながった。
 また二隻とも同型艦を核攻撃で喪失しており、一部メディアなどでは米国による卑怯な核攻撃などとあわせてセンセーショナルに報道されていた。

 この半ば海軍と政府によって画策された報道が彼ら自身を縛ることとなった。
 つまり国民にとって悲劇の中の英雄となってしまった陸奥と尾張は、再び戦場に立つことを要求されてしまったのである。
 国民が望むのは、猛々しく僚艦の仇を討つべく戦う戦艦であって、巨砲を失った防空戦艦や、ましては指揮能力のなくなった自走防空砲台などではなかったのである。
 政府諸機関からの忠告を受けた海軍は、ここで技術的暴走を見せ始めることとなる。すなわち陸奥の大規模な近代化改修と尾張の航空戦艦化である。
 陸奥に関しては、工数増大の原因となるであろう艦橋構造物に関して、実験施設を丸ごと流用することで解決することとなった。この施設は実は元々常陸型戦艦三番艦用に製作されていたものだった。三番艦の建造が中止され、大和型の建造が開始された際に艦橋構造物のブロックが先行してほぼ完成していたため、呉工廠近くの倉橋島に設置されて各種電探や射撃指揮装置の試験用に使用されていたのを誰かが思い出したのである。
 この時期、この施設は、47式射撃指揮装置の信頼性向上のために使用されており、最新装備を労せずに装備することができた。これにより陸奥は、呉工廠あらため旧軍港法で工廠施設の一部を払い下げられていた三陽造船呉工場で再就役のための工事が行われることとなったのである。

 尾張の再就役に関しては陸奥ほどスムーズに進むことができなかった。前述のとおり第三砲塔を完全に修理するには長期間のドック入りが必要であったが、政治と軍事双方がそれを許さなかった。短期間での再就役と、少なくとも国民に見栄えのする形態が尾張には求められていた。

技術と暴走

 ここである技術士官が暴走的なアイディアを発表する。つまり艦体後部に飛行甲板を有する航空戦艦への改装である。すでに米ソ連合では航空巡洋艦が就役し、特に米国海軍では艦体後部を飛行甲板としたアーカム級航空巡洋艦が就役し、対地支援や対潜哨戒等の任務をこなす航空隊を運用していた。
 だが、これらの航空巡洋艦では、飛行甲板の前方には余計な障害物等は存在していない。アーカム級も全通甲板でこそないが、飛行甲板より前に設置されている主砲塔は、航空機の離発艦に支障が無いように飛行甲板よりも低いレベルに配置されていた。
 これに対して尾張では前方に巨大な艦橋構造物と主砲塔が存在しており、これらをすべて排除して全通甲板を張るのはかなりの大工事となり、そもそも空母改装であれば「戦艦尾張」の再就役とはならないはずだった。
 一応カタパルトを用いれば大半の機体は発艦可能であろうが、着艦が可能とは思えなかった。勿論片道特攻が前提の航空隊など認められるはずも無かった。

 だが、前述の技術士官はあっさりと飛行甲板を(艦体上部から見て)V字とすることで発着艦に必要な空間をひねり出して見せたのである。つまり、格納庫から飛行甲板に引き上げられた機体は、舷側に前進して突き出して設けられた飛行甲板に設置されたカタパルトから射出され、着艦するときは同じように斜めになった甲板に着艦するのである。突き出された甲板は両舷側共に伸ばされており、どちらからでも射出、着艦が可能だった。
 これは大鳳型以降の空母で採用された斜め甲板をそのまま採用したに過ぎなかった。これならば大鳳型の設計を大部分流用できるし、建造時も冶具や資材を流用することができた。これにより工期の短縮が可能となった。
 また、航空戦艦はその異様さ故か、少なくとも防空戦艦よりも見栄えがすることは確かだった。それに第一艦隊に所属する第7航空戦隊の空母二隻のうち蒼龍も核攻撃で喪失しており、いくらかでもその代替として防空能力を補填できれば、実用上も価値は高かった。
 こうして尾張は早々と引き上げられていた第三砲塔周辺部を徹底的に撤去し、その上に空母の後半部を被せるようにして航空戦艦化が進められることとなった。
 飛行甲板を少しでも延長するために、破損していた後鐘楼は撤去され、ディーゼル機関の排気塔と一体化した小型のものが新たに設けられている。ここにはサブシステムとしての艦橋というよりもは航空機運用能力に重点を置かれて、離着艦管制室が設けられている。
 また、艦体後部を改装する期間を利用して、近接防空火力として筑波型重巡洋艦で採用された8サンチ両用砲を搭載し、主砲の管制も含めて、射撃指揮はやはり筑波型重巡洋艦で採用された47式射撃指揮装置に換装された。
 破片調整弾を使用した主砲による対空射撃をも加えれば、近接火力にかぎれば尾張型はどんな防空巡洋艦よりも強力な対空砲火を発揮することができた。
 この47式射撃指揮装置と8サンチ両用砲の搭載を除けば艦体前半部は改装前とほとんど変更点は無い。唯一、ケンタッキーの主砲弾で吹き飛ばされていた主ボイラーの煙突構造物がトラス構造のアンテナマストと一体化したものに改造されている。

