四八式装甲運搬車ファミリー




四八式装甲運搬車



四八式装甲兵車



四八式自走砲



四九式自走砲



四九式軽戦車



四九式対空戦車



四九式装甲兵車



五〇式自走高射砲



<要目>
重量14.5トン、全長5.5m、エンジン出力240hp、乗員2名、装甲厚20ミリ(最大)、武装なし、最高速度50km/h(四八式装甲運搬車)
重量15.5トン、全長5.3m、エンジン出力240hp、乗員2+10名、装甲厚20ミリ(最大)、武装なし(随時車長席展望塔に重機関銃取付)、最高速度50km/h(四八式装甲兵車)
重量16.5トン、全長5.3m、エンジン出力240hp、乗員5名、装甲厚20ミリ(最大)、武装20口径10.5センチ砲×1、最高速度45km/h(四八式自走砲)
重量18.2トン、全長5.3m、エンジン出力240hp、乗員5名、装甲厚20ミリ(最大)、武装23.6口径14.91センチ砲×1、最高速度40km/h(四九式自走砲)
重量17.5トン、全長5.3m、エンジン出力240hp、乗員4名、装甲厚40ミリ(最大)、武装38口径7.5センチ砲×1、7.7ミリ機関銃×1(主砲同軸)、最高速度45km/h(四九式軽戦車)
重量16.3トン、全長5.3m、エンジン出力240hp、乗員5名、装甲厚20ミリ(最大)、武装60口径4センチ高射機関砲×2、最高速度45km/h(四九式対空戦車)
重量16.1トン、全長5.3m、エンジン出力240hp、乗員3+8名、装甲厚20ミリ(最大)、武装2センチ機関砲×1、7.7ミリ機関銃×1、最高速度48km/h(四九式装甲兵車)
重量20.2トン、全長5.3m、エンジン出力240hp、乗員6名、装甲厚20ミリ(最大)、武装65口径7.6センチ砲×1、最高速度35km/h(五〇式自走高射砲)

 第二次欧州大戦においてドイツ製の各種装甲車両を入手した日本陸軍技術本部は、技術調査の過程で開発段階で中断されていた3/4号戦車に注目していた。
 前線で脅威と思われていた重戦車群は実際に調査した所、技術的に無理をした代物で稼働率は低く、高価で生産数も少なかった。そうした個々の車両としては強力でも全体としてみると大した脅威ではない重戦車と比べると、本来旧式化した3,4号戦車の統一を図るべく開発されていた3/4号戦車は地味ながら重要な車輌だった。
 戦車仕様としては世に出なかったものの、エンジンや変速装置を前方に集中させて後部に空間をもたせた車台は自走化された重対戦車砲や榴弾砲の母体として活用されており、それでいて各部の部品は従来品を最大限利用して生産性を高めたものだった。

 日本軍の技術者達が実際に注目したのはドイツ軍の重対戦車砲や榴弾砲そのものではなく、車体共有化という思想そのものだった。戦時中に自らが無造作に製造していた各種装軌車両の共有化を図るべきではないかと考えられていたのだ。
 戦時中の日本軍は10.5センチ榴弾砲を装備した一式自走砲、15センチ榴弾砲を装備した三式自走砲に加えて完全装軌式の一式装甲兵車から派生した各種車両を装備していたが、これらは別個に開発されたものであり部品共通性を欠いており、戦後の軍縮体制の中では整備用部品の調達などに問題を抱えていた。
 特に足回りに関しては、自走砲がそれぞれ一世代前の旧式化した戦車の車台を流用した事もあって、部品共通性以前に設計思想が旧式化しており、これを戦時中に実用化されていたトーションバー方式を装備する車体に共通化させることで整備費用の圧縮を図るというのが陸軍技術本部の目論見であった。

 この共通化車台として最初に開発されたのが四八式装甲運搬車だった。これは装甲運搬車仕様の一式装甲兵車二型の後継車輌という位置づけではあったものの、一式装甲兵車二型の配備先が一部機甲化師団の輜重兵連隊などに限られていたことに加えて、この時期には大型の装輪車両でも路外走行性能を向上させていたために装甲運搬車を高価な装軌車輌とする必要性が薄くなっていた。
 また損耗の少ない装甲運搬車仕様は想定される耐用年数も長いことから後継車輌としての生産は細々としたものであり、実質的には共有車体の原型として開発されたものだった。

