マッケンゼン級巡洋戦艦





<要目>
基準排水量 30,000t   全長 256.0m  全幅 30.0m  蒸気タービン、ディーゼル 出力 176,000馬力(4軸)
最大速度 33.5ノット  乗員 1965名
最大装甲厚 舷側 190o 0°傾斜  甲板 60+30o  主砲防盾 360mm

兵装
連装47口径38cm砲 3基
連装55口径15cm砲 3基(中央後方1基、舷側2基)
連装65口径10.5cm砲 6基
37mm連装機銃 4基
20mm4連装機銃 5基
53.3cm魚雷発射管 6門


一番艦 マッケンゼン
二番艦 ヨルク(建造中止)


 マッケンゼンはドイツ海軍が建造した巡洋戦艦であり、結果的に第二次欧洲大戦においてドイツが最後に就役させた大型水上艦艇となった。
 その建造計画は、当初O級と呼称されていた大型通商破壊艦三隻を建造するものだった。O級は、本来のドイツ海軍主力となるであろうH級戦艦が優位に英国海軍戦艦部隊と交戦する状況を作り上げるために、本隊に対する陽動として通商破壊作戦を行う、いわば大型化されたドイッチュラント級装甲艦とも言うべきものだった。
 O級巡洋戦艦は、H級戦艦を主力とするドイツ水上艦隊本隊と英国海軍本国部隊との決戦においては、本隊の中に参加するのではなく、主力部隊の支援を求められていたと言われており、旧時代的な意味における巡洋戦艦というのにふさわしい艦だった。
 なお、マッケンゼンは新生ドイツ海軍でいえば装甲艦、旧帝国ドイツ海軍でいえば大巡洋艦に分類されるはずであったが、ドイツ海軍水上艦隊首脳部が予算獲得のために、ヒトラー総統に対して、装甲艦よりも強力で、戦艦よりも高速であることを強調するため、ある時期から巡洋戦艦という呼称を使用した。
 装甲艦の意外なほどの戦果に概ね満足していたヒトラー総統は、これをより強力に改設計したとの海軍首脳部の説明に、自ら巡洋戦艦というカテゴリーを与えたとも言われているが、実際には戦艦もどきという皮肉を込めていたという説もある。
 また、正規の書類においても巡洋戦艦ではなく戦艦と記述するものもあり、英国海軍がシャルンホルスト級まで巡洋戦艦とカテゴリー分けしていたこともあってシャルンホルスト級とマッケンゼン級を戦艦と巡洋戦艦どちらにカテゴリー分けするべきは今もなお各国の公式戦史上で意見が別れている。

 マッケンゼンは、海軍首脳部がヒトラー総統に説明したように、ドイッチュラント級装甲艦を強力化したような性質を持っている。つまり防御よりも速力と砲力を重視し、ディーゼル主機の搭載による長い航続距離を持っているという点である。
 航続距離は燃料消費率に優れたディーゼル機関を巡航時に使用することで、19ノットで16000浬という長大なものである。長期間の通商破壊作戦においても、補給を最小限にして長期間の行動をとりうる。
 砲力も船体サイズに相応の強力なもので、ビスマルク級と同じ砲塔を装備しており、同級よりも一基少ない連装三基六門と数は少ないものの、準ずるだけの砲力を有している。
 現在では、日米海軍などの16インチ級砲と比べると近距離向けの高初速砲であることを考慮してもワンランク劣るとされるドイツ海軍の15インチ砲だったが、それなりに有力な砲であることは間違い無く、当時の多くの戦艦を主砲戦距離で撃破しうる打撃力を有していることは、ビスマルクがフッドを葬り去ったことからも明らかだった。
 マッケンゼンはこれを六門装備しており、同時発射弾数が少ないことから命中率などに劣るのではないかと考えられていたが、皮肉なことに、ドイツの敵国となった日本海軍が建造した磐城型戦艦がこの判断を覆すこととなった。
 地中海での戦闘に投入された磐城型戦艦は、マッケンゼンと同じスタイルで45口径41cm砲を連装三基、計六門を装備しており、独伊仏海軍の艦艇と互角以上に戦っていた。
 磐城型戦艦は条約型戦艦として手数こそ少ないものの、防護力、速力は高いバランスにあり、シャルンホルスト級などが装備する11から12インチ級砲に耐えうる装甲と、条約型戦艦が保有する程度の装甲を打ち破れるに満足な主砲を装備した有力な戦艦だった。
 この戦歴を分析したドイツ海軍はシャルンホルスト級の改装を決断し、同時にマッケンゼンの主砲選択が間違いではないことを確信した。
 その判断の正しさは、後にロイヤルソブリンの撃沈という形で証明されている。
 実はシャルンホルスト級戦艦も、本来は建造時にビスマルクやマッケンゼンが採用した38cm砲を採用する予定であったが、製造が間に合わないため28p三連装砲塔を採用した経緯がある。また、シャルンホルスト級も改装時にこの砲塔を搭載する予定だった。
 それどころかマッケンゼンに搭載された砲塔は、もともとシャルンホルスト級二番艦グナイゼナウに搭載するために建造されたものだった。
 しかしヒトラー総統の命令によりマッケンゼンを可能な限り早期に就役させるために流用されることとなり、結局第二次欧洲大戦にグナイゼナウの改装は間に合わなかった。

