四四式戦闘機




四四式戦闘機一型(キ84)


四四式戦闘機二型(キ87)


<要目>
全幅11m 全長9.92m 自重3.2トン 乗員1名 武装20ミリ機関砲×4(翼内×4) エンジン出力2,400hp×1 最大速度710km/h 航続距離1,400km 一型(キ84)
全幅14m 全長9.92m 自重3.9トン 乗員1名 武装20ミリ機関砲×4(翼内×4) エンジン出力2,400hp×1 最大速度700km/h 航続距離1,300km 二型(キ87)


 第二次欧州大戦直前、日本陸軍の単座戦闘機は大出力エンジンの搭載によって万能機を目指した重戦闘機と、兵装を小口径の機関銃に抑えることで軽量級エンジンでも機動性を高めた軽戦闘機の2種類に類別されていた。
 日本帝国の航空産業の中で三菱飛行機と勢力を競っていた大手である中島飛行機は、二式戦闘機、一式戦闘機の2機種の制式化にこぎつけたが、軽戦闘機である一式戦闘機こそ大量発注がなされたものの、本来本命の重戦闘機である二式戦闘機は実質的に迎撃戦闘機として認識されており、戦況の推移から生産数は伸び悩んでいた。
 これは中島飛行機が戦闘機の仕様を定めた兵器研究方針の改定内容を見誤ったのが原因だと思われていた。陸軍航空本部の方針としては軽戦闘機は対戦闘機戦闘に用途を絞って軽武装に止めて安価に取得可能としたものであり、重戦闘機は大出力エンジンや機関砲を搭載してその枷を外した高価な万能機というものであったのだが、当時はこうした方針は製作業者に明示されるものではなく、開示された性能を読み取った中島飛行機では重戦闘機を迎撃機であると解釈してしまっていたのである。
 制式化された二式戦闘機は、上昇能力には優れていた一方で、翼面荷重は高く横方向の機動性には劣っており、また同時期に川崎航空機が同社製九八式戦闘機の後継として開発していた水冷エンジン搭載機である三式戦闘機が高い性能を示したことから、陸軍の主力とは認められなかった。

 二式戦闘機は以上のように性能に不満はあったものの陸軍は建前上同機の発展形となる重戦闘機の開発を命じていた。この時点で陸軍航空隊の一部は海軍基地航空隊の一部との合流、すなわち空軍化を目指しており、海軍の主力戦闘機を担当する三菱飛行機に並んで、航空機の生産能力に優れる上に政治力に長けた中島飛行機を抱き込もうと期待していたのである。
 しかし、当時の中島飛行機にはある弱点があった。同社は機体開発部門に関しては多層的な技術陣を抱えて開発能力には不足していなかった一方で、エンジン開発に関しては基本計画者に対して現物の詳細設計を行う技術者が不足しており、同時並行で進められていた自社製エンジンの開発に関して絞り込みを陸軍航空本部から求められていた。
 そこで中島飛行機では後に一式戦闘機三型に搭載される誉エンジンの開発に自社開発陣を集中させる一方で、二式戦闘機の後継機となる開発中の重戦闘機には、技術者の疎開を含む技術提携を行っていた英国ブリストル社製のセントーラスエンジンをライセンス生産して搭載することを陸軍側に提案して認可されていた。
 中島飛行機は、海軍の一式陸上攻撃機の後継として開発が進められていたものの、同機の被害が続出していたことから計画そのものが見直しされていた15試陸上攻撃機をセントーラスエンジンの試験機として転用していた。こうしたテストベットの採用もあって、四四式戦闘機として制式化されたキ84の開発は順調に進められていた。

 四四式戦闘機の搭載したセントーラスエンジンは2千馬力を超える大出力を安定して発揮できるものであり、また戦時中に得られた知見を生かしてエンジンカウリングなどの艤装方式も従来機から進歩していた。エンジン出力の高さから搭載量も十分に確保されており、20ミリ機関砲4門に加えて爆装も可能であり、対重爆撃機用として第二次欧州大戦後半に実用化された対空噴進弾を搭載することも多かった。
 オーソドックスな空冷エンジン搭載戦闘機として開発された四四式戦闘機は、戦訓を取り入れつつ大戦中盤以降に実用化されただけあって高い性能を発揮しており、生産性にも考慮したものだった。実際工数で言えば実質的な主力戦闘機であった三式戦闘機を下回っており、仮に大戦が続いていればこれに代わる主力機として大々的な生産が行われていた可能性は少なくなかった。

