五二式重爆撃機/ホーカー・シドレー ヴィンディケイター




五二式重爆撃機原型機


五二式重爆撃機試作機(空中指揮官機改造型)


五二式重爆撃機試作機(電子戦機改造型)


ホーカー・シドレー ヴィンディケイター


五二式重爆撃機一型


五二式重爆撃機空中哨戒機仕様



<要目>
全幅63m 全長49m 自重60トン 乗員8名 武装20ミリ連装機銃×3、20ミリ4連装機銃×1 エンジン出力25kN×6 最大速度700km/h 航続距離5,000km(原型機)

 第二次欧州大戦終結直後に陸軍航空隊と海軍の基地航空隊を統合して誕生した日本帝国空軍の主力爆撃機は、ターボファンエンジンを搭載した四五式爆撃機天河が採用されていた。中島飛行機が製造を請け負っていた四五式爆撃機は、その原型をたどると海軍航空技術廠で設計が行われていた15試陸上爆撃機仮称銀河であり、開発当時の昭和一五年時点における最新鋭の技術が注ぎ込まれていたものの、純正ジェットエンジン機として見ると機体構造の旧式化は否めなかった。そもそも日本空軍としては四五式爆撃機は創設期の繋ぎの機体として考えられており、戦後早々に英EE社と三菱重工で共同開発が進められていた後の五一式爆撃機こそ本命として期待されていた。
 こうした流れに危機感を抱いていたのは、三菱重工と並ぶ日本帝国の二大航空機メーカーとされていた中島飛行機だったが、その危機感の原因は単に四五式爆撃機後継機のシェアを三菱重工に奪われることだけではなかった。中島飛行機が期待していたのは四五式爆撃機ではなく、より大型の一式重爆撃機の後継機開発だったのである。

 実は、中島飛行機では一式重爆撃機の採用直後から、工業力に優れる米国を仮想敵とした場合に直接米本土を空襲できる長距離重爆撃機の開発が必要であるとして大型爆撃機の素案を空軍創設以前より航空関係者に提示していたが、これは国家戦略上の提言であるとともに中島飛行機の経営上からも必要不可欠な計画と考えられていた。
 中島飛行機が望んでいたのは大型航空機の製造技術を発展維持することだった。戦時中に急速に発展した航空技術は、戦後世界において更に拡大するものと考えられていたのだが、開戦前から開発が進められていた一式重爆撃機では改良を進めたとしても発展性に限界があると考えられていたのである。
 実際、一式重爆撃機は自衛火力と高高度性能を大きく向上させた四型でその性能が頂点に達したものの、同機を原型とした二式貨物輸送機は機体規模ではさほど差はなかったものの、使い勝手や運用性などで川崎航空機と川西航空機が共同開発した四三式貨物輸送機に劣ると考えられていた。
 三菱重工と中島飛行機は、戦時中の航空機生産数では他の中小メーカーを大きく引き離していたが、平時における利益率を考慮すると民間機転用を視野に入れた大型機製造技術は必要不可欠だったのだ。

 だが、中島飛行機が提案した大型爆撃機の性能は空軍が爆撃機に対して要求する構想に全く合致していなかった。陸軍航空隊と海軍基地隊を母体とする空軍の爆撃隊は、ソ連軍航空基地を直接襲撃する航空撃滅戦と、襲来する米艦隊に対する対艦攻撃を主な任務とされていたが、そのどちらも搭載量が大きくとも鈍重な大型爆撃機ではなく、ジェットエンジンで高速した双発爆撃機が最適と考えられていたからだ。
 また主に英国空軍によって行われていた戦時中のドイツに対する戦略爆撃の情報を収集していた企画院による分析によれば、前線後方の一般市民を目的としたいわゆる恐怖爆撃はドイツ宣伝省による巧みな国内報道によってドイツ市民の敵愾心を煽る結果につながっており、後方生産拠点を破壊する戦略爆撃効果に関しても目標の選定を誤った場合は前線に効果が発揮される迄に時間がかかり戦局に寄与しないとの結果が得られていた。
 ところが中島飛行機が提案した大型爆撃機は、一式重爆撃機をも遥かに上回る超大型機であり、この大型機をまともに飛ばすエンジンの選定も困難だった。暫定的に試作一号機に6基搭載された一式重爆撃機四型が装備したものと同型のブリストル・セントーラスでさえ推力不足であり、中島飛行機では量産の暁にはセントーラスを減速機を介して2台ずつ連結配置して計12基搭載することすら考慮していた。

