水戸型戦艦





<要目>
基準排水量 109,500t   全長 326.0m  全幅 46.0m  蒸気タービン、ディーゼル複合 出力 300,000馬力(5軸)
最大速度 27.46ノット  乗員 2500名
最大装甲厚  舷側 500mm 19°傾斜  甲板 250-200mm  主砲防盾 750mm

兵装
三連装45口径51cm砲 3基
三連装60口径20.3cm砲 6基
連装65口径10cm両用砲 18基
連装65口径8cm両用砲 20基
単装対空誘導弾発射器 1基
対潜噴進砲 1基

搭載機 回転翼機 3機

一番艦 水戸
二番艦 美濃


 水戸型戦艦は、日本海軍が太平洋戦争に投入した中で最大の軍艦である。また、竣工当時、軍民問わずもっとも大きな排水量を持つ船でもあった。(最長は米海軍のユナイテッドステーツ級戦艦)
 そのサイズから、1950年代からしばらくの間、海軍のみならず日本国内で艦船や巨大構造物が語られる際に水戸型が基準となったほどである。(例を上げれば、東京の観光名所ともなった東京電波塔は建設当時「戦艦水戸よりも大きい!」をキャッチフレーズとしていた。)
 1950年代半ばに締結されたホノルル軍縮条約においても各種軍艦寸法の叩き台には水戸型が前提となっていた。

 もっとも水戸型において導入された新技術や兵装はそれほど多くは無い。その巨大な船体寸法こそが水戸型の特徴であって、基本的には既存の技術や兵装を手堅くまとめられているといえる。
 例えば、射撃指揮は四七式射撃指揮装置が戦艦として始めて設計当初から採用されているが、これも先行する筑波型重巡洋艦や実験艦でその有用性が認められてから正式に採用が決定されており、一番艦は従来の測距儀を搭載する計画も平行して進められていた。
 結局製作途中の測距儀はキャンセルされた。日本光学がすでに製作していた測距儀の部品自体は海軍により買い取られて、海軍兵学校に隣接する資料館で後に展示されている。
 なお四七式射撃指揮装置は、前期型は日本光学製の測距儀を補助として備えていたが、60年代から登場した無人の後期型では射撃統制電探のみとなっている。

 水戸型の主兵装は、紀伊型で初採用された連装45口径51cm砲を改良した三連装の51サンチ砲である。砲身そのものには変化は無いが、三連装化にあたって砲身の追加によるもの以上に砲塔サイズは巨大化している。これには装弾関係に用いられる機器の容量を向上させ、またこの当時としては自動化、機械化を極限まで推し進めることで発射速度を短縮させるためである。
 原型である紀伊型の連装砲では、前弾の発砲から最短40秒で次弾装填が完了したが、水戸型では46サンチ砲を搭載した大和型と同等の30秒で次弾装弾が完了している。また機器のサイズ向上と同時に薬室の構造強化も図られており、安定した長時間砲撃を可能とすると共に、将来的には強装での発砲を考慮している。
 このような砲塔重量の増大を招くような強化が可能となったのは、従来の砲塔関連機器が高出力化に限界のある水圧式だったものを強力な電動式に改めているためでもある。砲塔旋回装置も大馬力の電動機になっており、従来の戦艦以上に旋回速度は高くなっており、夜戦時等の咄嗟砲戦にアドバンテージがあった。

 打撃力のみならず、水戸型は強力な砲撃能力に対応する防御力も有していたが、太平洋戦争当時においては完全に過剰ともいえ、実際に戦時中にその装甲が危険にさらされたのは、18インチ砲艦のアメリカに美濃が近距離に踏み込まれたときのみである。
 その装甲は舷側で傾斜500ミリ、水平甲板でも最大250ミリとなっており、自身の主砲弾に対して主砲戦距離で安全距離が取れるようになっていたが、46サンチ砲に対しては相当近距離まで踏み込まれない限り計算上貫通されなかった。
 初期計画では舷側装甲の外側、最外部にも被帽破壊用の装甲板を設ける計画であったが、重量が過大となることや、現状の装甲でも十分に敵砲弾を防御できるという計算から、就役時は主装甲内部にスプリンター防御用の装甲板を設けるにとどまっている。
 これらの追加の装甲は、対艦誘導弾や米海軍の大重量砲弾SHSの脅威が戦訓によって明らかにされた後に必要性が訴えられ、後の改装時にさらなる追加が計画されている。