 各車体に共通の足回りはトーションバー方式の大口径転輪を有しており、後部にやはり大口径の誘導輪と上部に補助転輪を備えていた。車体前方は起動輪と変速装置が収められており、変速装置後部は車体左側にエンジン、右側に操縦席という配置が取られていた。
 操縦席は四五式戦車と同様にペリスコープ式の外部視認装置が備えられていたが、比較的安全な後方での運用を前提とする四八式装甲運搬車ではペリスコープが備えられた操縦士扉を取り外して大型の風防を被せて運用されるケースの方が多かった。
 エンジン、操縦席の後方は広大な貨物室となっていたが、装甲運搬車仕様では貨物を囲う幌以外に装備品が無い一方で、重量物の機関関係が車体前方に集中しているものだから、貨物室を空にすると返って操縦が難しくなると言われていた。

 四八式装甲兵車は一般的な装軌式の装甲兵車として開発された車輌であり、一式装甲兵車一型及び一式半装軌装甲兵車の後継として想定されていた。車体後部はより高価な歩兵戦闘車仕様の一式装甲兵車三型に類似した乗車戦闘を想定した小窓が設けられたものであり、重武装の歩兵一個分隊を収容出来るものだった。
 性能面では概ね満足行くものであった一方で、安価であった一式半装軌装甲兵車を完全に代替させるのは難しく、対米戦勃発までは一部装備優良の機動歩兵連隊に配備先が限られていた。

 四八式自走砲は10.5センチ榴弾砲を装備した一式自走砲の後継車輌であったが、九七式中戦車を原型とした一式自走砲と比べて装甲は薄いものの車体容積は増大していた。
 その特徴は車体に対して砲架半固定式だった一式自走砲とは異なり、車体後部にある広大な空間を利用して全周旋回可能な砲塔内に主砲を収めたことにあった。
 これは腰を据えた砲撃戦を行った場合は容易に対砲撃射撃を受けるという各種観測機材の充実がもたらした第二次欧州大戦の戦訓を反映したものであり、固定式の自走砲に比べて即応性が向上していた。
 上部、後部に大型扉を設けた砲塔は榴弾破片対応程度の薄いものであったが、戦車などと比べても大型で装砲の容易さを重視したものであった。
 なお、砲塔を有する自走砲仕様では車体高さを抑える必要性があったことから操縦席と機関室高さが抑えられており、その分の補機が中央部分に移っている他に排気管も車体後部に移設されていた。これは前述の理由に加えて歩兵を乗り入れさせる装甲兵車仕様とは異なり、自走砲では車体後部にハッチを必要としないためでもあった。
 四八式自走砲は一式自走砲の車体が旧式化していたこともあって、搭載砲が変わらないにも関わらず入れ替えは急速に進んでおり、対米戦開戦時には機動砲兵部隊の装備転換はほぼ完了した状態であった。

 10.5センチ榴弾砲を自走砲化した一式自走砲の後継となる四八式自走砲と同時に、師団砲兵連隊の主力となっていた15センチ榴弾砲を自走化させた三式自走砲の後継車両も開発計画が進められていたのだが、こちらは開発方針が二転三転していた。当初は四八式自走砲同様に全周旋回可能な砲塔方式となる予定だったのだが、15センチ級の榴弾砲を全周旋回砲塔とするには砲塔重量が課題となり、天蓋を省いた露砲塔形式や限定旋回砲塔とすることも考慮されたのだが、四八式装甲運搬車を原型とする限りは車幅に限界があるために砲塔バーベットを大口径砲の操砲に必要な直径にすることが出来なかったこともあり、最終的に三式自走砲同様に車体後部に固定式戦闘室を設ける形になっていた。
 三式自走砲では戦闘室天蓋は開放式となっていたのだが、四九式自走砲では換気等のために扉が設けられていたものの、対砲撃戦闘時に発生する砲弾断片対策として軽易ながら装甲天蓋が設けられていた。
 設計変更による計画遅延によって制式化が遅れていた四九式自走砲だったが、それを除いても四八式自走砲よりも配備は遅々として進まず、実質的に三式自走砲の損失分が僅かに生産されている程度に留まっていた。
 旧式化した九七式中戦車を原型としていた一式自走砲と比べると、三式自走砲の原型となっていた一式中戦車は75ミリ野砲を搭載した乙型が輸出用に生産されていた事もあって予備部品などが比較的入手しやすい状況あった。これもあって砲兵科としても後継車両取得に熱心ではなかったということもあったが、実際には砲兵科の主流は四九式自走砲の開発途中から長砲身15センチ砲搭載型で全周旋回可能な砲塔を備える大型自走砲の導入を目指すようになっており、四九式自走砲はそれまでの繋ぎに過ぎないという側面もあったようである。

