五一式爆撃機/イングリッシュ・エレクトリック キャンベラJ型




五一式爆撃機


五一式爆撃機(後期型)


<要目>
全幅19.5m 全長19.9m 自重12.0トン 乗員3名(後期型では2名) 20ミリ機関砲×4(襲撃機型) エンジン出力32kN×2 最大速度920km/h 航続距離2,100km


 日本空軍初の実用ジェット爆撃機となった四五式爆撃機は、元を辿ると第二次欧州大戦開戦前に一式陸上攻撃機の後継となる事を狙って計画されていた15試陸上爆撃機を原型としたものだった。計画当初から最新技術を惜しみなく投入されていた15試陸爆は日本海軍の戦術見直しなどによって陸上爆撃機としては採用されなかったものの、エンジン試験機として転用されていたことから四三式夜間戦闘機極光や四五式爆撃機の母体として派生形ばかりが活躍することとなっていたのである。
 しかしながら、1940年代後半のジェットエンジン機としては離陸時にジェット噴流が地面に向いてしまうことから効率が悪い尾輪式であることや機体構造の旧式化は否めなくなっており、後継機の投入が早いうちから求められていた。
 それ以前から英国空軍では傑作多用機であるモスキートの後継となりうるジェット高速爆撃機を要求しており、この要求性能は概ね日本空軍の求める対艦、対地陸上攻撃機と合致していた。
 また日英間の同盟関係を重視する政治的な動きもあり、四五式爆撃機の後継は英国イングリッシュ・エレクトリック社が契約していた後のキャンベラを原型とする事が40年代後半に早々と決定されていた。形式上は日英共同開発であったものの実質上は先行していたキャンベラの一部を独自仕様に改めたのみとなるはずだった。

 しかし、40年代後半はこのジェット高速爆撃機計画を巡る情勢は大きく変化していた。英空軍の場合は爆撃隊の主力は大重量の核爆弾搭載を考慮して進められていた大型重爆撃機と考えられていたのだが、日本空軍が想定する戦場は日本近海に来襲する敵艦隊への攻撃及びシベリアーロシア帝国、ソ連国境線における阻止爆撃、航空撃滅戦と考えられており、これには高速軽爆撃機である本機が必要不可欠だったのである。
 結果的に紆余曲折はありながらも日米関係の悪化などの国際情勢から開発促進が図られた日本空軍仕様は英国空軍仕様にやや遅れる程度で進空しており、初期型は当初計画されていたレーダー照準装置などを省いて目視照準を行う爆撃手席を追加したことから四五式爆撃機の近代化とも言うべき姿で誕生していた。
 なお五一式爆撃機は細かな艤装を除くと純正のキャンベラに搭載されていたターボジェットエンジンからフロントファンが組み込まれたターボファンエンジンに換装されているという大きな変更点があった。キャンベラの主翼は、中翼部に埋め込まれた細いターボジェットエンジンの排気管と半ば一体化した主桁構造をとっており、太いターボファンエンジンの搭載はエンジンナセル周辺の構造で大きな設計変更が加えられていた。
 E.E.社のペッター設計主任は当初政治的な理由で決まっていた共同開発案件に対しては無関心で、情報はE.E.社から三菱に一方通行で流れていたようなものだったのだが、ペッター設計主任に無断で行われたこのターボファンエンジン搭載に伴う主翼構造の変更を知ると一転して自分が考えていた理想形から大きく離れるこの設計変更を認めないと強弁するようになった。
 結局この設計変更はペッター設計主任と三菱設計陣の間に大戦中日本に招かれていた英国エンジン技術者のホイットルと中島知久平が入って説得を行って事なきを得ている。本来E.E.社(及びこれを吸収したブリティッシュ・エアクラフト・コーポレーション (BAC)と三菱はロシア帝国のスホーイ社、イタリア王国のフィアット社と国際連盟陣営内の企業連合を形成しており、キャンベラ/五一式爆撃機もこの4社で生産が行われていたのだが、キャンベラの初飛行後にE.E.社を退社したペッター設計主任は中島飛行機と企業連合を組むホーカー・シドレーグループ内のフォーランド社に転職している。


 


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