航空と縄張

 尾張の航空戦艦化において最後まで決まらなかったのは艦載機の選択だった。計画当初は飛行甲板の制約や、航空戦艦の少ない搭載機数でも様々な任務に対応することが可能であることが選択肢を狭めていた。つまり制空戦闘機としては旧式化して戦闘爆撃機として改修されていたレシプロ機烈風改である。しかし戦訓が烈風改の採用に待ったをかけた。

 この当時、米国海軍は戦艦戦力の整備に資源を注ぐ一方で空母の整備は後回しになっていた。そのため米国の空母は時代遅れとも言える艦載爆撃機による索敵と戦闘機による艦隊前方に進出しての防空を主任務としていた。
 艦載機に変わって対艦攻撃の主力となったのは陸上から発進するB-35、B-36などの大型爆撃機だった。大型爆撃機は高度一万から誘導爆弾を投下することで命中すれば戦艦ですら撃破することが可能だった。これに対抗するために長距離防空火器は急速に誘導弾へと切り替わっていった。
 また、空母に搭載される戦闘機も、防空戦闘の際には、大型爆撃機を迎撃することも主任務のひとつになった。しかし高度一万を飛行する爆撃機を迎撃することはレシプロ機には難しかった。電探で長距離で爆撃機を発見しても、上昇するまでに時間がかかりすぎて戦機を逸してしまうことが多かったのである。
 つまり大型爆撃機を迎撃するには艦載ジェット戦闘機が必要だったのである。この当時すでに日本海軍には空軍機を艦載化した震電三三型(艦上機としての愛称は震風)が存在していた。戦艦部隊に随伴して防空や対潜を主任務とする以上は、尾張の航空隊も戦闘機として震電三三型を搭載し、その他の任務には烈風改を補助戦闘機をかねて搭載すればよいのではないかと思われた。だがここで身内の海軍航空本部が異論を唱え始めたのである。
 航空本部としてはそのような中途半端な艦に貴重な主力戦闘機である震電三三型を搭載するのは避けたかったのである。まずそれらの新型機は大鳳型の航空隊を充足させるのが先だった。しかし旧式機の烈風改では爆撃機を迎撃するのは難しかった。
 本来であればここで妥協して航空本部が推奨する烈風改が採用されるところであったのだが、再び技術士官たちは暴走を始めた。

 この頃、震電の元々の開発先である九州飛行機は不遇をかこっていた。何故ならば震電が数ある実験機の一機から次期主力戦闘機として採用される際に、海軍航空本部および空軍実験航空団からの指導によって震電の開発、生産を三菱、中島飛行機に移管させられていたからである。
 これは九州飛行機では企業規模が小さすぎるため、空軍と海軍の主力機として安定した生産を続けるのが難しいと判断されたためである。そこで主契約者を三菱重工として空軍機は中島飛行機、海軍機は三菱重工で生産されることとなったのである。
 しかしがら九州飛行機にしてみれば折角育て上げた子供を横から掻っ攫われた形となっており、いくら軍の保障があるとはいえ面白い話ではなった。
 それゆえに九州飛行機は、ベンチャーとして震電の発展系である戦闘機の開発を自己資本で続けていたのである。そこに新たな艦載機を物色していた海軍艦政本部が目をつけたのである。