 空軍ではなく、主に兵部省による航空技術育成という観点から中島飛行機が提案する大型爆撃機の製造予算支出は許可されていたものの、それは大型機製造技術を維持する目的を兼ねた実験機というくくりを超えるものではなく、実際製造された機体はドイツから接収された後退翼やジェットエンジン化などの新技術を反映させるために幾度か大規模な設計変更が行われていた。
 だが、日本空軍での制式採用が望み薄であることを察した中島飛行機は起死回生の策に出ていた。大重量だった初期型核兵器の搭載を前提とした次世代ジェット爆撃機を要求していた英国空軍への売り込みを行っていたのである。中島飛行機の創設者が国会議員であり外交関係に関与していたことと、同社が英ホーカー・シドレー社と技術提携関係にあったことがこの異例となった売り込みを可能とさせていた。
 ホーカー・シドレー社による共同開発機という形になった中島飛行機製の重爆撃機は、同社の名物技術者であるシドニー・カムが関与していなかったことや外国製ということから当初英国空軍省から冷ややかな目で見られていた。また同時期に提示されていた仕様に提出されていたなかでは革新的な技術を投入されていたアブロ社やハンドレイ・ページ社の案が有力候補であり、ヴィッカース社案と共に一式重爆撃機後継機案を原型とするホーカー・シドレー社案は保守的すぎると見なされていた。
 しかも、燃費は良いものの前面投影面積の大きい当時としては高バイパス比のターボファンエンジンを六基も備えた同機はあまりに大きく、航続距離や搭載量でのアドバンテージこそあるものの重量や速度の点で仕様からの逸脱が激しいことも空軍関係者の目を厳しくさせる原因となっていた。

 中島の政治力から英国政治家を動かしたことで空軍省が渋々最終案に残していたホーカー・シドレー社案は、40年代末には意外な理由から急遽最有力候補に上げられていた。シベリアの先端技術開発都市で日英露共同開発されていた核爆弾が安全装置の見直しなどから予想以上に重量が増大する見込みが出てきたことなどが理由だったが、ソ連首都モスクワを狙っていた仕様案の意図に反して対米関係が悪化したことから日英共に米国との戦争を強く想定せざるを得なくなっており、より航続距離の大きな爆撃機を欲したことに加えて、ドイツ及び中国の南北関係、ソ連の軍備増強などが明らかとなったことで先進的なアブロ社、ハンドレイ・ページ社案が実用化されるよりも早く重爆撃機を求める声に抗しきれなかったためだろう。
 結局英国空軍では尾部以外の過剰と見なされた機銃座を廃して英国製ターボジェットエンジンに換装した機体がホーカー・シドレー、ヴィンディケイターとして採用されており、これを受けて勢いづいた中島飛行機では日本国内でも売り込みを強めていた。このときの日本空軍向け最終案は、初期案を後退翼とした実験機を原型としており、尾部の四連装機銃座を含む機銃座は一式重爆撃機四型同様に20ミリ機銃に統一されており、さらに機銃座は電探照準によって無人化されていた。胴体機銃座と射撃機会の多い尾部機銃座は独立したシステムが構築されていたのだが、尾部機銃座に装備を絞った英国仕様では電探照準の故障を嫌って機銃座は有人仕様とされており、与圧機構も独立していたことから銃手は予備酸素ボンベなどの装備品が他の乗員よりも明らかに多かった。
 対米戦の勃発を受けて日本空軍で五二式重爆撃機として制式化された型式では操縦士や爆撃手などの空中勤務者は銃手を含めて胴体前方の与圧区画に集中配置されており、高高度飛行に備えていた。
 結局開戦には間に合わなった五二式重爆撃機だったが、実際には前述の通り実験機として開戦前から試験飛行を繰り返しており、特別仕様機として実戦に参加するという異例の初陣を飾っていた。


 


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