四四式特殊戦闘機




四四式特殊戦闘機


<要目>
全幅13.5m 全長11.5m 自重4.5トン 乗員1名 武装20ミリ機関砲×4(翼内×4) エンジン出力1580hp×2 最大速度780km/h 航続距離1,000km


 第二次欧州大戦中盤、本格化する日英両国の重爆撃機隊によるドイツ及びその占領下の欧州各国への空爆は、ドイツ空軍が重層的に配置した迎撃網との一大消耗戦の体をなしていた。
 防御機銃座の充実した重爆撃機隊の損害を増大させていたのは、重爆撃機の全行程に随伴可能な護衛機を欠いたのが原因だった。英国本国から出撃する当時の主力戦闘機であるスピットファイアや三式戦闘機では、欧州大陸の入り口までしか援護を行うことができなかったのだ。
 このような状況に対して、日本陸軍は国内航空各社の競合試作の形で長距離援護用の双発戦闘機の開発を行っていた。

 開戦前、列強各国は双発戦闘機の開発に熱心であったが、当時のそれは軍事予算が削減される中で万能性を突き詰めた、戦闘機以外の軽爆撃機や偵察機といった異機種を一機種で兼ねて予算を圧縮しようという総花的である意味で妥協の産物でしかなかった。
 結局、就役した当時の他座戦闘機の多くは中途半端な性能しか持たない、万能機というよりも高級雑用機になってしまっていた。日本陸軍でも二式複座戦闘機を制式化していたが、もともと戦闘機として開発されていたこともあって、比較的機動性は高いものの単座戦闘機と張り合えるようなものではなく、実際には夜間戦闘機原型や襲撃機として運用されていた。
 このときの競合試作はこのような経緯を踏まえたものであり、各社に出された要求はまず長距離戦闘機として成立させるものであった。
 競合試作に対して実機の制作までこぎつけたのは三菱及び川崎の二社だった。三菱で試作が行われたのは後に制式化されたキ83で、双発複座ではあるものの、速度性能を重要視して後席はオプション扱いで普段は単座機として運用されるものだった。
 これに対して、もう一社の川崎航空機では同時に二機種を投入していた。一方はキ83と同じく双発単座ではあったものの、機体構造は二式複座戦闘機を踏襲したキ96だった。
 エンジンはマーリン45から66に換装されていたことで全開高度も出力も向上していたため、機体性能は上がっていたが劇的なものでは無かった。
 ただし、キ96は二式複座戦闘機の生産ラインを流用できるという利点もあったため、最終的には既存機の派生型扱いとして制式化されていた。

 だが、川崎航空機が提出したもう一方の機体は、双発単座ではあったもののオーソドックスな両翼中央にエンジンナセルを配置した型式ではなく、操縦席前後にエンジンを搭載した串型配列のキ64だった。
 そのキ番号が示すように、陸軍から試作が認可されたのは両機よりも古く、三式戦闘機の原型であるキ60とそれほど離れたものではなかった。ただし、認可された当時はあくまでも概念研究段階でしか無かったようである。

 大雑把に言えば、キ64の機体構造は三式戦闘機の前半部分とその派生型である三式襲撃機をつなぎ合わせたようなものだった。
 単発単座で機首に水冷エンジンを搭載した三式戦闘機に対して、三式襲撃機は操縦席直後の機体中央にエンジンを配置しており、延長軸とギアボックスを繋げて機首のプロペラ軸を回していた。
 三式襲撃機のプロペラ軸は中空となっており、そこに機首部分に搭載した大口径機関砲の砲身を通していたのだが、キ64では機関砲の代わりにもう1基のエンジンを搭載して串形配列としていたのである。

 もともと三式襲撃機の開発自体がキ64からの派生ということもあって、試作機の開発は概ね順調に進んでいた。搭載されたエンジンは当時三式戦闘機一型乙に搭載されていたものと同じマーリン66が採用されていた。
 最も問題となったのはこの2基のマーリンを十分に冷却させることであり、当初は効率を重視して主翼を利用した蒸気冷却装置とされていたのだが、実用性などを考慮して最終的には胴体下部、及び両翼下部の3箇所にわけて通常の冷却器が装備されていた。
 この冷却器の追加装備などによって主翼は左右に延長されており、翼内装備の機関砲は20ミリに統一されて計4門となっていたが、三式戦闘機でも後期に生産された型式では20ミリ4門としているものもあり、武装面での優劣はほぼ存在していないと考えてよかっただろう。

 完成したキ64は陸軍の審査を受けたものの、その評価は極端だった。
 戦闘機の教育、研究機関である明野学校などでは、2基のエンジンの大出力を推進力に効率よく変換するために採用された二重反転プロペラによって前方視界が暗くなることを除けば、概ね高い評価を下していた。
 双発機でありながらも、重量物が胴体内に収まっていることから横転率などは単発戦闘機と同様であり、重量分もエンジン出力分で相殺されることから、機動性に関しても単発機同様、それでいて速力は空気抵抗の低さなどから通常の双発機すら超えるものだった。
 また、当時の単発戦闘機はエンジンの大出力化によって増大するプロペラトルクの問題があり、これを二重反転プロペラで打ち消すキ64は、慣れれば意外なほど操縦しやすい機体であったようである。

 このように実運用を行う部隊に近いところからは高い評価を受けたものの、航空本部などでは低い評価を下すものも少なくなかった。
 キ64の20ミリ4門という火力は、当時の戦闘機としては標準といったレベルにはあったものの、他のオーソドックスな配置の双発機のように機首に集中配置して精度を高めたり、大口径機関砲を搭載することは配置上不可能だった。
 しかも、エンジン出力には余裕があるものの、キ64は爆弾などの機外搭載も難しかった。機体下部、内翼部共に冷却器で埋め尽くされていたからである。外翼部には三式襲撃機同様にレール式の噴進弾架台を搭載できたものの、これも単発機と同程度でしかなかった。
 最大の問題は、航続距離が競合試作において陸軍から提示された数値を下回ることだった。燃料槽を増やそうにも胴体内部はエンジンや各種補機で埋め尽くされていたし、翼内も機関砲と既存燃料槽で一杯の状態だった。
 一応は三式戦闘機や三式襲撃機と共用形状の両翼に搭載する増槽も用意されていたものの、両翼に重量物が搭載された場合はそもそも機動に制限が大きいために実質的にフェリー用、あるいは侵攻時の片道でしか利用できないものだった。

 このように極端な評価がくだされたものの、キ64が戦闘機として強力であるということは間違いなかった。ただし、形状がどうであれ双発機であるのも事実であり、三式戦闘機を装備していた部隊にそのまま配備が進められた場合整備能力が飽和を起こすのも確実だった。
 結局、日本陸軍はキ64を四四式として制式採用したものの、装備部隊の編成を考慮して特殊戦闘機と言う曖昧な機種名を新たに設けていた。
 就役した四四式特殊戦闘機は、三式戦闘機に因んで非公式ながら飛燕改の愛称がつけられていた。もっとも、飛燕改を装備した部隊は、整備部隊の増員に加えて双発機ゆえのコスト増もあって少数に留まっていた。
 また、戦時中には、英国の企業が画期的な強化紙製の軽量大容量増槽の開発に成功しており、単発機であっても大陸深部まで侵攻可能となったことから、双発の長距離戦闘機の需要も減少していた。


 


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