九五式拳銃



図上が九五式拳銃特型、図下が九五式拳銃(通常型)


<要目>(括弧内は特型)
銃全長185mm(210mmサプレッサー含まず) 銃重量920g(960g) 
装弾数10発(シングルカーラムマガジン) 使用弾薬9ミリパラベラム

 1930年代、日本陸軍は戦車兵や将校の自衛を目的とした拳銃の開発を迫られていた。それまで採用されていた南部式小型拳銃は高価すぎて大量生産には向いていなかったし、十四年式拳銃は大きすぎたからである。
 そこで南部工業は南部麒次郎が中心となって試製小型拳銃を製作した。試製小型拳銃は陸軍兵器局の性能要求項目をほぼ満たしてはいたものの、引き金の動きをハンマーに伝達するシアーが露出しており、実射試験においてその欠点を露呈させた。これは出来る限り拳銃を小型化させる為の苦肉の策だったのだが、審査中に暴発を起こし、根本的な設計の転換を迫られることになった。
 さらに、シベリアでの小競り合いでの経験から8ミリ十四年式拳銃実包は威力不足であるという報告が陸軍遣露軍団および海軍シベリア特別陸戦隊から出された。8ミリ弾が悪いというよりもは、寒冷地ゆえ厚着をしていた兵隊に対しては拳銃弾そのものが効果が薄いのではないかという指摘が出されたが、8ミリ弾が威力不足であるのは確かだった。そこでより強力な拳銃弾の使用が次期採用拳銃には求められた。
 ここにきて小型で軽量の自衛火器が求められていたはずの新拳銃は、大型の十四年式の後継としての性格まで求められてしまったのである。

 しかし、審査の結果とほぼ時を同じくして開発責任者であった南部麒次郎は病魔に倒れてしまった。心労が原因といわれていたが、とても開発の前線に出てこられる状態ではなかった。
 南部工業の社員達は途方にくれたが、陸軍技術本部も焦っていた。中心人物であった南部麒次郎を欠いた南部工業の技術力ではとても新拳銃を纏め上げることは不可能だったし、いまさら他の企業に開発を命じても制式化が大きく遅れることは間違いなかったからである。
 いつの間にか拳銃不足を嗅ぎ付けてきた英国はどさくさに紛れて自国製の拳銃を売りつけようとしていたが、いまさら旧式のリボルバーを採用するつもりはさすがに陸軍にも無かった。しかし他の欧州拳銃を見渡しても政治的に選択することの出来ない独逸製ぐらいしか陸軍を満足させられる拳銃はなかった。

 この状況に対する救いの手は意外な所から差し出された。天才銃器発明家といわれていたジョン・Mブローニングの息子であるバル・ブローニングとベルギーFN社スタッフ数人の来日と南部工業開発陣への参画である。
 約十年前に死去していたジョン・M・ブローニングは、モンロー主義に凝り固まって第一欧州大戦を非戦で過ごしていたアメリカに幻滅して、仕事上の付き合いの深かったFN社を頼りにベルギーに移民していた。
 そして第一次欧州大戦に参戦していた日本軍の戦訓調査と欧州の銃器研究の為に戦後訪欧していた南部麒次郎は、ベルギーでジョン・M・ブローニングとその息子やスタッフと親しくしていたのである。南部は銃器設計者としてのブローニングをひどく尊敬していたといわれている。
 バル・ブローニングらの来日も病身の南部麒次郎が要請したものだったのである。もっともバル個人だけならばともかくFN社のスタッフまで来日したのは、ベルギー政府との何らかの取引があったのではないかと考えられている。
 いずれにせよバル・ブローニングとFN社のスタッフが参画した南部工業開発陣は、今までの計画遅延が嘘であったかのような速さで9ミリパラベラム弾を使用する大型拳銃を設計、試作し技術本部の審査にまわされた。
 この迅速な設計の陰には、すでにFN社で生産ラインの開発という段階まで進んでいたジョン・M・ブローニングの遺作となったハイパワーの設計を大分流用していたという事情があった。
 実際、1935年に制式採用された九五式拳銃は、後にシングルアクションオートマチック機構の完成形とまで言われることになるハイパワーとほぼ同じ機構を採用していた。つまりティルトバレルによるショートリコイル、露出したハンマーなどである。これもブローニングを尊敬していた南部麒次郎の意向によるものだといわれている。
 いずれにせよ九五式拳銃は、南部らしきデザインを持ちながらもブローニングハイパワーの兄弟分とも言える拳銃となったのである。ハイパワーとの機構上の差異は、手の小さい日本人でも握りやすいように細く長いグリップを採用したことでダブルカーラムとすることが出来なかったぐらいである。

 制式採用された九五式拳銃は戦車兵、航空機搭乗員、将校らの護身用拳銃として配布されたほか、一部特殊部隊向けとして減音器(サウンドサプレッサーまたはサイレンサー)が取り付けられる九五式拳銃特型が生産された。
 九五式の軍用拳銃としての寿命は長く、第二次欧州大戦時は勿論、対米戦後も長く陸海空日本軍で使用された。またグリップが小柄な日本人向けに作られていたことからアジア圏への販売も好調で大量に輸出された。







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