 後に五一式艦上戦闘攻撃機と呼称された機体は、たしかに機数の限られる航空戦艦には格好の性能を持っていた。
 旧空技廠関係者の支援を受けて設計されていた機体は震電三三型が搭載するものと同型のジェット・エンジンを搭載しており、兵装も20ミリ長砲身機銃四丁と13ミリ機銃一丁を固定で装備する他に、80番爆弾一発または25番爆弾二発を搭載することが可能だった。
 航空機としての性能も申し分なく、試作機段階で音の壁を突破することまで期待されていた程だった。
 この機体に問題があるとすればただひとつだけだった。それは大型の双発複座機であることだった。

 専管事項であるはずの航空機行政に関して横槍を入れられた航空本部は、双発機による搭載機数の減少(零式艦戦であれば40機、烈風改や震電でも30機、この機体を採用した場合20機程度)やただでさえ斜め甲板のみであることや巨大な上部構造物のおかげで難しい発着艦がさらに困難であるとしてこの機体の採用に反対し、烈風改を押してきていた。
 これに対して艦政本部とフォースユーザーである連合艦隊は烈風改の採用に強く反発した。
 船団護衛の対潜警戒や対地支援に使用されるであろう補助空母や搭載機数に余裕のある正規空母ならまだしも、改装経緯を考えれば、間違いなく尾張が向かう戦場は敵主力艦隊と対峙する艦隊決戦だった。
 そんなところでは弱い戦闘機など役には立たないのだ。数は少なくとも敵航空機を撃破することのできる戦闘機が必要だったのである。

 かくして正論と連合艦隊という味方を手にした艦政本部は更なる暴走を始める。九州飛行機に対して実用的なジェットエンジン搭載艦載機としての改装を命じたのである。
 九州飛行機は大手に奪われた震電の敵討ちとばかりに喜び勇んで改装工事を開始した。その手順はある意味で確立されたものだった。つまり震電を艦載ジェット機として改装された手順を繰り返せばよかったのである。

 かくして極風(横槍を入れられた航空本部による曲風と掛けた嫌がらせであるという説もある)という愛称を与えられた51式艦上戦闘攻撃機が誕生したのである。
 極風は九州飛行機が開発していた震電を双発化したような形状をしていた。震電では胴体後部に推進式に取り付けられていたジェットエンジンは、扁平となった胴体の側面よりに取り付けられ、吸気口もあわせると艦載化の際に前後に引き伸ばされた主翼と一体化していた。その主翼はエンジンの外側から上部に向かって折りたためるようになっていた。

 変更が加えられたのは機体構造やエンジンだけではなかった。原設計では機種先端部に集中していた四丁の機銃は装備位置を後方に下げられた。
 そして機銃が元々あったスペースには、電探が搭載された。これにより極風は夜間迎撃戦闘機として使用することも可能となったのである。
 電探は昼間の迎撃戦闘時にも活躍した。他の単座機ではまだ操作の難しかった電探を活用するのは難しかったが、複座の極風は副操縦手を電探操作に専念させることで有効に活用することができた。

 また、電探の採用は、極風を大型空対空誘導弾搭載機にさせることができた。採用された空対空誘導弾は、機上管制の誘導装置を組み込んだために大型となってしまったため、対戦闘機戦闘では機動性が低く容易に回避されることも多かったが、対大型爆撃機用途としてはきわめて有効であった。米陸軍航空隊重爆撃機の乗員達は何よりも、艦隊のはるか前方で迎撃を行う極風が搭載する誘導弾と重装備の極風自体を恐れることとなった。
 そして、かつての双発戦闘機ブームの頃はろくなものができなかったはずの双発戦闘機は、ジェットエンジンという強力なパワープラントを手にしたことにより単座単発機と互角に戦うだけの戦力を手に入れたのである。
 極風はほぼ同時期に開発されていた震電の後継として開発されていた49式艦上戦闘機旋風と比較しても遜色ない性能を誇っていた。旋回性能では一歩譲るものの、兵装搭載量や最高速力では上回ることができた。