 なお、上甲板は従来の木甲板を廃止し、耐熱性を持たせた特殊コンクリート素材をコーティングしている。本来、これは将来的装備として開発が進められていたものだったが、米軍による太平洋戦争開戦時の核攻撃によって急遽導入が進められたものである。
 そのため、開戦直後に就役直前段階であった美濃では徹底した再塗装が行われたが、開戦時にはすでに初期練成途上にあった水戸では、戦時中に木甲板の撤去と再塗装が行われたため、近代化改装が行われるまで木甲板固定用の冶具が残されていた。
 太平洋戦争終戦直前のドック入り時に施された改装によって、美濃にはさらに放射性物質を含む粉塵等を除去するための放水網も設置された。この放水は粉塵を洗い流すほかに、放射熱を低減して赤外線監視装置を欺瞞する効果も若干ながら認められた。
 そのため、終戦直後の軍縮条約によって近代化改装が制限される直前にどさくさにまぎれて近代化改装を含むドック入りを行った水戸では、上部構造物への散水量が増大している。

 水戸型では、直接的な防御もさることながら、対空、対水上軽快艦艇迎撃のための火砲も充実している。長10サンチ両用砲塔の搭載数は前級紀伊型と変わらないが、主砲、両用砲双方の射撃指揮をこなすことのできる四七式射撃装置を多く搭載していることから、対空、対水上同時対応数は増大している。
 機銃に代わって搭載されていた8サンチ両用砲は、特に艦首、艦尾方向に対応するため従来型と比べて充実した数が設置されている。また、水戸型に搭載されたものは省人化が図られており、25ミリ機銃座よりも操作兵員は少ない。
 8サンチ両用砲は、四七式射撃指揮装置によって射撃統制に関する操作が半自動化しているため、操作兵員は大半が上甲板より下の給弾室で給弾にあたっている。

 副砲には紀伊型が装備したものと同じ三連装60口径20.3サンチ砲が採用されており、その搭載数は六基と多い。筑波型同様に四七式射撃指揮装置のおかげもあって対空射撃も可能であり、高い発射速度から重両用砲として使用されている。また、どの方向に対しても筑波型重巡洋艦の全力砲撃時をも上回るほどの火力を指向することが可能であった。
 このような多数目標対応能力を付与するために艦橋下部に設置された中央指揮所は、上陸指揮艦艇に改装された鳴門(旧特設巡洋艦興国丸)を除いて日本海軍で最大規模となっており、指揮官は状況判断と各火力を最適標的に割り振ることに集中することが可能となっている。中央指揮所からの命令は各47式射撃指揮装置に伝達されるが、この際に各装置は指揮下におかれる火砲の情報もあわせて伝達されることとなる。
 これによりかつては艦橋最上部の主砲射撃指揮所に配置されていた砲術長は、主砲のみならず、副砲や両用砲、それを完成する射撃指揮装置を含めた戦艦の射撃システム全体の指揮官として指揮所に配置されるようになっている。

 また、水戸型は従来型の砲熕兵装に加えて、上部構造物の煙突に挟まれた空間に戦艦として始めて搭載された誘導弾発射機が設置されている。
 主砲射程外の高高度目標への対処として対空誘導弾を発射するのが主な任務ではあるが、就役後に対潜誘導弾の発射も可能となっている。対潜誘導弾はロケット推進式で、音響誘導方式の短魚雷を目標至近の海域まで迅速に到達させることが出来る。
 対潜誘導弾の実用化までは弾庫の三分の一が無誘導のクラスター方式の対潜噴進弾が搭載されていた。
 誘導弾の誘導にはいずれの弾頭でも四七式射撃式装置を利用することが出来るが、誘導中は排他使用となる。また対潜誘導弾の目標捜索には船首底部に備えられたアスディックが使用される。対潜噴進弾はアスディックによる探知目標付近への散布のみであり、誘導に四七式射撃指揮装置は用いられない。
 対空にしろ対潜にせよ、主な用途は自艦の砲が使用できない環境に対しての自衛戦闘であるので搭載弾数は少ない。対潜自衛戦闘に関しては艦首部に8サンチ両用砲に挟まれるように対潜噴進砲一門も装備しているが、対潜誘導弾によって艦首方向への対潜攻撃が可能となったために早々と撤去されている。
 元々対潜噴進砲は、上部構造物で射界を遮られるため対潜噴進弾による攻撃が不可能となる艦首方向に対する威嚇程度しか考慮していなかったらしく、搭載弾薬も砲側の即用弾のみしか搭載していなかったらしい。
 このようにこれまでの戦艦と比べて対潜自衛戦闘をも可能とするだけのリソースを備えている理由には、おそらく優秀な自衛火力を持つがために護衛の駆逐艦無しでの行動も考慮されたためと考えられている。