 概ね陸軍を満足させた四四式戦闘機であったが、大戦終結の目処が見えてきたことが同機の未来に暗い影を落としていた。あるいは四四式戦闘機が突出した性能を有していれば戦局の推移に関係なく発注も行われていたかもしれないかったが、実際には同機の性能は三式戦闘機でも達成可能ではないかと考えられていた。
 確かに四四式戦闘機は高い性能を見せていたが、川崎航空機関係者が当初期待していたとおりに三式戦闘機は大出力化したエンジンへの換装や兵装の強化によって逐次高性能化が図られており、四四式戦闘機が実用化される時期にはグリフォンエンジンに換装した三式戦闘機二型が登場していた。同機はマーリンエンジン搭載機に比べて航続距離には劣るものの、最高速度ではすでに四四式戦闘機に匹敵していた。

 また、四四式戦闘機のライバルは社外だけではなかった。本来は対戦闘機性能に機能を絞った安価な軽戦闘機として開発されたはずの一式戦闘機であったが、戦闘機に関する教育と研究を担当する明野飛行学校からの意見を取り入れて機動性と火力の向上を図っていった結果、機関砲を装備するなど軽戦闘機枠に留まらない性能を持つようになっていた。
 特に一式戦闘機三型は2千馬力弱に達するエンジンへの換装と20ミリという大口径機関砲の装備によって対戦闘機戦闘に限れば四四式戦闘機に匹敵するという評もあった。装備された機関砲は、一式戦闘機の機首に収まる様に小型化されたものであったために初速や貫通力に劣っていたのだが、散布界の拡大しがちな翼内ではなく弾道の安定する機首配置としたことや、これまで一式戦闘機に搭乗していた熟練操縦員が乗り込んでいたことなどから機種転換した部隊の戦果は大きかったのである。
 また、一式戦闘機三型では高性能の代わりに操縦が難しく高価となってしまっていたが、二型までは安価で操縦性もよく国際連盟軍に参加する諸外国軍に多数が供与されていた。
 ただし、この高い評価は一式戦闘機の性能だけが判断基準とは言えなかった。陸軍関係者の中には、ロールス・ロイス・マーリン、グリフォンエンジンを搭載した三式戦闘機に加えて、四四式戦闘機がブリストル・セントーラスエンジンを搭載するようになれば、主力戦闘機の大半がライセンス生産とはいえ外国製エンジン搭載機となることに懸念を抱くものもいたのである。
 一式戦闘機は何れの型式でも日本製のエンジンを搭載しており、純粋な国産機として評価する声もあったのだ。

 このような動きに対して、陸軍航空本部や中島飛行機の関係者は四四式戦闘機に排気過給器を搭載した派生型の開発を提案していた。これにより高高度飛行能力を向上させようとしていたのである。この派生型の開発は、当初は排気路を最短とするために機首側面に過給器を配置する案も検討されたものの、過給器に流入する排気ガスが高温となり過ぎるために機体下部に設置箇所を変更されている。
 また、この時期に排気過給器の搭載に加えて主翼幅の拡大など意外なほど原型機からの変更点が増えた為か、四四式戦闘機二型と呼称された機体のキ番号は原型機のキ84からキ87に変更されていた。

 四四式戦闘機二型、キ87が制式化された時には既に対独戦は終結していた。一式戦闘機の後継機として一定の需要はあったものの、結局四四式戦闘機の生産数は大戦中に活躍した一式戦闘機や三式戦闘機と比べると少なかった。
 もっとも、中島飛行機の関係者の間でも落胆する声は小さかった。すでにこの時期は航空機製造業者を含めて航空関係者の多くの関心は新機軸であるジェットエンジンに移っていたのである。


 


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