九五式重戦車(派生型)




九五式重戦車乙型



九五式重戦車丙型


<要目>
重量38トン、全長6.5m、エンジン出力500hp、乗員5名、装甲厚60ミリ(最大)、武装38口径75ミリ砲、18.4口径5.7センチ砲(乙型)、46口径3.7センチ砲(丙型)、7.7ミリ機関銃×1(随時司令塔に取付)、最高速度30km/h

 一九三〇年代なかばに採用された九五式重戦車は、日本帝国陸軍のシベリア駐留師団及びロシア帝国陸軍のソビエト連邦との国境線の最前線に展開する部隊に優先して配備されていたが、配備開始から数年後、一式中戦車の開発段階ではすでにその性能は陳腐化していた。
 多砲塔戦車というコンセプトそのものが、この時期既に実用性に低いことが判明していたこともあったが、その短砲身の榴弾砲では戦車等の装甲目標に対する有用性が低いのも事実だった。

 前線に配備された九五式重戦車の数は少なくなく、その後継車両が要望されてはいたが、陸軍技術本部の新型戦車の開発リソースは、一式中戦車及びその後継車両にほぼ集中しており、直ちに陣地戦を目的とした新型重戦車の新規開発を行うのは難しい状況だった。
 そもそも一式中戦車は、陣地戦に使用する防御用の重戦車とは開発コンセプトの異なる運動戦で使用することを目的とした高速戦車であり、対ソ国境線に展開する前線部隊に配備する重戦車を代替するものではなかった。
 これらの状況から、日本帝国陸軍機甲本部は、ロシア帝国陸軍技術本部との共同開発という形で、両軍が使用する九五式重戦車の近代化改修を新型重戦車開発までの当座の処置として実施することとなった。
 日本帝国陸軍機甲本部及び技術本部、それに戦車開発に携わる各メーカーの技術員不足から、実際には機材、技術を日本帝国陸軍が供給し、ロシア帝国陸軍技術本部の人員が改設計を担当していた。

 改設計が行われた九五式重戦車は、搭載砲の違いから乙型及び丙型に類別されるが、副砲塔の違いを除くと両者は基本的に同じ車両である。
 乙型、丙型の制式採用後は、それまで生産配備されていた元設計車両を区別するため、遡って九五式重戦車甲型と命名されている。
 甲型で主砲塔であった短砲身の18.4口径7.0センチ砲は取り外され、その位置にはこれまで副砲塔として搭載されていた46口径3.7センチ砲、あるいは九七式中戦車の主砲である18.4口径5.7センチ砲が砲塔ごと搭載されている。
 5.7センチ砲搭載型が乙型、3.7センチ砲搭載型が丙型に類別されるが、前述のとおりこの両者の違いは搭載する副砲の他はない。
 もちろん、この副砲塔は7センチ砲のスペースにそのまま取り付けられているわけではなく、原型のターレットリング部分には防弾鋼板の頑丈な蓋が溶接されている。この蓋部分には搭載する副砲塔に合わせた新たなターレットリングが加工されていたが、後述の主砲操砲スペースを確保するために、車長席を備えた副砲塔は車体左側にオフセットして配置されている。
 この副砲塔は、九五式重戦車甲型及び九七式中戦車の改造時に不要となった機材の再利用とも言えるものであり、車長が外部監視に用いる展望塔の追加以外にはほとんど変更点はない。
 原型車両の物をほぼそのまま搭載しているため、特に制式採用前から運用の困難さを指摘されていた九七式中戦車用砲塔の評価は低く、指揮を行いながら車長が操砲を行うのは困難であったため、実戦での発砲機会は少ないものと考えられていた。
 実際には敵歩兵を制圧するための自衛用機銃が取り除かれていたこともあって、北アフリカ戦線では敵歩兵や近接した対戦車砲などに対して、機銃代わりに榴弾による制圧射撃を実施することは少なくなかったようである。
 このように近接距離で副砲塔による歩兵制圧を余儀なくされた原因は、主砲塔の搭載方法が、砲戦車と同様に旋回砲塔式ではなく車体に固定された戦闘室に搭載されていたためであった。
 遠距離で敵戦車を撃破すべく、一式砲戦車に搭載されているのと同じ九〇式野砲改造の38口径75ミリ砲が搭載されている。搭載位置は副砲等々の干渉を避けるため、車体中心からやや右側にオフセットされており、大重量の砲弾の装填作業を連続して実施する装填手に十分な作業スペースを確保している。
 この主砲搭載のために、従来の副砲塔搭載スペース及び主砲塔下部空間が割り当てられており、その前面には、これまでの装甲を上回る最大60ミリに達する防弾鋼板が配置されている。
 この装甲板は避弾経始を考慮して傾斜が取り入れられており、実際の防御力は装甲板の増厚以上にあがっている。また、車体及び装甲板同士の接合部は溶接箱組となっており、従来のリベット留めよりも被弾時の損害は少なかった。

