九五式重戦車





<要目>
重量30トン、全長6.5m、エンジン出力290hp、乗員5名、装甲厚40ミリ(最大)、武装18.4口径7.0センチ砲、46口径3.7センチ砲、7.7ミリ機関銃×2、最高速度20km/h

 1930年代初頭、列強各国に先駆けて、日本帝国陸軍は、騎兵科と歩兵科の一部装甲車両部隊を統合して、機甲科を新設した。
 統合当初は、機甲科の将兵も旧兵科の影響が強く、実質上は単一兵科として運用できていなかった。
 このため機甲科の主兵装となった八九式戦車の後継車両計画における仕様要求も、旧騎兵科からのものと旧歩兵科からのものと二種類が出されていた。
 このうち、八九式で欠けていた自動貨車などの車両への随伴を可能とする機動戦に対応した高速戦車として開発されたものが九五式軽戦車で、歩兵支援用の鈍足でも重装甲で大火力の榴弾砲を装備するいわゆる歩兵戦車として開発されたのが九五式重戦車であった。
 完成時の重量から軽、重戦車として分類されたが、必ずしも用途上の分類からの命名ではない。

 九五式重戦車は、試製九一式重戦車の開発経験を生かしつつ、これに更に大火力と重装甲を付したものとして開発された。
 その仕様要求は、最大装甲厚40ミリ、大口径の榴弾砲を装備するといったものだった。
 最終的に装備された砲は、専用に開発された短砲身の7センチ94式戦車砲を主砲として採用し、これに加えて九五式軽戦車の主砲としても採用された九四式速射砲を副砲として搭載していた。
 さらに、車体後方および7センチ砲塔の後部に7.7ミリ機銃を一丁づつ装備している。このため九五式重戦車はこの時期世界各国で流行していた多砲塔戦車となった。
 砲塔、銃塔は計三基となり、比較的砲塔数は少なかったが、重装甲と合わせて、重量は30トンにも達し、これを駆動するには九五式軽戦車と同程度の出力しか持たない水冷式の搭載エンジンでは明らかに過小であった。

 八九式の後継として開発された九五式重戦車ではあったが、その速度は八九式よりも劣り、最高速度は路上で20km/hにしかならなかった。
 足回りの駆動系は試製九一式重戦車に採用されたものを改良したものを搭載していた。さほど高性能を狙ったものではなかったが、最高速度が遅く無理をかけること自体が不可能であったためか、自重による損耗を除けば評価は概ね満足するものだった。
 その低い機動性も、同時期に開発された九五式軽戦車が機動戦に対応した高速戦車として補完するものであったため、両車種ともに採用し共に部隊に配備することが決定された。

 もしも日本帝国陸軍の予想戦場が広大な中国大陸などであれば、九五式重戦車が制式採用されることはあり得なかったかもしれないが、日本帝国の仮想敵は、第一にシベリアーロシア帝国と共同して当たるソビエト連邦であり、その予想戦場は、バイカル湖周辺に双方の陣営によって幾重にも張り巡らせた陣地群だった。
 こうした陣地戦では、重装甲や、歩兵を支援するために大容量の炸薬を詰め込んだ榴弾を発射する大口径砲が必要だった。
 その一方で固定された陣地の取り合いでは、さほどの機動性は必要とされていなかった。
 だからこそ九五式重戦車は、機動性に欠けた高額の戦車ではあったが、日本陸軍に採用された他に、シベリアーロシア帝国陸軍にも多くが輸出され、主力戦車として最前線に配備された。


 


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