九八式装甲車





<要目>
重量22トン、全長6.20m、エンジン出力450hp、乗員4名、装甲厚50ミリ(最大)、武装40口径8センチ(実口径76.2ミリ)砲、13ミリ機関砲(実口径13.2ミリ)×1(随時司令塔に取付)、最高速度50km/h

 98式装甲車は、日本海軍が常設部隊である特別陸戦隊に配備するために開発した対戦車車両だった。

 当時、日本海軍はシベリアーロシア帝国に一個師団相当のシベリア特別陸戦隊を駐留させていたが、ソ連との国境線付近では、小競り合いを含む緊張状態が持続されており、シベリア特別陸戦隊も高度の警戒態勢が維持されていた。
 また、シベリア特別陸戦隊が正式に編制された1930年代初め頃から、ソビエト赤軍の戦車戦力が急激に増大していることが確認されていた。
 国境紛争でも度々BT快速戦車やT-26軽歩兵戦車が確認されるようになっていた。
 これに対して、シベリア特別陸戦隊も陸軍の八九式中戦車や、九五式軽戦車を装備する戦車隊を編制していた。

 陸軍制式採用の戦車を購入していたシベリア特別陸戦隊の戦車隊だったが、1930年代半ばには、海軍独自の戦車を求める声が高まっていった。
 国境線付近での陣地戦を前提として開発された九五式重戦車が、それまでの戦車と比べ、あまりに重く機動性が低く、また高価であったためだった。
 九五式軽戦車は、船艇移動などを生かした機動戦を好む特別陸戦隊戦車隊の戦法に合致していたが、あまりに軽装甲であり、大口径化する一方の戦車砲、対戦車砲に対して不利であることは否めなかった。

 この時期、シベリアーロシア帝国陸軍も同様に次期主力戦車に関して悩みを抱えていた。
 彼らは日本陸軍が制式採用した九五式重戦車を主力戦車として採用はしたものの、大口径とはいえ、短砲身の榴弾砲を主砲とした同車の発展性は乏しく、ソ連の戦車が年々強力になっていく中では陳腐化が早くに進むのではないかと考えていたようである。
 さらに、機動性に乏しい九五式重戦車では、万が一国境遅滞の陣地軍がソ連軍に突破された際に行われるであろう遅滞防御や機動防御には用いることが出来ないのではないかとも考えられていた。
 つまり九五式重戦車は、あくまでも移動トーチカであり、ソ連軍が国境を突破してしまえば、陣地群と同様に後方に取り残されて遊兵化してしまうのではないかと懸念があったのだ。
 実際、ドイツ軍によるフランス侵攻の際に、九五式重戦車同様に重装甲で鈍足のルノーB1が機動力を生かした敵戦車に各個撃破される結果を残しており、特別陸戦隊やロシア帝国の懸念は正しかったといえる。

 日本帝国陸軍は、国境線の陣地戦は九五式重戦車で戦い、万が一突破された際には、九五式軽戦車や新たに開発した軽歩兵戦車である九七式中戦車で阻止できると考えていたが、シベリアーロシア帝国は、ソ連軍が開発しているといわれる次期主力戦車の予想数値から、九五式軽戦車や九七式中戦車でも対抗することは難しいと考えていた。
 ソ連の次期主力戦車の予想が、重量30トン、装甲厚75ミリ、主砲として3インチ級を装備しながら、最高速度毎時50キロというものだったからである。
 未だに、シベリアーロシア帝国の諜報網が掴んだこの予想数値の戦車が具体的に何を示していたのかは判明していない。
 数値そのものは後のT-34の後期型に比較的近いが、この当時はT-34の試作車であるA-32ですら現れておらず、現在ではBT-7の改良型の情報とKV-1重戦車の情報が入り交じって出来上がった架空の戦車だったのではないかと考えられている。
 だが、この数値の戦車は架空であっても、この情報にシベリアーロシア帝国やシベリア特別陸戦隊が振り回されたのは間違いなかった。
 九五式重戦車よりも機動力に優れ、なおかつ重装甲で、対戦車戦闘能力に優れる主砲を搭載した戦車を早急に配備する必要が出てきたからである。

