イタリア級戦艦(改ヴィットリオヴェネト級)





<要目>
基準排水量 49,200t   全長 240.7m  全幅 32.9m  蒸気タービン 出力 140,000馬力(4軸)
最大速度 29.1ノット  乗員 1800名
最大装甲厚 舷側 350o 11°傾斜  甲板 207o  主砲防盾 380mm

兵装
三連装50口径15インチ砲 3基
連装65口径10cm両用砲 12基
連装65口径8cm両用砲 14基


同型艦 無し(ヴィットリオヴェネト級四番艦改設計)


 第二次欧州大戦後半においてイタリア王国は、国際連盟に対して降伏、さらには同側にたって1944年、対独宣戦布告を行った。この当時、地中海での敗戦にもかかわらずイタリア海軍は複数の戦艦を含む有力な水上艦隊を未だ保有していた。
 そして戦時中のイタリア海軍は、国際連盟海軍に所属し、バルト海海戦ではヴィットリオヴェネトがマクシム・ゴーリキィを大破させる戦果をあげている。
 それ故に第二次欧洲大戦終結後、イタリア王国は存続を許されるどころか、国際連盟に復帰し、その有力な一員として再軍備を許可されることとなった。
 特に日本海軍は、イタリア海軍に対して戦前とは違って奇妙なほど好意的になっていた。ヴィットリオヴェネトがマルタ島沖やバルト海で見せた勇戦や、ベルガミーニ大将が企画していた最後の艦隊突撃或いは特攻が日本人達の歓心をよんだらしかった。
 遣欧艦隊に派遣された将校たちの間ではイタリア海軍の評価はかなり高く、後に江田島の海軍兵学校にベルガミーニ大将を招いて行われた講演会は、学生のみならず現役将校たちも多く訪れ盛況を来したという。
 また、当時遣欧艦隊司令長官職にあった栗田健男大将が中心となって、英国海軍によって接収されていた戦艦コンテ・ディ・カブール、ジュリオ・チェザーレの二隻のイタリア海軍への返還が実現している。最もこの二隻は英国が接収する以前から破損しており、イタリア海軍に返還後は長いドック修理工事に入った。

 1940年代後半はイタリア海軍はヴィットリオヴェネト級四隻のうち残存したヴィットリオヴェネトとローマ、それにコンテ・ディ・カブール級二隻の計四隻の戦艦を主力として再整備を行うものと考えられていた。この時ソ連海軍においてアルハンゲリスク級戦艦の就役及び後のソビエツキーソユーズ級戦艦の建造計画が判明したことによって戦艦戦力の整備が急がれたからである。ソ連バルト海及び北方艦隊の強化に対応するため、有事においては日英艦隊主力が北方に送られ、地中海の制海権をイタリア海軍単独で維持しなければならないとなれば尚更だった。
 またヴィットリオヴェネト級戦艦のうち工事途中で建造が中断され、ドックに残されたまままだったインペロの資材がコンテ・ディ・カブール級の修理に転用されていたことも、公表されていないイタリア海軍整備計画の内容をうかがわせるものだった。実際ジェーン年鑑などでもイタリア海軍の項に戦艦四隻と記載していった。

 だが、実際はイタリア海軍は日英両国の承認のもとで少々世間の噂とは異なる整備計画を実施していた。それが初めて世に現れたのはコンテ・ディ・カブール級二隻のアルゼンチン及びチリへの売却が公表されたときだった。同時にヴィッチリオヴェネト級として建造されていたインペロのイタリアへの改名と改設計後の就役も公表された。
 イタリア海軍で使用されると考えられていたコンテ・ディ・カブール級だったが、実際には売却のための契約条件の履行と工員達の練度維持のために修繕されていただけだったのである。その間にコンテ・ディ・カブール級二隻の代わりに艦隊籍に編入される戦艦イタリアの改設計及び新資材の調達が行われていた。
 改設計によって不要となるイタリアの資材は逐次コンテ・ディ・カブール級の修繕に使用されていたが、新資材の調達も帳簿上はカブール級修繕のためとされていた。これは防諜対策というよりも実際にある時期まではインペロを廃艦としてコンテ・ディ・カブール級を艦隊に編入する計画であったためと考えられる。しかし改装を重ねていたとはいえコンテ・ディ・カブール級では条約開け後の新造戦艦に対抗するのは難しいため、ヴィットリオ・ヴェネト級インペロの改設計案が持ち上がったものと考えられる。
 或いは、当初イタリア海軍はヴィットリオヴェネト級二隻のみを現役に留めるつもりだったのかもしれない。この場合インペロは新名称を与えられること無く資材を売却艦と既存艦に提供した上でスクラップにされていたことだろう。
 あるいはアルハンゲリスクの出現によって、イタリア海軍が戦艦重視の軍備計画を強要され、また日本による軍事協力が得られたことがインペロをイタリアとして蘇らせたのかもしれない。