 水戸型は搭載機として水上機にかえて哨戒や連絡に使用するため回転翼機三機を搭載している。垂直離着艦が可能な回転翼機を搭載機としたため航空艤装は最小限で済んでおり、実質上格納庫と上甲板への昇降用エレベーターのみと言っても良いだろう。
 上甲板に設けられた飛行甲板は、水上機カタパルトのような特別な装備は存在せず、着艦箇所を示す塗装のみが飛行甲板の艤装だった。水戸型就役当時の離着艦管制室はディーゼルエンジン排気筒と一体化した後部艦橋内に併設されていたが、高所にあるため航空管制は可能であっても、着艦時の直接視認が距離があるため困難であり、のちの改装時に飛行甲板に埋め込む形で新たに独立した離着艦指揮所が設けられている。
 就役当初の搭載機は、陸海軍共同採用機である三式連絡直協機が連絡機として搭載されていたが、旧式化した同機は出力不足であるため海軍用艦載機として早々に現役を離れており、ハワイ沖海戦の際にはすでに日露共同開発の川崎五一式が搭載されていた。
 五一式は搭載量に限界がありパッケージ内容を変更しなくてはならないとはいえ、曳航式水中探信儀(ディッピングソナー)を搭載した対潜哨戒の他、重量のある探信儀を降ろしその空間に対潜爆弾を積んで対潜攻撃機として運用することもできた。もちろん対潜哨戒、攻撃パッケージを下ろせば軽便輸送や人員輸送も可能だった。
 戦艦搭載部隊の場合、対潜空母と違って攻撃パッケージを搭載することは殆ど無く、哨戒パッケージばかりが搭載されていた。水戸型による対潜戦闘の想定も、本艦側の大型水中探信儀で捉えた潜水艦を五一式が曳航式探信儀で追尾し、その誘導で本艦による対潜誘導弾で攻撃を行うというものだった。

 このような極めて高い攻防能力を持つため水戸型の排水量は日本海軍で初めて十万トンを超えており、この巨体に十分な速力を与えるための機関の選定は兵装などによるもの以上に艦政本部に混乱を招かせた。
 水戸型の出力は約30万馬力程度が必要であると算出されていたが、信濃型戦艦のようにこれをすべてディーゼルエンジンで賄うのはとうてい不可能だった。
 艦政本部の試算では30万馬力の機関をディーゼルエンジンのみで構成した場合、あらゆる補機を含まないエンジンのみの重量だけで一万トンは軽く超えてしまうことが判明した。さらに一軸当たり決して少なくない数のディーゼルエンジンを結合させて稼働させなければならないことを考えれば、悪夢としか思えなかった。
 すでにマルチプルディーゼル機関の運用が困難であることは信濃型、紀伊型戦艦によって証明されているから、艦政本部の懸念も妥当だった。
 その一方でディーゼルエンジンの低燃費がもたらす長い航続距離が魅力的であるのも事実であり、遠く欧州での戦闘も想定しなければならなくなっていた日本海軍にとってディーゼルエンジンはメリットも大きかった。
 結局、やはり筑波型において半ば実験的に搭載された舶用排気過給器がディーゼルエンジンの効率向上をもたらしたことから、大馬力の舶用ディーゼルエンジンの開発に目処が付いたこともあり、水戸型においても従来の日本海軍戦艦と同様にディーゼルエンジンと蒸気タービンの混合機関とすることが決定された。
 搭載されたディーゼルエンジンは、排気過給器の搭載及び、シリンダーの大口径化が図られた新規開発の大出力エンジンであり、信濃型では四基で一軸を駆動させる複雑な減速機を備えていたものを、二基で一軸を駆動させるというよりシンプルな機構に変更している。
 減速機の信頼性向上には、減速比の低下もあった。シリンダーの大口径化、長ストローク化によってエンジンの軸回転速度も低下しており、プロペラの大口径化もあってディーゼルエンジン、プロペラ共に回転速度が低速化しており、その分だけ信頼性は向上していると考えられる。

 また、ディーゼルエンジンだけではなく、蒸気タービンも高圧化によって性能が向上しており、機関の効率は極めて高かった。
 しかし、ディーゼルエンジンによって二軸を駆動することが決定された結果、蒸気タービンの一軸あたりの出力は今まで経験がないほどの大出力となることが懸念された。
 大出力化されたとはいえディーゼルエンジンによって駆動される軸出力は合計して十万馬力程度であり、残り約二十万馬力を蒸気タービンで推進させなければならなかった。
 これを単純に二軸に割り振ると一軸当たり十万馬力という前代未聞の大出力軸となってしまう。すでにマルチプルディーゼルエンジン艦となった信濃型を除くと、実のところ大和型以降に日本海軍が建造した戦艦は、蒸気タービンに対して軸出力の小さなディーゼル機関を主機関として採用しているため、蒸気タービン駆動となっている軸の馬力が過大気味となっていたのである。
 一軸当たり十万馬力という機関システムを新たに開発することは不可能ではなかったが、すでに過給器付き低速大出力ディーゼルエンジンという新機軸を搭載することが決定されている水戸型の機関にさらに技術的冒険を試みることは、日本海軍にとって本意ではなかった。