 誤った情報に振り回されたまま、早急に次期主力となる戦車を、シベリア特別陸戦隊から求められた海軍上層部ではあったが、海軍単独ではこのような重量級となるであろう戦車を開発する能力はなかった。
 その経緯から陸軍技術本部やこれまで日本陸軍の制式戦車を開発していた三菱重工業に協力を仰ぐのも難しく、シベリアーロシア帝国との共同開発になるとはいえ、その設計には困難が予想された。
 また、当時の艦政本部は、軍縮条約の改定による建艦枠の増大からなる艦艇の新規建造にかかりきりになっており、とても畑違いの戦車開発に回せる人的リソースは無かった。
 結局、シベリアーロシア帝国との政治的な関係などから、日本海軍上層部もシベリア特別陸戦隊からの要求を無視することは出来なかったが、担当者として艦政本部が配置したのは事務員を除けば監督兼務の主務設計者となる造船中佐ただ一人だった。
 勿論、造船中佐ただ一人では戦車一両の設計をこなすことができるはずもなく、担当者として各コンポーネントの設計と開発を担当メーカーに委ね、総合的な設計部分はシベリアーロシア帝国陸軍の貧弱な技術本部に頼るしか無かった。
 主務設計者である造船中佐は、このような脆弱な設計力をカバーするためと開発、製造コストを極限するために、各コンポーネントの開発は新技術への挑戦を廃し、可能な限り既存の製品や、そのスケールアップとする方針をとった。
 この方針のおかげもあって、九八式装甲車は概ね試作段階での大きなトラブルもなく、配備段階にこぎつけることが出来た。
 なお、九八式装甲車は、これまでの日本軍戦車とは異なり、日立製作所と小松製作所というこれまで戦車の製造に携わっていないメーカーが製造を行なっている。

 九八式装甲車の最大の特徴は、後に登場するドイツ陸軍の三号突撃砲や日本陸軍のいくつかの自走砲などと同様に、砲塔を持たず、固定式の戦闘室を設けたことが挙げられるが、これらの車両が、あくまでも砲兵科が運用する砲を装甲車両に載せた「自走砲」であるのに対して、開発者である海軍特別陸戦隊としては、あくまでも戦車隊が使用する「戦車」として捉えていた。
 全周旋回可能な砲塔を採用しなかったのは、遠距離で敵戦車を撃破しうる大口径長砲身の主砲および操砲スペースから逆算された砲塔容積が、想定する車両寸法内に収まりきらなかった事と旋回機構などの砲塔に関する設計工数を省くためであった。
 九八式装甲車が「装甲車」という名称になったのは、海軍が新たな戦車の呼称にこだわりを見せなかったためとその存在を秘匿するためであると考えられる。
 固定式戦闘室を設けた戦車という意味では、九八式装甲車の性質は、突撃砲などよりも後のトータス重突撃戦車がより近しいと言える。

 九八式装甲車の主砲は、艦載されていた三年式8センチ高角砲を流用したものだった。
 戦車砲に流用するにあたっての改装は車内の取り付け部に限られており、駐退機が防盾外部にむき出しになっているなど最適化されたものとは言いがたい。
 しかし、九八式装甲車開発当時はすでに八九式12.7センチ高角砲に艦載高角砲は切り替わっており、旧式化した三年式は陸上砲などに転用されており、余剰品の入手は容易であった。
 艦載高角砲としては旧式化していたとはいえ、陸上の対戦車砲としては格段に強力な砲であり、当時の大半の戦車をアウトレンジで撃破しうるものだった。
 大威力の主砲を有する代わりに、対歩兵用の機銃は搭載されていない。
 同じく海軍用の13ミリ機関砲を車体上部の司令塔基部に搭載可能であったが、これは主に対空自衛戦闘向けであって防盾がないため対歩兵用としては運用が難しかった。
 特別陸戦隊では、戦車隊の編成内に自走高角機関砲などの対歩兵戦闘により向いた車両を含むため、九八式装甲車は対戦車戦闘に特化させたものと考えられる。
 車載機銃を省いたため機銃手兼無線手は不要となっているが、戦闘室内には、砲手、車長の他に装填手が乗り込むため、乗員は九五式軽戦車、九七式中戦車よりも多い四名となっている。
 専門の装填手を乗せたのは、それまでの戦車が車長か砲手が装填手を兼ねるためにどちらかの仕事が疎かになることがあったことと、大口径の七六ミリ砲の装填はこれまでのように片手間ではいかなかったためである。
 九八式装甲車の車高は、装填手の効率的な作業スペースから逆算されたものであるため、装填手は屈みこむこと無く立ったままの自然な姿勢で重労働の装填作業を行うことが出来た。
 最も日本人の標準体格では問題なかったが、大柄なロシア人には厳しかったらしく、シベリアーロシア帝国陸軍では小柄な体格のものが選抜されて戦車兵となるケースが多かった。
 また、連続発砲時の排煙を考慮して、車体上部には強制換気用のファンが設けられている。