 共通プラットフォームを転用して安価に戦車を開発するという四九式軽戦車に繋がる案は早いうちから存在していた。砲塔を有する四八式自走砲を原型として、これに四四式重装甲車用の砲塔を据え付けることで既存の装備によって75ミリ野砲を主砲とする軽戦車が開発されていた。四九式軽戦車は日本陸軍で制式化はされていたものの、配備数は極少数で主に教導戦車隊における仮想敵部隊向けだった。仮想敵部隊では安価ながら装軌式の走破性を有する車両が必要だったからである。
 日本軍の採用は極少数に留まっていたが、元々四九式軽戦車の開発自体が陸軍技術本部よりも製造業者や兵器輸出に関わる商社が主導して行われており、実際には安価な輸出用戦車という立場にあったのである。ところがその輸出実績も芳しいものではなかった。
 最新鋭の四五式戦車の輸出は難しかったが、経済成長著しい満州共和国陸軍などでは本物の戦車である三式中戦車や一式中戦車乙型などが配備されており、逆に予算が乏しい東南アジア諸国の新独立国では装輪式ながらより安価な四四式重装甲車の方が人気があった。
 これらはどちらも同じく七五ミリ野砲を主砲としており、四九式軽戦車でも火力の面では遜色無かったのであるが、日本製兵器の輸出先の中では中途半端な立ち位置にある四九式軽戦車の挟まる余地はなかったのである。

 第二次欧州大戦終盤において、損害の大きい従来の鈍重な急降下爆撃機に代わって爆装した戦闘爆撃機による緩降下爆撃が多用されるようになっていたが、日本陸軍は軽快で防弾装備の充実した戦闘爆撃機に対しては戦訓から従来の20ミリ高射機関砲では荷が重いと考えており、高射砲や初期型の対空誘導弾と近接対空砲火の隙間を埋める、より長射程かつ大威力の野戦防空用の機関砲を求めていた。
 当初は様々な火器が考案されていた。三式襲撃機に搭載されていた37ミリ機関砲や二式対空戦車などでは連装であった20ミリ機関砲の4連装化などの既存火器に加えて、海軍仕様の高射砲の搭載まで考慮されていた。
 陸軍と同様に一撃で頑丈な敵機を撃墜できる能力を近接対空砲に求めた海軍では、多連装25ミリ機銃の実質的な後継装備として装填速度の早い連装76ミリ両用砲を同時期に採用していた。当初はこの中口径高射砲の採用も考慮されていたのだが、海軍艦艇の場合は艦本体から砲塔に十分な動力を供給できたのだが、独立して行動する対空戦車では重量のある高射砲を搭載した砲塔を高速で旋回させるのが難しく、低空を高速で機動する敵機に追随するのは向いていないと判断されていた。
 他の機関砲も一長一短であり、20ミリ機関砲の4連装案は射程で従来同様であり、37ミリ機関砲は三式襲撃機の旧式化に伴って砲弾の生産供給体制が縮小されることから断念されており、結局37ミリ機関砲に代わって国産化を前提に採用されたボフォース社製40ミリ機関砲を連装式で砲塔に搭載する方式が採用された。
 大口径機関砲の銃弾を搭載するために砲塔は二式対空戦車などと比べても大型化していたが、機甲部隊に随伴する野戦防空車両としては搭載機関砲の大口径化を除けば従来の対空戦車と変更点は少なく、高速のジェット機が出現してくるとレーダーと一体化した射撃指揮装置の不在に不満が抱かれるようになっていた。

