九七式中戦車





<要目>
重量12トン、全長5.20m、エンジン出力120hp、乗員3名、装甲厚35ミリ(最大)、武装18.4口径5.7センチ砲、7.7ミリ機関銃×1、最高速度27km/h

 日本帝国陸軍は、1936年度より、八九式中戦車のさらなる後継車計画を立ち上げた。本来八九式中戦車の後継となるはずだった重、軽二種類の九五式戦車が、様々な理由から実質上は八九式中戦車の代替となり得ないことが明らかとなっていたからだった。
 九五式軽戦車は、あくまでも八九式では不可能であった機動戦に対応する装甲を犠牲にした高速戦車であり、日本帝国陸軍が仮想戦場とするソビエト、シベリアーロシア帝国国境間の陣地戦に向いているとは言えなかった。
 これに対して、九五式重戦車は、低速ではあったが、重装甲で大口径の榴弾を装備する陣地戦に対応する戦車ではあったが、多砲塔で重量があるため、調達価格が比較的高く、八九式中戦車の代替として量産配備することは難しかった。
 九五式軽戦車が、手頃な価格からある程度の輸出を果たしたのに対して、九五式重戦車は一部がシベリアーロシア帝国に購入されたほかは、ウラジオストック駐留の第二十師団の師団戦車隊他のシベリア駐留部隊への少数配備にとどまっていた。
 そこで、八九式中戦車の真当な後継となる、一般師団の戦車隊などに配属する量産可能な価格の戦車となる中戦車が計画された。

 しかし、九五式重戦車、軽戦車の時とは異なり、機甲科による仕様策定作業は混乱することとなった。
 九五式開発の場合は、重軽二種類の戦車の同時開発となったため、旧歩兵科と旧騎兵科出身者がそれぞれの仕様を策定したのだが、今度の中戦車開発は予算や調達開始までの時期余裕を考慮すると単一車両にならざるを得なかったため、旧歩兵科は重戦車よりの歩兵戦車を、旧騎兵科は高速で対戦車戦闘を重視した高初速砲を装備する九五式軽戦車の大型版のような仕様を提出しており、機甲科としての纏まった仕様を策定する作業が困難であった。
 結局、仕様策定作業が長引いたにもかかわらず結論が出なかったため、この新型中戦車の要求仕様は数値に幅のある曖昧なものとなってしまった。

 この要求仕様が曖昧であったために、競合試作となった二案の試製戦車もそれを反映して、九五式軽戦車を重装備化させた重高速戦車であるチハ車と九五式重戦車を軽量化、単砲塔化したような軽歩兵戦車であるチニ車という対照的な二両の戦車が出来上がったのである。
 当然のように、仕様確定作業と同じように旧騎兵科と旧歩兵科による機甲科内部の論争が巻き起こり、更に機甲本部を飛び越えて参謀本部や陸軍省も巻き込んだ大騒動に発展したのだった。
 この論争は、最終的に機甲本部の手を遠く離れて、何故か陸軍内部の皇道派、統制派、あるいは会津閥と長州閥という政治的な派閥論争へと発展していき、陸海軍の垣根を越えた後の兵部省技術開発本部や統合参謀部設立の遠因の一つとなるのだが、そのような政治論争の影で、傍から見ればいつの間にか次期中戦車は大阪砲兵工廠が試作していた軽歩兵戦車であるチニ車の採用が決定されていた。
 チニ車が制式採用されたのは、運用者の論争とはかかわりなく、現実的な理由からだった。
 機動戦を実施する高速戦車は、その性能はともかく既に九五式軽戦車が存在していたが、陣地戦に使用する歩兵を直接支援する歩兵戦車は、九五式重戦車の数が揃わない以上新たに生産配備する必要があったからだった。

 かくして紆余曲折の末、九七式中戦車として制式採用されたチニ車は、その名称にも関わらず高速戦車である九五式軽戦車との部品共有を図っていた。
 車体は九五式軽戦車から延長されているが、超壕能力を高めるために、さらに車体後部に尾橇を追加している。
 機関は、九五式軽戦車や重戦車とは異なり、航空機用改装の水冷ガソリンエンジンではなく、燃費に優れた空冷ディーゼルエンジンを採用している。
 これは、九七式中戦車が補給態勢が確立された第二〇師団などの機甲化が進んだ部隊のみならず、一般の歩兵師団にも配属されることを想定していたため、段列部隊の燃料移送の負担を軽減するのが目的であったが、液冷ガソリンエンジンに比べ、空冷ディーゼルエンジンは重く、また空冷ファンなどかさばる機構が多いことから機関部は九五式軽戦車よりも大型化を余儀なくされている。
 九七式中戦車の車体延長部は、ほぼこの空冷ディーゼルエンジン搭載のために拡大されており、機関部を除いた車体部戦闘室容積は九五式軽戦車と殆ど変化がない。
 その一方で、短砲身の57ミリ砲を搭載した1人乗り砲塔は、95式軽戦車のそれよりも狭く、砲塔後部の機銃搭載は廃止されている。
 よって搭載兵装は、車体前部の7.7ミリ機銃一丁と18.4口径5.7センチ砲一門となっている。
 搭載された5.7センチ砲は、八九式中戦車に搭載された同スペックの砲を改良したものだが、制作治具の大部分は流用可能であり、生産コスト低減のための部品流用は兵装にも及んでいた。
 この短5.7センチ砲は歩兵支援用途としては十分な威力を発揮しており、九五式軽戦車の長砲身3.7センチ砲と比べて初速が遅く、対装甲貫通力は低いが、榴弾の炸薬量はより大きいため、歩兵支援用の砲としてはより有効であった。
 しかし、砲が搭載された1人乗り砲塔は容積が最小限まで抑えこまれていたこともあって、車長が単独で装填、発砲という砲手兼装填手の仕事と同時に、車長としての監視任務もこなさなければならず、戦闘時に十分な戦力を発揮できないとして部隊配備後の評判は悪かった。
 その一方で速力は遅いものの、近距離で当時各国で制式化されていた37ミリ級の対戦車砲には耐えうる十分な装甲厚を持っていた。

 開発、生産コスト低減を目的とした部品共有が図られた事もあって、九七式中戦車は本土配備の一般歩兵師団の戦車隊向けに急速に配備が進んだ。
 その一方で、八九式中戦車と殆ど変わらない速度は、やはり同じく全く機動戦に対応出来なかった。
 この当時の日本帝国陸軍は、対ソ戦は勿論、対独戦も見据えた重装備化を進めており、一般の師団も自動貨車の大量配備により自動車化が進んでおり、配備直後より九七式中戦車の機動性の低さは問題視されていた。
 鈍足で重装甲であるため、徒歩歩兵の盾となる移動トーチカとしての運用を前提とする九七式中戦車ではあったが、自軍の機動化が予想以上に進んでしまったため、その価値を半減させてしまっていた。


 


戻る
inserted by FC2 system