 この他、従来型で装備されていた車体後部の銃塔は取り外されており、その空間は新型機関用の補機搭載スペースなどに転用されている。
 元設計の九五式重戦車は、同時期に採用された九五式軽戦車とエンジンを共通化したために、重量の割に機関出力が低く、機動性が著しく低かった。陣地での防衛戦に使用することが前提であったため、さほどこの点は問題視されていなかったが、九五式重戦車制式化後に判明したソ連次期主力戦車はかなりの高速性能を持っており、ドイツ軍のフランス侵攻作戦時のように鈍足すぎる戦車では、戦線を機動力を生かして突破した高速戦車によって、実際の戦闘に及ぶ以前の問題で無力化される恐れもあった。
 そこで一式中戦車、一式砲戦車で採用された最大五〇〇馬力にも及ぶ甲型に比べて格段に大出力の主機関が搭載された。
 ただし、改造工事の予算の関係から車体後部の根本的な構造変更ができなかったため、機関を収めるスペースの増大が許されなかったため、一部隔壁の撤去などで空間を確保しており、エンジン交換作業にかかる工数は増大している。
 また、水冷エンジン用のラジエータは甲型で後部銃塔が搭載されたスペースに配置されているが、容積が十分ではなかった上に、エンジン排気口からの高温排気の吹付けなどの問題からラジエータの実性能は設計値よりもだいぶ低くなっており、寒冷地のシベリアでの運用ではさほどの問題は出ていなかったが、北アフリカ戦線では外気温度が高い上に砂塵対策のフィルターによって吸気量が減少していたため、頻繁にオーバーヒートによるエンジン停止が発生しており、エンジン交換期間も短かった。
 多々の問題を抱えながらもエンジンが換装された一方で、履帯や転輪といった足回りの改良は特に実施されていない。
 エンジンの大出力化や、重量増大に対応しているとは言いがたく、機関出力の割には最高速度がさほど上昇していないのはこれらの問題が原因であると考えられる。

 ロシア帝国陸軍の工廠で甲型を改装する形で始まった九五式重戦車の改造工事は、本来現役の甲型すべてを改造した時点で終了するはずだった。
 しかし、この改造工事が終了する頃、既に勃発していた北アフリカ戦線では、日露両国の同盟国である英国陸軍が戦車不足にあえいでいた。
 英国貴族出身で、ロシア女帝マリア・ニコラエヴナの王婿であるルイス・マウントバッテン伯は、これを憂慮し、シベリアーロシア帝国独自の英国支援策として、自国で生産した戦車の供与を帝国議会、軍へと要請した。
 この要請を受け、ロシア帝国陸軍は自国防衛に支障をきたさない範囲内という制限のもとで戦車等の英国への供与を決意したが、この支援政策が決定した時点でシベリアーロシア帝国が独自に生産可能な戦車は、日本帝国よりライセンス生産権を取得しており、また改造経験のあった九五式重戦車以外無かった。
 かくして本来は次期重戦車開発までのつなぎであったはずの改造型九五式重戦車が新規に生産され、北アフリカ戦線へと送られることとなった。

 この再生産型九五式重戦車は、基本的には乙型、丙型と同一の仕様であったが、リベット留めの一部が溶接構造に変更されているため、再生産車両と甲型からの改造車両を見分けるのは容易であった。
 九五式重戦車を供与された英国軍では、元設計を行った日本国の歴史上の武将名から乙型をトヨトミ、丙型をオダと呼称して識別していたが、この愛称は国際連盟軍内部でも英国軍以外全く広まらなかった。
 前述の高温環境下でのオーバーヒート問題から機械的な信頼性にかけるところのあった九五式重戦車乙、丙型だったが、同時期にそれ以上に故障が頻発していたクルセイダー巡航戦車が戦線に投入されていたこと、固定式の長大な主砲を生かした長距離砲戦が可能であることからエンジンに負担をかける高速移動を行う必要性がそもそも低いことなどから、使用者である英国軍からの評価は低くなかった。
 もっともシベリアーロシア帝国で再生産され、英国軍に供与された九五式重戦車の数はさほど多くはなく、乙型、丙型を合計して約二〇〇両が供与された九五式重戦車を装備した部隊も、北アフリカ戦線終盤では新たに供与された三式中戦車、あるいは自国製のチャーチル歩兵戦車へと装備改変されていた。
 戦闘による損耗を免れ、二線級装備となった九五式重戦車は、自由フランス軍への供与や訓練用として用いられ、第二次欧州大戦終結まで国際連盟軍機甲部隊を陰ながら支え続けた。


 


戻る
inserted by FC2 system