 20ミリ機関砲を装備した一式装甲兵車三型の後継車両として開発されたのが四九式装甲兵車だったが、その装備には若干の混乱があった。偵察戦車として運用するのであればエリコン20ミリ機関砲よりも大威力の砲を求める声があり、同時期に対空戦車用に採用されていた40ミリ機関砲などがその候補に上がっていたのだが、純粋な歩兵輸送用の装甲車である四八式装甲兵車を原型とする場合は乗員数を確保しながら大重量の兵装を搭載するのは難しく、最終的には従来どおり20ミリ機関砲を小型銃塔に備える形で採用された。
 車長と砲手が乗り込む20ミリ機関砲を搭載した銃塔は、四八式装甲兵車で車長席と展望塔が設けられていた箇所に銃塔リングを開口して搭載しており、銃塔直後の二座席及び側面ハッチは廃止されて兵員搭載数は8名とされているが、師団捜索連隊の装甲車中隊などの偵察部隊や噴進砲装備の各級対戦車隊などでは兵員を定数まで搭載せずその分を装備に回す事が多かった。

 大口径機関砲を装備した四九式対空戦車が主に機甲部隊に随伴していたのに対して、より長射程でレーダー照準式の射撃指揮装置を一体化させたのが五〇式自走高射砲だった。
 短期間の内に高度な射撃指揮能力を有する自走砲が開発出来たのは、砲と射撃管制装置自体を海軍が開発した機材から流用したからだった。その素体となったのは、海軍で従来の多連装25ミリ高射機関砲の代わりに一撃で敵機を撃墜しうる近接火器として開発されていた65口径という長砲身をもつ76ミリ砲だった。なお同砲を海軍では数字を丸めて8センチ砲、陸軍では7.6センチ砲と呼称していた。
 肝心の射撃管制装置もトランジスタを用いた電子計算機を用いた四七式射撃指揮装置を原型としたものだった。四七式射撃指揮装置は戦艦主砲から8センチ砲まであらゆる火器の射撃管制に用いられていたのだが、当然単一の砲しか装備しない自走高射砲では汎用性は必要なかったので計算機能は76ミリ砲に必要なもののみと限定されていた。
 また重量物である高射砲と射撃管制装置を安定して設置するために原型となったのは自走砲の車体ではなく、四八式装甲運搬車から貨物倉部分を取り除いたものだったが、自重はファミリー化された四八式の中でも重量級となっていた。
 しかしながら円錐式走査による搭載レーダーの自動追尾方式とされた射撃指揮装置は陸上用の装備としては極めて高価であり、しかも四七式射撃指揮装置と違って僅か一門の砲しか管制出来ないという根本的な欠点があった。また五〇式自走高射砲は、自走砲とは言いながらも射撃前にはアウトリガーの展張が必要であり、自走機関砲である対空戦車と違って機動性に欠ける為に実質的には移動できる高射砲でしかなく、それであれば自走用に運搬車の車体を用意することもなく牽引車で十分ではないかという批判の声もあった。
 なお円錐式走査は電子的に背景がクリアであることが求められていたため、第二次欧州大戦までの野戦高射砲の重要な任務であった対戦車戦闘が困難という思わぬ欠点も有していた。対地射撃の場合はレーダーによる自動追尾が不可能であるためにバックアップ用の光学照準で行うしかないが、機能面での制限は大きかったのである。
 しかも、自動装填装置に加えて射撃指揮装置と連動した自動信管調定装置が備えられた76ミリ砲の発射速度は極めて高く、自走砲内に持ち込める分の即応弾は早々に使い果たすために、結局は砲弾を輸送する給弾車が必要だった。
 海軍では使い勝手の良い中口径砲として、76ミリ砲は高射機関砲代わりや小艦艇の主砲として長く使われたのだが、陸軍では同じ自走式でも更に射程の長い誘導噴進弾に取って代わられて同砲が活躍できた時期は短いものだった。


 


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