 イタリアは、再設計に関してヴィットリオヴェネト級から艦体の艦容を一変させた。ヴィットリオヴェネト級では、航空機を有効に運用するため、カタパルトやデリックなどの航空兵装の装備位置である後甲板を1甲板分下げた長船首楼船型となっていたのだが、イタリアでは水上機運用の可能性が著しく低下していたため航空兵装を搭載していない。また、艦内空間を確保するために前甲板から後甲板まで上甲板をフラットとした平甲板型となっている。水上機が陳腐化していたためにこのような艦容となったのだが、後に広大な面積を持つ後甲板は回転翼機の離着艦甲板としても使用され、ヴァートレップ補給や連絡に重宝することとなる。
 なお、同様の理由で水上機を損傷させないために高い位置に配置されていた三番主砲塔は上甲板レベルまで下げられている。
 艦首も原設計から変更されて凌波性を向上させるため高いシーアラインが設けられている。しかし錨鎖機や錨鎖庫の位置は原設計から変更されなかったため、空母などと同様に錨鎖機は上甲板ではなく第一甲板に設置されている。当初原設計のまま建造されていた艦首部資材を最大限流用するために碇甲板は閉鎖空間にされている。つまりシーアを設けるのではなく、現設計から最小限の改造で済むブルワークのみとしていた頃の名残であると考えられる。

 その一方で主砲塔や上構にはほとんど手を加えられていない。特に主砲塔はヴィットリオヴェネト級のままとなっている。既にアルハンゲリスク以降のソ連戦艦の主砲が高初速42センチ砲であることは判明していたが、主砲は既存の15インチ砲のままとされた。この砲は15インチ砲としては極限まで高初速を追求したことにより近距離に限れば大和型に匹敵する打撃力をほこっており、新世代の40センチ砲戦艦に対しても互角に戦える砲だった。
 イタリア海軍でも42センチ砲クラスの大口径砲の研究に着手してはいたが、この時点で実用化はまだであり、またコスト上昇も予想されていた。そのため、現状においても高い威力を持っている15インチ砲を採用することとなった。もしこの42センチ砲の熟成を待っていた場合、イタリアの就役は第三次世界大戦に間に合いはしなかっただろう。

 主砲は既存のものだったが、副砲以下の兵装は変更されている。現有の6インチ副砲と90ミリ単装高角砲の代わりに日本海軍より導入した連装65口径10サンチ砲を採用している。従来の単装高角砲よりも大型であったため砲塔数こそ減少しているが砲門数では多い。この高角砲は舷側及び副砲が配置されていた2,3番主砲塔両舷に配置された。この配置は対空射撃の射界を考慮してのことだったが、その為に対軽快艦艇戦闘能力は低下している。
 イタリア海軍はマルタ島沖での戦闘で日本海軍水雷戦隊の襲撃によって多大な被害を被った戦訓から、対軽快艦艇戦闘も重視してはいたのだが、これにはレーダ索敵によって遠距離で索敵を行い主砲を用いることとして、日本海軍の大型戦艦のように副砲を配置することは断念している。洋上で使用できる航空戦力に期待できなかった当時のイタリア海軍による妥協だった。
 また、従来の機銃に変わってやはり日本海軍から導入した8サンチ砲が採用されている。実口径は76ミリ、3インチである。このニ種の砲は当時の国際連盟海軍の標準砲となっており、弾薬や砲身の補給を容易にしていた。なおイタリアに搭載された両砲はほとんどがOTO社によるライセンス生産である。この後OTO社は、このライセンス生産で得られたノウハウを活かして同砲を発展させた5,4,3インチ単装速射砲を開発しており、日本海軍他の国際連盟各国海軍でも制式採用されている。