 しかし、打撃力には一定の評価が与えられる一方で、マッケンゼンを戦艦としてみるとその装甲はあまりにもアンバランスだった。
 舷側の垂直装甲は190oしかなく、また傾斜角度のない言葉通りの意味での垂直装甲となっている。甲板部の水平装甲は上甲板60oと主甲板30oの合計90oでしかなく、垂直装甲同様脆弱なものだった。
 マッケンゼンが有する38p砲は25000mで308oの垂直装甲を、30000mで120oの水平装甲を貫通する能力があるため、本艦には自艦の主砲に対する安全距離は全く存在しない。
 自艦の有する主砲に耐えうるという基準を適用すれば、マッケンゼンは完全に戦艦というカテゴリーから外れることとなる。それどころか主砲戦距離圏内に踏み込まれた場合、大型巡洋艦級のシャルンホルスト級の28p砲やアラスカ級の12インチ砲どころか、重巡洋艦級の8インチ主砲にすら装甲を貫通される可能性すらあった。
 マッケンゼンを防御力の点から見れば第一次世界大戦当時の英国巡洋戦艦と近しい性質のものだったが、第一次大戦当時の環境と比べると軍縮条約によってむしろ格下であった巡洋艦の性能の著しい向上によってこのような弱装甲の巡洋戦艦の位置はそれ以前よりも脅かされるものになっていたと言える。
 第一次大戦当時ドイツ海軍が戦った英国海軍の巡洋艦は五千トン程度の排水量に5〜6インチ砲五、六門程度の軽巡洋艦だったが、第二次欧洲大戦で日本海軍が投入してきた最新鋭の伊吹型重巡洋艦は、8インチ砲十二門を排水量一万二千トンの艦体に据えた大打撃力の巡洋艦になっていた。
 日本海軍が攻撃力を重視していたとは言え、英国海軍も6インチ砲十二門装備のフィジー級などを建造していたから、巡洋艦級艦艇の打撃力が向上していることに変わりはなかった。
 このように、マッケンゼンが就役した1940年代は、通商破壊作戦中に遭遇する可能性の高い巡洋艦相手にすら注意しなければならなくなっていたのである。

 打撃力や防御力の性能から判断すると、やはりマッケンゼンは諸外国海軍や自軍のビスマルクなどの普通の戦艦というカテゴリーではなく、ドイツ海軍にしか存在しない独自の艦種であったといえる。
 排水量や船体寸法は、1930年代から40年代前半にかけて盛んに建造されたドイッチュラント級の建造から始まる中型戦艦の系譜に連なるものだったが、それら中型戦艦がどこかしら歪な存在であったように、マッケンゼンも打撃力が完全に防御力を上回るというこの時代としては異様な性能をもっていた。
 本来それはドイッチュラント級装甲艦の打撃力と装甲を発展させた結果ではあったのだが、その艦体サイズはすでに通常の戦艦に匹敵するものとなっており、戦艦としてみたときの異様さを招く結果となった。

