九五式軽戦車





<要目>
重量9.8トン、全長4.4m、エンジン出力220hp、乗員三名(車長謙砲手、機関銃手、操縦手)装甲厚15ミリ(最大)、武装46口径3.7センチ砲、7.7ミリ機関銃×2、最高速度52km/h

 日本陸軍は、輸入戦車の研究から始まり、半ば実験車両であった試製戦車を経て、初の制式化国産戦車である八九式中戦車を手に入れた。
 八九式中戦車は重量15トンに、最大装甲厚15ミリを有する制式化当時としては、概ね有力な戦車ではあったが、制式化からその最高速度の遅さが問題視されていた。
 歩兵の機械化が進み始めていた当時の日本陸軍では、自動貨車などに随伴するのが難しい八九式は、機動戦に使用することが出来なかったのである。
 そこで、機動戦に対応する高速戦車兼、追撃戦車として日本陸軍初の国産軽戦車となる九五式軽戦車が開発された。

 九五式軽戦車の開発スタートと時を同じくして、それまで装甲車として実質上の軽戦車を運用していた騎兵科と、実質上の歩兵戦車である、いわゆる「戦車」を運用していた歩兵科の一部が独立し、機甲科が独立した兵科として設けられたたため、九五式軽戦車の仕様要求は、機甲科が初めて出したものとなった。
 その仕様要求は、国内橋脚及び海上機動を考慮して重量10t以下、最大速度50km/h程度、装甲厚15ミリという当時としては最先端を行くものとなった。
 特に最高速度が50km/hは、破格のものであり、これを満足させる出力を得るために、八九式中戦車乙型で採用されたティーゼルエンジンの継続採用は不可能となり、航空機用の物を再設計した水冷ガソリンエンジンが採用された。
 このような高速性が要求されたのは、実際に必要というよりもは同時期に開発されていた九五式重戦車との区別化を図るためとも言われているが定かではない。

 九五式軽戦車の武装は、当時開発中であった九四式(速射)砲を流用しており、砲弾も共通化されているが、車内での運用のため砲架の形状は独自のものとなっている。
 他に副兵装として7.7ミリ機関銃が車体前部及び砲塔後部に一丁ずつ装備されているが、砲塔内の機関銃は、砲手、装填手を兼ねる車長が操作するのは難しく、また閉所となる砲塔内の空間確保のため外されて運用されることが多かった。
 また、追撃用戦車である本車が後部機関銃を使用する可能性は低いため、後期生産分では当初より外されて生産される車両も多かった。

 九五式軽戦車は、日本帝国陸軍各師団の捜索隊や戦車連隊に配備された他、アジア諸国にも輸出された。
 タイ王国、中華民国、及び独立間もない満州共和国である。
 特に中華民国は国共内戦の真っ最中であり、共産主義勢力(後の北中国)に少数配備されていたソビエト製のT-26軽歩兵戦車などとの交戦が行われている。
 中華民国陸軍、および日本陸軍から派遣されていた軍事顧問団によれば、対人、対トーチカ目標に対しては榴弾の炸薬量小にして効果少なしとある他は、九五式軽戦車の評価は概ね良好であった。
 最も、当時ソビエトが中国共産党に供与していたのは、T-26軽歩兵戦車の中でも旧式化した7.62ミリ機関重装備か37ミリ砲装備の1931年型であり、新型の45ミリ砲を装備した1933年型でも機動性の圧倒的な差から側面に回り込めば撃破は容易であったらしい。

 九五式軽戦車は、旧式化した後も、扱いやすさや生産数の多さからか訓練用などに転用されたものも多く、欧州に派遣された戦車兵たちの多くも九五式軽戦車で訓練を受けている。

 


戻る
inserted by FC2 system