 これらの火器を有効に用いるため、射撃指揮には日本海軍が開発した47式射撃指揮装置を用いている。47式射撃指揮装置は軽量であるため多数を搭載可能であり、主砲や高角砲、機銃等までの射撃指揮を行うことができた。また仕様変更で誘導弾の射撃管制も可能な万能性をもっていた。
 イタリアはこの47式を艦首尾線に三基、両舷に二期づつの計七基装備している。この他の電子機器も日本から輸入されたものを使用している。この時点ではイタリア王国はレーダー後進国だった。そうであるが故に外国産の電子兵装を導入することにためらいは無かったようである。
 導入されたのは電子機器にとどまらず、イタリアではイタリア海軍艦艇としては初めて情報を集約する中央指揮所が艦橋下部の船体内に設けられている。
 中央指揮所を装甲区画内の船体内部に設けたため艦内容積は減少しており、原型よりも艦橋を大型化して対応している。この拡大された空間は非防御区画で、射撃指揮装置の電路などのみが装甲化されていた。

 この他、外部から見えない箇所も変更されている。ひとつは効果の薄かったプリエーゼ式水雷防御の撤去と燃料タンクの拡大、もうひとつが装甲の強化である。
 幾度かの実戦において逆に被害を拡大してしまうことすらあったプリエーゼ方式防御用の円管は、ドック中で他艦用資材を撤去されていた頃に当然ながら同時に撤去されている。(ヴィットリオヴェネト級二隻はいずれも第三次世界大戦当時もこの円管を装備したままだったが、近代化改装の際に撤去されている。)
 従来プリエーゼ方式円管が装備されていた箇所は、隔壁によって細断化された上で空所や追加の燃料タンクとなっている。前述の凌波性向上のためのシーアとあわせてこれによりイタリアの航洋力は格段に向上している。ヴィットリオヴェネトはバルト海での作戦において平穏な地中海を前提として設計されたうえに航続距離が短すぎたため、艦隊行動の障害となることが多かったため、イタリアではプリエーゼ方式円管の撤去に合わせて航洋力を拡大したのである。
 これは深読みをすれば、イタリア海軍がもはや沿岸海軍から日英海軍に引き摺られる形ながらも外洋海軍に脱皮しつつあった証拠であったのかもしれない。

 プリエーゼ方式水雷防御を撤去したイタリアだったが、水雷防御は多数の空所、燃料タンクに分けられた隔壁によって十分に確保されている。さらに直接防御である装甲も強化されている。
 原設計では被帽破壊用の70ミリ浸炭鋼と中間区画、280ミリKC甲鉄に分けられた計350ミリの装甲厚となる垂直装甲を有していたが、イタリアでは一枚350ミリのVH甲鉄に変更されている。これに加えて内部には剥離した装甲から人員機材を保護するためのスプリンター対策として内張り装甲が追加されている。これにより垂直装甲は格段に強化されることとなった。装甲の傾斜は原設計同様11度である。VH甲鉄は他と同様日本海軍から導入されたものだが、これはライセンス生産は許可されず、日本国内で生産されたものが使用されている。
 垂直装甲に大幅に手を加えられた反面で、水平装甲はほとんど変更されなかった。ヴィットリオヴェネト級の水平装甲は元々有力なものであり、仮想敵のソ連艦主砲が高初速砲であるため水平装甲への脅威が少ないと考えられたためだと思われる。

 イタリアは第三次世界大戦開戦直前の1950年初頭に就役、初代艦長コレマッタ大佐指揮のもと練成に務めていた。しかしイタリア海軍初となる装備が多く、特に著しい電子化に対して新兵が多いイタリアでは対応するのに時間がかかると考えられていた。
 それ故にソ連海軍がバルト海艦隊と黒海艦隊を同時に出撃させ、第三次世界大戦欧州戦線が始まった頃もイタリア海軍首脳部はイタリアの練度に疑問をいだいていた。