 尾張はこの双発複座の極風を二十機(分解状態の補用機4機)搭載する軽空母兼戦艦である航空戦艦として甦ったのである。

宣伝と戦火

 こうして完全修理に比べれば短期間で再就役を果たした陸奥と尾張は、空母任務部隊の果てしないヒットエンドランとルソン島での泥沼の地上戦によって膠着状態にあった状況で、再び国民の戦意を高めるための格好の宣伝材料となった。
 再就役後の猛訓練を実施する両艦は、さしたる意味も無いまま再び戦隊を組まされた。
そして陸奥、尾張の第7戦隊と筑波型重巡洋艦二隻の第20戦隊、そして新鋭の太刀風改型艦隊型駆逐艦を擁する第18駆逐戦隊というすべて新造艦か改装艦、それも全艦が47式射撃指揮装置を装備した新鋭艦ばかりで編成された第13分艦隊は、瀬戸内海や日向灘での訓練航行中に幾度も報道陣の目にさらされた。
 軍事機密に抵触する部分は厳重に検閲を受けたものの、軍は積極的に報道に協力していた。岩国基地からは旧式化して訓練支援機として改装された一式陸攻が遠隔操縦の無人標的機や曳航標的を抱えて連日飛来したが、海軍はたびたび報道陣を同乗させて対空戦闘、対艦戦闘、対潜戦闘訓練を続ける分艦隊を取材させた。

 もはや第13分艦隊の宣伝は国策とかしていた。海軍はとある漫画家に依頼して陸奥と尾張を擬人化した漫画まで製作していた。緒戦で喪失した旧式戦艦群を兄弟に見立てて、兄弟達の仇を討つべく健気に立ち上がる姉と弟という筋書きの、おそらく古典の物語からモチーフを流用したと思われる漫画は、本来小学校(国民学校制度から改正された)の児童向けであったが、いったい誰が思いついたのか翻訳した上で諸外国に配布されたのである。
 この漫画は意外にも米ソ連合以外では好意的に受け入れられた。ついでとばかりに出版社は同じ作者の犬の陸軍兵士が活躍する漫画まで売り込み、やはりこれも欧州やアジア諸国で大人気となった。
 おそらく、米国による宣戦布告と同時刻の核攻撃が諸外国国民に卑怯な行為とうつったのだろう。特に独立したばかりのアジア諸国や旧植民地を通して情報を伝えられた欧州諸国では核攻撃後のトラック諸島の悲惨な光景が広く報道され、核攻撃後の放射能による二次災害が伝達されるようになると対米世論は悪化する一方となった。
 本来米国が期待していた核攻撃による諸外国への威嚇は失敗に終わった。国際連盟側でも核弾頭の製造が間近であることが判明し、それどころか米国でも未だ構想段階の核分裂炉を搭載した潜水艦が日本海軍で実戦配備され始めていたからである。

 このような国際世論をも味方につけた第13分艦隊はもはや敗北を許されない立場にたたされていた。その責任は重大であり、きわめて異例なことだが、分艦隊司令官が一年の間に非公式ながらストレスによる体調不良を理由に二回も代替わりすることとなった。

 そして第13分艦隊はハワイ沖海戦において見事に期待にこたえることに成功したのである。
 中立を宣言していたハワイ王国は、開戦直後にグアム、フィリピンへの海上補給線を確保するために米国によって占領されていたが、ルソン島で膠着状態に陥っていた日本軍は、ハワイ島を電撃的に制圧し、海上補給路を根本的に破壊する作戦を実施した。
 投機的な作戦ではあったが、勝機はあった。海軍戦力では緒戦で失った旧式戦艦群の代わりに、英国東洋艦隊の本格的参戦が決定されていたし、なによりも戦前より皇族同士の婚姻で準同盟国関係にあったハワイ王国の残存ゲリラが、海軍の作戦と呼応して奪還作戦を行うことが計画されていたからである。