 主砲とした大威力砲に対応するように、九五式重戦車並の重装甲が施された九八式装甲車は、無砲塔式によって寸法を抑えたにもかかわらず、自重は当時としては重戦車級となる20トン級となってしまった。
 旧来の重量のかさむリベット留めを廃し、当時日本海軍で実用化の域に達していた電気溶接を全面的に取り入れてはいたが、重量軽減対策としては焼け石に水でしか無かった。
 ただし、被弾時に衝撃で弾き飛ばされたリベットが車内外の人員、機材に損害を与えることがその後の実験や、実戦で証明されており、その点では溶接留めのほうが耐衝撃性で優位にあった。

 この重量級の車体に、仮想敵となるソ連軍次期主力戦車に対抗できるだけの機動性、具体的には九五式軽戦車と同等の能力を与えるために、エンジンには、これまでの戦車搭載エンジンよりも格段に大出力の450馬力水冷ガソリンエンジンが採用された。
 だが、このエンジンは、戦車用としては大出力のものだったが、元は主砲同様に旧式化して退役していた艦上機から取り外されて保管されていた中古の航空機用エンジンを再整備の上で搭載したものだった。
 旧式で、耐用年数の迫ったエンジンではあったが、空中でエンジンが止まれば墜落か不時着を余儀なくされるが、敵前で停止しない限りはさして困りはしない(と判断されていた)戦車搭載エンジンとしては未だ耐用年数が残されていると判断されていた。

 このように有力な主砲と装甲、さらには大出力エンジンを兼ね備えているにもかかわらず、それらの大半が安価に取得できる中古品で構成された九八式装甲車だったが、装甲を含む車体部分以外で唯一新規開発されたのが、エンジンと並んで機動性に大きな影響力を与えるサスペンションだった。
 それまでの陸軍制式採用戦車は、初期に開発されたリーフスプリングを除いてシーソー式連動コイル式サスペンションを採用していたが、九八式装甲車は大型転輪をストロークの長い子いるサスペンションで独立懸架する、所謂クリスティー式サスペンションが採用されていた。
 最も、このクリスティー式サスペンションも、国境紛争で鹵獲されたソ連製のBT戦車に採用されていたものを参考に開発されたものなので、完全な独自開発とは言いがたい。
 このクリスティー式サスペンションの採用は、BT戦車同様の機動性の確保も勿論だが、これまで重量級車両の開発実績のない日立製作所や小松製作所に技術的な冒険をさせるのを回避するためでもあった。
 また、サスペンション全体の実績こそなかったものの、小松製作所では既にサスペンションや履帯用の精密鋳造、鍛造法を確立していたため、部品単位の生産であれば容易であった。

 九八式装甲車は、このようにできうる限り既存製品や技術を使用したこともあって、開発開始から二年後の1938年には制式採用され、当初の予定通りシベリア特別陸戦隊戦車隊に配備が開始された。
 使用実績、および実射試験の結果も、装備部隊を概ね満足させるものではあったが、砲塔がない分だけ、近接された場合の対処など、機動戦に用いる戦車としては不適当と考えられる部分も少なくなかった。

 だが、九八式装甲車の最大の問題点は、容易に取得できると判断された中古品の機関や主砲の在庫が少ないことだった。
 当初シベリア特別陸戦隊向けの極少数で終了するはずだった九八式装甲車の予定生産数が、その後の状況の変化で大きく増大していったからである。


 


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