四四式艦上攻撃機流星




四四式艦上攻撃機流星


<要目>
全幅14.9m 全長11.5m 自重4.0トン 乗員2名 武装20ミリ機銃×2(翼内×2)13.2ミリ機銃×1(後部旋回) エンジン出力2500hp×1 最大速度510km/h 航続距離2,200km 

 四四式艦上攻撃機流星は日本海軍がそれまで独立していた水平爆撃、魚雷攻撃を行う艦上攻撃機と急降下爆撃を行う艦上爆撃機の2機種を統合する万能攻撃機として初めて採用した機体だった。これまでの艦攻、艦爆とは隔絶した搭載量の多さや後継となるジェット攻撃機の就役遅れなどから第二次欧州大戦末期から対米戦まで長く空母の艦上にとどまった傑作機として知られる機体だったが、その就役は紆余曲折の末に行われたものだった。

 1940年代、日英海軍では装甲空母が相次いで就役していたが、このような重装の空母に対しては、従来の艦上爆撃機が搭載できる程度の爆弾では十分な効果が得られないのではないかという声が出てきていた。しかし、仮に従来機が装備する25番爆弾の倍の重量を持つ50番爆弾程度を急降下爆撃で運用出来る機体であれば、当然のことながら魚雷の搭載も可能だった。狭く整備能力の限られる空母で運用する機体は可能な限り機種を絞るのが望ましく、艦上爆撃機と艦上攻撃機の兼用は日本海軍にとって魅力的な案だった。
 このような考えは比較的早くから出ており、第二次欧州大戦中盤の主力機であった二式艦上攻撃機及び二式艦上爆撃機の後継は一機種に絞られるというのは規定の路線にあった。

 当初海軍ではこの統合攻撃機の製造業者は愛知時計電機を想定していた。同社は長く特殊な艦上爆撃機を生産していたからである。ところが、内々に打診を受けた愛知時計電機の回答は海軍にとって意外なものだった。統合攻撃機どころか、同社は将来的に航空機製造からの撤退を願い出ていたのである。
 海軍側担当者を狼狽させたこの方針は、意外なところに原因があった。第二次欧州大戦は、第一次欧州大戦同様に両陣営が膨大な鉄量を叩きあう本格的な火力戦の様相を呈していた。当然のことながら砲弾の生産需要は膨大なものであり、それに伴い信管の生産量も拡大が求められていた。
 文字通り桁違いとなる生産量が求められた信管の少なくない数は時限式のものだったが、時限式信管とはすなわち弾頭に精巧な時計を内蔵するものであり、愛知時計電機は半世紀前から本業である時計製作技術を生かして時限信管の生産を行っていた。
 愛知時計電機では、需要が急拡大した信管製造に資本及び人員を集中させたい意向を示していた。日本陸海軍だけではなく、国際連盟加盟諸国軍に対しても多数の砲弾を安定して供給しなければならないために、組織されたばかりの統合参謀部もこの方針を強く支持しており、日本海軍としても強くは言えない立場にあった。

 ただし、この愛知時計電機の判断に関しては別の理由もあったものと思われる。愛知時計電機は実質的に海軍専用の製造業者であり、その採用機も艦上爆撃機のほかは水上偵察機にほぼ限られる特殊な業者だった。
 しかし、愛知時計電機の主力生産機種だった水上偵察機は、航空技術の発展に伴い水上機形態が陸上機に対して著しく不利になっていたことなどから、いずれ消えゆく運命にあると判断されていた。実際、この時期にはすでに水上機の搭載を取りやめる艦艇や陸上機などに転科する部隊が相次いていたのである。
 しかも、もう一本の主力である艦上爆撃機が統合されるということは、今後はこの分野に関しても専用業者ではなく、他社、特に艦上攻撃機を生産する中島飛行機との競合となることは目に見えていた。
 三菱と並ぶ日本の二大航空製造業者である中島飛行機であれば、艦上攻撃機を失注した所で陸軍機や他の大型機の生産でいくらでも利益を得ることが出来るはずだが、愛知時計電機の場合は今後も生産機種が艦上攻撃機に限られるのであれば、失注が即航空部門の破綻に繋がってしまうのである。
 愛知時計電機の航空機製造からの撤退方針は、このように先の見えない状況を鑑みてのものだったと考えられている。

