五一式艦上戦闘機






<要目>
全幅12.5m 全長12.7m 自重5.2トン 乗員2名 武装20ミリ機関砲×4、対空誘導弾 エンジン出力25kN×2 最大速度1100km/h 航続距離2,000km


 日本海軍、空軍初の実用ジェット戦闘機となった四六式戦闘機震電は、元々は特殊なエンテ方式を採用した高速戦闘機の実験機として日本海軍の航空機研究機関である空技廠の全面協力のもとで九州飛行機で開発されていたものだった。
 紆余曲折を経て海空両軍の主力戦闘機となった震電だったが、その開発会社であった九州飛行機は不遇をかこつっていた。元々が少数生産の実験機として中小航空会社であった九州飛行機に発注されていたために、制式化がされた時点で製造体制が貧弱な同社から本格生産は海、空軍分がそれぞれ三菱重工と中島飛行機に移行されてしまったためである。
 この措置は九州飛行機の技術陣にとって航空行政を担当する兵部省航空本部などへの遺恨を残す結果となったが、同社には震電開発時に得られたノウハウが残されており、また同機開発時に関係のあった空技廠関係者の協力もあって独自に震電の発展機となる実験機の開発に乗り出していた。
 これには海軍航空本部と陸軍航空総監部の航空行政機能を集約する形で誕生した兵部省航空本部内における海空軍出身者の勢力争いも作用していたものと思われる。

 実験機は震電の大型化というスタイルをとっていた。実働部隊である連合艦隊との距離が近い空技廠では、初期のジェットエンジンが信頼性が低いこともあって艦載戦闘機には双発が望ましいと考える一派があり、同時期に開発が進められていた三菱純正のジェット艦上戦闘機となる四九式艦上戦闘機では高速性能を狙って単発機を指示したものの、実験機で双発化を試したのだろう。
 レシプロ機ではプロペラ回転半径などの制限もあって双発機ではエンジンを離して配置せざるを得ず、櫛形配置のような変速的なものを除けばロール率の低い鈍重な機体となってしまうのだが、九州飛行機の実験機は震電の発展形であるがために両エンジンを中央に寄せており、センター部分には後方警戒レーダーなどが配置されたものの極薄いものでしかなく、正面投影面積は単発機と比べてさほど肥大しなかった。

 だが、震電の基本設計データを元に双発化したために重量重心が後方に寄ってしまったことは否めず、操縦席はバランスを取って前方に移行しており、また機体重量が増した為に主翼前縁が伸ばされた結果、震電のようなエンテ方式というよりも実験機の翼面はカナード付きデルタ翼に近いものになっていた。一方で垂直尾翼は左右主翼中央に振り分けて配置されていたが、これは震電開発当初のスタイルに戻されたとも言えただろう。なお後に本格的に艦載機としての改設計が行われた際に垂直尾翼より外翼には折りたたみ機構が追加されていた。
 震電に搭載されたターボファンエンジンを2基搭載した効果は大きく、余剰エンジン出力と主翼面積の増大によって搭載量は大きかった。その結果当時の戦闘機が要求されていた以上の電子兵装や初期の対空誘導弾とこれを操作する同乗者を乗せるスペースが確保されており、実験機は双発複座戦闘機というスタイルで誕生していた。

 対米戦に前後して就役した実験機は、やはり震電の時の様に紆余曲折を経て制式化されることとなったが、今度は九州飛行機関係者が不遇を嘆くことはなかった。制式化当初は得意な航空戦艦尾張向けの限定生産であったために九州飛行機での製造が認められていたし、尾張艦載機としての活躍が評価されて後に発展形が空母艦載機としても採用される頃には、九州飛行機の技術力を評価していた中島飛行機創設者の強い要望で親会社である渡辺鉄工所からの買収と言う形で中島飛行機九州工場として再スタートしていたからである。
 以後どちらかというと堅実な設計の多い中島飛行機において、同社九州工場は特異な形状の機体でも意欲的に送り出す存在として知られるようになっていった。


 


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