 もっともドイツ海軍自体も艦体サイズに見合った打撃力とそれに対して全く見合っていない脆弱な防御力しか持たないマッケンゼン級の歪さは把握していたらしい。

 元々第二次欧州大戦開戦後はマッケンゼンの建造速度は抑えられていた。マッケンゼン級が想定していた水上艦による通商破壊作戦が実際は極めて困難な割には戦果が出にくく、それよりも水上艦の出撃を抑え、潜水艦による攻撃に絞ったほうが効率が良かったからだった。
 潜水艦隊司令官であるデーニッツ少将も潜水艦の行動に自由度を与えるために大型水上艦の抑止力を認めていたが、通商破壊作戦に使用する巡洋戦艦よりもビスマルク級かその発展型である通常型の戦艦が望ましいと考えていた。
 その為H級戦艦の方がマッケンゼン級よりも建造順位は高く、実際マッケンゼン級の二番艦として起工されていたヨルクは建造中止となり、その分の物資は既に建造されていた機器は一番艦であるマッケンゼンに、割り当て資材の段階のものはUボートの増産やH級戦艦に回されていた。
 しかしH級戦艦はそのサイズから建造速度が伸び悩んでおり、1942年中旬の時点で完成予定が1946年となっていた。マッケンゼン級も完成予定は1944年の初頭が予想されていたものの、水上艦による通商破壊戦への評価は日に日に低下しており、マッケンゼンは建造速度のさらなる低下か建造中止がこの当時は予想されていた。
 しかしマルタ沖海戦での結果から戦艦という兵器システムを過大評価したヒトラー総統が、ドイツ海軍に健在な戦艦が一時的にビスマルク一隻になっってしまったことに脅威を覚えたことからマッケンゼンの運命は転換されることとなった。
 海軍工廠からの各データを取り寄せたヒトラー総統は、マッケンゼンの建造速度を早めた場合、極めて早期に完成させられると判断したのである。
 確かに完成度をパーセンテージで示すとH級戦艦よりも低い位置にあったマッケンゼンであったが、現状での残り総工数を見るとその差は逆転していた。
 しかも、工廠で修理に入ったシャルンホルストとグナイゼナウが再戦力化されるのとほぼ同時に就役させることができそうであった。
 狂喜したヒトラー総統は直ちにマッケンゼンの建造速度向上を海軍に命じた。おそらく彼の脳裏にはマッケンゼンに支援されるシャルンホルストとグナイゼナウ、そしてビスマルクの勇姿が映し出されていたのであろう。
 しかし彼の夢見た光景が洋上に出現されることはなかった。

 マッケンゼンの建造はキール工廠の秘匿ドックで強行軍で進められたが、H級戦艦の建造速度を低下させてまで人員機材を集中させることで1943年春には就役させることが出来た。
 だがこれはあくまでも書類上のことで、就役後も改装工事の名目で工廠で艤装作業を実施していた。しかも建造されたドックをまるまる占拠して艤装作業は実施されていた。
 この秘匿ドックは偽装用の屋根付きで、上空から見た場合、複数の建屋に見るように塗装がなされていた。進水後も屋根の嵩上げなどの改装を続けながら偽装作業に使用されたことなどからほぼマッケンゼン専用のドックとなっていたが、何故マッケンゼンの建造がここまで秘匿されていたのかは現在では不明である。
 なお、このドックは21世紀初頭現在、残存していない。ドイツ敗北後のソ連による占拠、ドイツ民主共和国の成立、第三次世界大戦におけるキール奪還戦を経て、かつてのキール工廠周辺はドイツ連邦の手に戻されたが、この間に両陣営によってキール工廠の設備は徹底的に破壊されており、この秘匿ドックも屋根部分が完全に破壊され、ドック内部にはその残骸が散乱していた。
 ドイツ連邦やそれを支援する国際連盟諸国も、あまりにも前線に近いキールに工廠機能を集約させることに魅力を感じなかったので、キール工廠はかつてと異なり小規模な工作部のみが置かれることとなった。その後、秘匿ドック跡地は埋め立てられ現在は資材置き場として使用されている。