 そこで艦政本部は従来の七万馬力級蒸気タービンシステムをそのまま水戸型においても搭載することとし、逆転の発想として軸あたりの馬力数を向上させるのではなく、軸そのものの数を増やすことで結果としての大出力化を図ろうとしたのである。
 これらの検討結果から、水戸型戦艦は前代未聞の多軸である5軸艦として就役したのである。
 機関構成は、中央の一軸及び左右舷外側の二軸、計三軸が大和型および紀伊型戦艦に搭載されたものとほぼ同様の蒸気タービン駆動で、左右舷内側の二軸がディーゼルエンジン駆動となった。
 各機関の配置は、ディーゼルエンジン群を最後尾、六番副砲直下から直前に配置し、その前方に中央軸蒸気タービン、最前部に左右舷蒸気タービンとなっていた。煙突はディーゼルエンジン用の小型のものが後方に、誘導弾発射機を挟んで前方にボイラー用の主煙突が設けられている。どちらの煙突も捜索用電探を設けたマストと併設されたMACとなっているほか、後部煙突の最上部には四七式射撃指揮装置を設けている。
 なお、ボイラー用の吸気口は従来通り上部構造の各部に分散して配置されているが、ディーゼルエンジン用のそれは排気式過給器によって吸気量が増大したため、ディーゼルエンジン用煙突下部に集中して専用のものが配置されている。(従来通りの分散吸気口からでも吸気は可能)
 ディーゼルエンジン用の吸気口は機関室内部のエンジン排気管に隣接して設けられている過給器吸気口に直結しており、補助の電動吸気ファンによってダクトから吸気されるようになっていた。


 水戸型は二隻が相次いで太平洋戦争開戦前後に就役したが、戦時中の大半は本土近海での錬成訓練を除けば実質上の決戦となったハワイ沖海戦までは目立った戦績は無かった。
 太平洋戦争序盤から中盤において、日本海軍が有する戦艦群の中で空母部隊同士による戦闘に参加し、しばしば発生した水上砲戦において投入されたのは、手持ちの中で最も旧式でつぶしの効く磐城型や常陸型だった。
 この点においては米国も同様で、戦線に投入されるのはもっぱら高速戦艦アイオワ級やノースカロライナ級などだった。米国海軍では速力が低すぎるため旧式戦艦は投入されていない。米旧式戦艦群は、トラック諸島で喪失した日本海軍旧式戦艦と違って大規模近代化改修を受けていなかったため速力などの点で劣っており、半数が欧州諸国への押さえとして大西洋に、残り半数はハワイ王国残党への押さえ兼防衛戦力として開戦直後に占領されたハワイ王国に駐留していた。
 大戦中盤頃は、このような状況から、実際の戦場では中型戦艦こそ勝敗を決する戦力なのではないのかという説さえ唱えられたほどだった。

 しかしながらこのような状況は、ハワイ沖海戦において覆ることになった。これまで戦場の勝敗を決して来た米国の高速、中型戦艦が日本海軍の大和型をはじめとする大型戦艦にいいように叩かれてしまったからである。
 水戸も一対三という不利な状況からユナイテッドステーツ及びモンタナを撃沈せしめ、戦闘中に接近してきた米軽快艦艇を反対舷を指向する砲で殲滅している。

 ハワイ沖海戦において初陣を勝利で飾った水戸型だったが、日本海軍は次世代の戦艦、あるいは軍艦を考えあぐねている節があった。というのも将来的な発展を考慮して建造されたはずの大神工廠ですら水戸型が建造可能な最大級の戦艦であると考えられていたからである。
 水戸型の修理が可能なサイズの船渠も大神の他には拡張された呉工廠と横須賀工廠の二箇所しか無かった。
 それどころか喫水線を考慮すると入港できる港自体が制限される始末だった。このころの日本海軍は港湾施設の充実から戦艦や空母でも港の桟橋に直接つけることが多くなっていたが、水戸型は母港である大神や横須賀を除けば係留可能な桟橋が少なく、訓練出動などで他の港に入港してもなかなか上陸することができなかっため乗員将兵からの評判は芳しくなかった。
 すでに水戸型は日本、ひいては国際連盟諸国の港湾施設のリソースをオーバーしてしまっていたのである。このクラスの貨物船が次々と建造されて民間の港湾施設が拡張されていく70年代まで戦艦こそが最も重い船だったのである。
 もっとも、サイズの上では現代では巨大貨物船の中には水戸型を超える寸法を持つものもあるし、全幅だけであるならばアングルドデッキを採用した空母は水戸型よりもはるかに大きく、また全長も匹敵する寸法となっている。
 空母と比べて重量のある装甲や兵装がある分だけ戦艦はより重く、船渠や桟橋の深さによって制限されることが多かったのである。





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