 第二次マルタ沖海戦では練度不足を理由として艦隊司令長官直率の第一戦艦戦隊(ヴィットリオヴェネト及びローマ)と別に第二戦艦戦隊として参加している。だが、練度不足との懸念は無用のものであった。第二戦艦戦隊はかつてヴィットリオヴェネト艦長として幾多の敵艦を屠ってきたボンディーノ少将を司令にいだいていた。
 ボンディーノ少将はかつての艦長時代同様にイタリアを指揮した。主力であるはずの第一戦隊がソビエツカヤウクライナに苦戦する中で重巡洋艦(巡洋戦艦)セヴァストーポリと交戦、早々と主砲戦距離において三斉射で夾叉弾を出した。これはボンディーノ少将着任後の猛訓練の成果もあるだろうが、47式射撃指揮装置をはじめとする優れた電子兵装の成果でもあった。また、新たに艦隊籍に編入されたイタリアはたしかに新兵ばかりであったが、そうであるが故に新機軸の兵装に対してもしがらみなどは無く受け入れられることができたのだろうと考えられる。
 何にせよイタリアは早々とセヴァストーポリを撃沈することに成功した。この間に第一戦艦戦隊はヴィットリオヴェネトが大破し戦線を離脱、ローマも被弾により船速を落としていた。イタリアはこれを援護すべくソビエツカヤウクライナとの砲戦に移ったが、この時ボンディーノ少将はコレマッタ艦長に命じて射撃指揮装置の一基をセヴァストーポリを撃破する前にソビエツカヤウクライナに向けさせていた。
 ボンディーノ少将のアイディアは功を奏した。ソビエツカヤウクライナに向けられていた47式射撃指揮装置は直ちに主砲管制を行うことが出来た。既に第一戦艦戦隊との交戦で損害を被っていたソビエツカヤウクライナは、他艦とは全く異なる射撃精度を持つイタリアの戦闘参加に遂にこれ以上の戦闘続行を断念した。

 この後の戦闘は退避を試みるソビエツカヤウクライナに対する優速のイタリアによる追撃戦になるかとこの時点では思われた。イタリア海軍は第一戦艦戦隊が半壊するほどの損害を受けていたが、ソビエツカヤウクライナも第一戦艦戦隊との交戦でこの時点で中破しており、イタリアがこのまま戦闘を続行できれば撃沈も時間の問題だったといわれる。
 しかし追撃戦は短時間で終了した。ソ連海軍黒海艦隊の軽航空巡洋艦(空母)オルガ・ヤムシュコワ 、ラーザリ・モイセーエヴィチ・カガノーヴィチ両艦の艦載機がイタリア艦隊を襲撃したからである。この当時ソ連海軍の空母艦載機部隊は、米国海軍からの技術供与でライセンス生産されたF15Cを戦闘爆撃機として運用する無視出来ない戦力だった。
 ボンディーノ少将はイタリアの防空砲火をもってすれば単独での追撃戦闘も可能だと判断していたが、大破したヴィットリオヴェネトは初の航空機による戦艦撃沈例となる可能性があった。結局イタリアは優秀な防空砲でもって僚艦を援護し全ての戦艦を母港に帰還させることに成功したが、追撃戦は打ち切らざるを得なかった。
 この戦闘でイタリアはF15C三機の撃墜に成功していたが、イタリアの砲火の及ばないところでの艦隊の被害は大きかった。この戦闘でイタリアは優秀な戦艦であることを証明したが、イタリア海軍にとっては空母の取得を含む艦隊防空能力の増強が課題としてのこった。

 この後地中海を含む欧州戦線が停滞したこともあってイタリアはイギリス海軍のヴァンガードと共に太平洋戦線に投入されることとなる。
 イタリア海軍初の太平洋艦隊は旗艦をイタリアとする小規模艦隊だったが、ボンディーノ中将(昇進)指揮のもと米国艦隊に対して痛撃を与えることとなるのである。




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