 歴史から忘れ去られる運命にあった秘匿ドックではあったが、マッケンゼンの建造を隠し通すことには成功しており、最初で最後の戦闘航海にマッケンゼンが出撃するまで日英同盟は同艦の存在を確認していなかった。
 同盟側情報部などはドイツ国内に潜めたスパイや物資の移動情報などから戦艦クラスの艦艇を建造中という推測は立てていたのだが、彼らはそれらの情報からH級戦艦の建造が予想よりも進められているものと判断していた。
 また、ヨルクの建造中止の情報が一部歪められて伝えられており、O級巡洋戦艦の計画そのものが消失していると彼らは判断しており、巨大戦艦らしいH級の建造にはまだ時間がかかるものと判断していた。
 そのためマッケンゼンの戦線への投入は日英同盟に対して戦略的な奇襲となったのである。

 しかしマッケンゼンの戦闘航海は支援するものも支援されるものもなく単独で行われた。シャルンホルストは修理を早々と終え、この時期ノルウェーにあって日英同盟海軍の誘引を行っていた。
 実際はノルウェー沿岸に半ば引き篭っていただけとは言え、カナダ航路を航行する船団はシャルンホルストの存在を警戒して常に戦艦の護衛を必要とする事態におちいっていたため、それなりの効果はあったと言える。
 これに対して、グナイゼナウは些か奇妙な立場に立たされていた。グナイゼナウは、本来ならばマッケンゼン級巡洋戦艦によって支援されるべき立場にあったはずだったが、改装工事用の資材として受け取るべきだった28p三連装砲塔を、早期に就役させるためマッケンゼンに奪われてしまったためゴーテンハーフェンで改装工事をいまだ実施していた。
 そしていまだブレストで身動きが取れなかったビスマルクは、マッケンゼンを無事出撃させる為の囮の一員として出撃し、日英同盟の注目を集中させることに成功させたが、同時に合流を断念するほど日英同盟海軍の哨戒部隊を引き連れることとなってしまっていた。ビスマルクは結局マッケンゼンを見捨てるようにブレストに帰還したが、同艦にとってそこが終焉の地となった。
 その為最後の瞬間までマッケンゼンは単独で戦闘するしか無かったのである。その役割はH級戦艦などの有力な水上艦隊の支援ではなく、Uボートをより安全に襲撃作戦に従事させるためのものでしか無かった。
 つまり戦艦級の戦闘艦に見えるマッケンゼンを投入することによって、特にこれまで有力な護衛戦力を船団護衛に参加させていなかった日本海軍に対して敵船団護衛隊に戦艦を編入することを強制させることで、相対的にUボートにとってより厄介な存在である軽快艦艇の比率を低下させ、また戦艦運用による損耗をも強要するというものだった。
 しかしこの戦略は英国には有効であっても日本海軍にはまったく通用しなかった。
 アジア圏からの大規模船団を最初の獲物として襲撃したが、マッケンゼンは肝心の輸送船の撃沈もそこそこにその姿と驚異を日本海軍に見せつけたと判断した次点で直ちに逃走に移った。
 この時、国際連盟海軍は総力を上げてマッケンゼンの確実なる撃沈を図るべく艦隊を集結させた。英国海軍はカナダ航路の護衛にあったっていたロイヤルソブリン他の艦隊を分離してマッケンゼンと交戦したが、逆に撃沈されている。
 さらにロイヤルソブリンを欠いた護衛船団は英国本土近くに潜んでいたUボートに多数撃沈され、この年最大の被害を受けた。

 だが、ロイヤルソブリン以下の犠牲は無駄ではなかった。この戦闘による損害で最大の武器である速力を喪失したマッケンゼンは、一時的にすべての任務を放棄して追撃艦隊に加わった日英同盟の戦艦から逃れるすべを持たなかった。



 



戻る
inserted by FC2 system