 だが、航空技術廠からの技術支援など並々ならない努力で育成してきた愛知時計電機の技術力を失わせるのは海軍としては避けたかった。そこに登場したのが当時も代議士として辣腕を振るっていた中島知久平だった。
 元海軍軍人であった中島知久平は言うまでもなく中島飛行機の創業者であり、軍部に太いパイプを持つ政治家だった。後に魔法のようなと称されるほど短時間で海軍及び愛知時計電機の関係者を説得した中島は、愛知時計電機から航空部門を分離させると、それを中島飛行機によって買収させてしまったのである。
 元々、二式艦上爆撃機と同型の水冷エンジンを搭載した零式艦上戦闘機44型の開発時においてこの2社は協力関係にあったことから、戦時中という慌ただしい期間であるにも関わらず中島飛行機への吸収は比較的順調に行われており、旧愛知時計電機航空部門は中島飛行機の艦上攻撃機開発部門として生き残ったのである。

 このように生産業者が確定した統合攻撃機だったが、中島飛行機への吸収よりも前から行われていた試作開発には大きな障害が唐突に発生していた。その搭載兵装が全く定まっていなかったのである。
 これは大戦序盤における戦訓が影響していた。ルーマニアのプロエスティ油田への爆撃作戦によって生じた一式陸攻隊の多大な損害や、マルタ島をめぐる一連の海戦における雷撃の不首尾などから、日本海軍がこれまで重要視していた魚雷攻撃に懸念が生じていたのである。
 この懸念は、将来における航空兵装にも影響を及ぼしており、日本海軍は統合攻撃機に何を搭載すべきか判断に迷っていたのである。

 これは統合攻撃機の開発計画に大きな影響を及ぼしていた。当初、統合攻撃機は、高速性能を発揮させるために、急降下爆撃時は二式艦上爆撃機同様に爆弾を機内に収容する爆弾倉を設ける計画だった。また、構想案の一つには、やはり抵抗を削減するために魚雷搭載時もこの爆弾倉を利用する計画だった。完全に爆弾倉内に収容する事はできなくとも、半埋め込み式であれば爆弾倉扉をはずしてより大型の兵装でも搭載できると考えられていたのである。
 だが、これは逆に考えれば機体構造の重要な部位である爆弾倉の寸法が搭載兵装に大きく左右されるということを意味していた。理想を言えば、主兵装丁度の寸法に抑えられれば爆弾倉を最小化出来るからである。
 ところが、従来の航空兵装に対する不信感が次期主力兵装の構想に大きな障害となっていた。この時期は各種方式の誘導爆弾や誘導噴進弾なども検討されていたもののいずれも一長一短で決め手を欠いていた。
 搭載兵装の迷走は、統合攻撃機爆弾倉の寸法がいつまでも決定できないという深刻な事態を招いていたのである。

 この問題を一挙に解決したのも中島知久平だった。中島は海軍関係者だけではなく、誘導兵器の研究開発を海軍と共同で行う陸軍に対しても代議士としての立場を使って陸軍省経由で情報を収集すると、海軍に対してある提案を持ちかけていた。それは逆転の発想ともいえる爆弾倉の廃止だった。
 寸法が定まらない爆弾倉を廃止する代わりに、統合攻撃機は手に入る最大出力のエンジンを可能な限り小型化した機体に搭載することで、膨大な余剰出力からなる搭載量の余裕をもたせるのである。機体の搭載量さえ大きければ、どんな兵装を搭載する事になっても対応できると中島知久平は海軍を説得していたのである。
 いくら元海軍軍人であるとはいえ、本来であれば機体の構想そのものを左右する判断を製造業者側の言いなりで変更することなどありえないのだが、この時期は海軍の航空行政が混乱している事もあって政治力に長けた中島知久平の案が正式に通ってしまったのである。