 外務省や情報省をも巻き込んだ大作戦となったハワイ奪還作戦はハワイ沖海戦という艦隊決戦をも惹起させた。
 ハワイ沖海戦では、米国軍は得意とする大型爆撃機による対艦攻撃に齟齬を犯していた。ハワイ諸島に駐留していた重爆撃機部隊は、その少なからぬ数をハワイ諸島に潜入していた日本帝国陸軍機動旅団と海軍特務陸戦隊という日本軍が誇る特殊部隊と、ハワイ王国残存部隊による襲撃で地上で失うこととなった。
 発進に成功した爆撃機も、空母から発艦した震風、旋風と尾張から発艦した極風によって迎撃されて投弾に成功した機体は少なかった。日本海軍艦隊の阻止に重爆撃機隊は失敗したのである。

 しかしながら、有力であったはずの日本海軍空母部隊による攻撃も不徹底に終わった。これは搭載機数で劣る米空母部隊が、汎用性が失われるのを承知で、その搭載機の大半を戦闘機にしていたからである。
 濃密な防空戦闘機群にさえぎられて米艦隊への攻撃を行うことのできた機体は少なく、撃沈は巡洋艦二隻他に過ぎず、敵艦隊の対空砲火と合わせて多くの機体が何らかの損害を受けて再出撃は難しくなっていた。
 実質上双方の空母部隊が無力化された以上は、雌雄を決するのは戦艦部隊に他ならなかった。

 数上の優位は米艦隊にあった。米旧式戦艦部隊を英国東洋艦隊とぎりぎりで戦場に到着したイタリア東洋艦隊に任せたとしても、米国新鋭戦艦部隊だけで日本海軍の戦艦部隊よりも数は多かった。
 しかし米海軍は小型のコネチカット級戦艦から新鋭の大型ユナイテッドステーツ級戦艦まで参加しており、質の上では日本海軍に目があった。

 この戦闘において第13分艦隊は敵主力艦隊から分派して後方に回り込もうと機動していた高速戦艦部隊を迎撃することとなった。奇しくも敵艦隊の編成は緒戦において相対した部隊とほぼ同じく、アイオワ級高速戦艦とアラスカ級大型巡洋艦を主力としていた。
 結果的に言えば、第13分艦隊は敵艦隊の阻止に成功した。陸奥の主砲はアラスカ級の装甲を紙のようにあっさりと貫通させた。瞬く間にすべての砲塔を打ち抜かれたアラスカ級は早々と戦場を離脱しようとしたが、蔵王と磐梯から20.3サンチ砲弾の釣瓶打ちを食らって撃沈された。
 アイオワ級はその優速を利用して砲撃戦を離脱して後方に回り込もうと機動したが、隠し玉ともいえる尾張から砲撃戦開始前に発艦した極風による雷撃で速力が低下したところに尾張からの砲撃と駆逐戦隊からの雷撃によって戦力を半減させて撃沈破された。

 最終的にハワイ沖海戦は日本海軍が大損害をこうむりながらも勝利することに成功した。ハワイ王国を策源地として米国西海岸を狙う日本艦隊はその損害からの復旧でとても作戦行動をとるのは無理だったが、それでも米国国民にプレッシャーを与え続け、欧州諸国による共同宣戦布告と本格的参戦をうかがわせる予備役の動員、そして補給路を立たれたルソン島の絶望的な損耗を背景として米国はとうとうその矛を収めたのである。

 この米国の停戦同意に少なからぬ影響を与えることに成功した第13分艦隊は英雄として本土に凱旋した。分艦隊は終戦後解散したが、陸奥と尾張への国民の目はその後も好意的だった。陸奥は旧式化と対戦艦向けに特化しすぎたこともあって早々と戦力価値を喪失していたが、記念艦として江田島で永久保存されている。
 尾張は、極風の陳腐化後は搭載機を大型回転翼機に切り替えて特務陸戦隊などの特殊部隊母艦として用いられた。大口径の艦砲による絶大な対地支援能力まで持つ尾張はこのような任務にも耐えるだけの汎用性を得ていたのだった。
 そして機関や船体が老朽化した後は、尾張も陸奥の隣に係留され記念艦として保存されることが決定されている。





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