 紆余曲折を経て制式化された四四式艦上攻撃機は、大出力エンジンを搭載したこともあって一見すると大柄な戦闘機にも見える魁偉な姿となっていた。実際、前方制圧や自衛のために当時の日本陸海軍戦闘機が標準的に備える20ミリ機銃を両翼に一門ずつ備えており、並の戦闘機を上回る火力があった。
 搭載エンジンは計画当初は四四式艦上戦闘機と同型のハ42が想定されていたものの、三菱の生産力から同エンジンは艦上戦闘機搭載が優先されており、結果的に中島飛行機でライセンス生産されていたブリストル・セントーラスエンジン搭載型が量産化されていた。このセントーラスエンジン搭載型を原型機から異なる流星改として区別している資料も散在するが、そもそもこの時期は流星や烈風といった名称は愛称に過ぎず、正式な書類では流星改という記述も見られないことから、中島飛行機社内関係者の回想が又聞きによって広がっていっただけに過ぎないと考えられる。

 後部に旋回機銃及びこれを操作する偵察員を備える四四式艦上攻撃機の細長い風防天蓋は従来の艦上爆撃機譲りであったが、それ以外の低翼配置などの特徴は同時期に制式化された四四式艦上戦闘機に類似しており、この時期の日本海軍の空母には単座戦闘機と複座戦闘機が搭載されていると言われていたほどであった。
 ただし、対米戦において対重爆撃機の迎撃戦闘に限られるとはいえ、後席の偵察員が操作する対空誘導噴進弾を運用して積極的に対空戦闘に投入されたこともあるために、複座戦闘機という見方はある意味で正鵠を射るものでもあった。

 機体構造も戦闘機並に頑丈なものであったが、これは大重量の兵装を各部に懸架する事を考慮した結果でもあった。搭載される兵装は爆弾が多かったが、胴体中央部及び両主翼の内翼部に設けられた懸架装置に最大で二トンもの兵装を搭載可能だった。主に使用されたのは誘導、無誘導の各種爆弾や奮進弾だったが、雷装時は主翼内翼部の大型懸架装置にそれぞれ1本、計2本という従来機にまさに倍する打撃力を有していた。
 このように多様な兵装を搭載する事が可能となった爆弾倉の廃止措置だったが、実のところ就役後もこれには賛否両論があった。確かに搭載量は大きいものの、当初の懸念通り爆弾等の兵装を機外搭載するために爆装時の空気抵抗は大きく増大してしまっていたからだ。
 爆装時は最高速度だけではなく航続距離も大きく低下しており、特に攻撃隊を編成する際に艦上戦闘機と足を揃えるのが難しかった。大重量の兵装に加えて増槽までいくつも抱える艦上攻撃機と軽量の増槽のみで済ませる艦上戦闘機の間には大きな差異が生じていたのである。

 また、就役後は想定外の事態も発生していた。この時期は、急速に電子機器が発達した時代でもあり、艦上攻撃機も魚雷型の機外搭載式電波探信儀を備えて電子的な哨戒任務を行うことが少なく無かった。
 当然四四式艦上攻撃機もこのような任務を行う事も多かったのだが、艦上爆撃機の流れをくむ同機は操縦員、偵察員の複座となっており、当時の人力に頼る部分の多かった哨戒任務においては三座の純粋な艦上攻撃機に処理能力の点で劣るのは否めなかった。
 海軍の思惑としては艦隊前方の哨戒任務等においては同機を使用するとともに、処理能力が必要となる戦闘機隊を従える形で行う空中管制任務には三座の四三式艦上偵察機を使用する予定となっていた。ところが、四三式艦上偵察機は高速性能を追求した一方で哨戒任務に必要な滞空能力には他機種に劣る面は否めなかった。
 結局、早々と四四式艦上攻撃機に後進を譲った二式艦上爆撃機とは異なり、日本海軍は二式艦上攻撃機を電探哨戒任務に用いる為に手放すことが出来ず、ある意味において本機において実現するはずだった空母搭載機種の絞り込みは中途半端な結果になっていた。また後に艦上哨戒機東海の後継も兼ねた多用途他座機の開発を促す切欠ともなっていたようである。


 


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