四六式戦闘機震電/震風




四六式戦闘機震電/震風


<要目>
全幅12m 全長10.5m 自重3.7トン 乗員1名 20ミリ機関砲×4 エンジン出力20kN×1 最大速度850km/h 航続距離1,500km


 日本帝国はジェットエンジンの考案者として知られていたホイットルを始めとする技術者疎開の受け入れという形で、英国が先行していたジェットエンジン開発の中でもターボファンエンジン開発を担当していた。
 当時既にエンジンメーカーとしての道を進もうとしていた石川島で製造された試作エンジンは、余裕のある四発の貨物輸送機を用いて空中試験が行われており、更に後に四五式爆撃機天河として実用化される機体がジェットエンジンのみを搭載する双発機として実験機に転用されていたが、その次の段階として軽快な戦闘機を想定した単発のジェットエンジン搭載機が想定されたのは当然の成り行きだった。
 だが、元を辿れば制式化されなかった15試陸上爆撃機計画にたどり着く銀河とは異なり単発機となると搭載機を流用するのは難しかった。レシプロエンジンを搭載した単発戦闘機では、ジェットエンジンで推進源となる噴流が吹き出されるエンジン後方には操縦席などが配置された胴体があったからだ。

 ここで俄に注目されたのは、全く別の実験機であった震電であった。日本海軍の改定された命名基準で実験機を意味する電の一文字を与えられた震電は、元々はジェットエンジンとは全く関わりなく戦闘機の高速化を図るために新しい形式を試すものであった。
 従来機では牽引式に胴体前方に搭載されたエンジンを機体後方に推進式に搭載するのに加えて先尾翼式の実験機として開発されていたのが震電だった。推進式であればエンジンからの噴流が発生する機体後方には何も存在しない為にジェットエンジンの搭載に伴う大きな機体設計の変更が必要ないと思われたのである。
 都合の良いことは他にもあった。実用化を前提としたというよりも機体構造の知見を得るための実験機であった震電は、戦時中の機体増産に忙しい大手航空業者ではなく、軍にとって身内となる日本海軍の航空機研究機関である空技廠と中小業者である九州飛行機の共同開発機であったこと、更に何度かの試験によって2千馬力級エンジンの冷却には空気取入口が過小であることが判明していたために胴体の改設計作業に入ったところであったことも根本的に空気流入量の多いジェットエンジンに換装するのに好条件であった。

 急遽ジェットエンジン搭載機として再設計が開始された震電だったが、機体側からみてもジェットエンジンの搭載には利点があった。地面との接触を回避するためにプロペラ旋回半径よりも長大化していた主脚は格段に短縮できたし、主翼中央部に設けられていた双垂直尾翼も胴体中央部に搭載することが出来ていたからだ。
 操縦席左右に配置された空気取入口は原型機よりも格段に大口径化しており、操縦席後方で湾曲してフロントファンに導入されていた。当初は空気流入の流れが湾曲することでジェットエンジンへの吸い込みが悪化することが予想されていたのだが、フロントファンで整流化されたためか理想的な配置の空中実験機と比べて推力の悪化は少なかった。
 奇遇にも原型機に搭載された2千馬力級レシプロエンジンとターボファンエンジンは半径が殆ど変わらなかったが、当時はエンジン出力を増大させるためにはタービン翼の多段化を行うしか無かった為に胴体後部の機関部長さは増大していた。これとバランスを取るために大型化された垂直尾翼と主翼の後退角が増大して結果的に亜音速域の抵抗低減に繋がっていたが、これが判明したのは改設計作業中に模型を用いて行われた高速風洞における確認実験中のことだった。
 以後の日本帝国の高速機開発には当初から後退翼が積極的に導入されていたが、これは同時期にドイツから流入した各種航空技術の知見と合わせて、震電の実用化があってこそだったと言える。
 震電の開発に伴って得られた知見はそれだけではなかった。駐機状態では機体後部が沈み込む形となる尾輪式の四五式爆撃機天河に対して、震電では当初プロペラが後方にあったために前輪式とされており、機体が滑走開始から水平となるためにジェットエンジンの推力が完全に活かされるという利点もあった。やはりこれ以後のジェットエンジン搭載機が前輪式となる実績は震電から得られたものといってよかっただろう。

 予想外に高い性能を発揮した震電は、早期に実用化できそうな純国産のジェットエンジン搭載機が存在しなかったことから、実験機に留まらずに新たに設立された空軍の戦闘機として制式化が図られていた。
 兵装としても当初は迎撃機として用いるために30ミリという大口径機関砲の搭載が想定されていた事もあって、機首に集中して配備された20ミリ機関砲四門という実用戦闘機として十分なものを有しており、主翼への兵装搭載も従来機同様に可能だった。
 初期の純ジェットエンジン搭載機は燃費の悪さから航続距離が短くなる傾向があったが、比較的燃費のよいターボファンエンジンを搭載した震電は胴体内燃料タンクの拡大が改設計作業中に行われたこともあって概ね満足しうるレベルにあった。
 前面投影面積の増大が抵抗の増大につながるターボファンエンジンの欠点に関しても元から太い胴体内部にエンジンを格納した震電では問題視されることもなく、寧ろ偶然にもレシプロエンジンと同口径であったからこそ震電のエンジン換装が行われたというべきだろう。

 空軍機だけではなく、やはり他に実用機が存在しないという理由から、急遽震電は艦上戦闘機としても運用されることが決まっていた。艦上戦闘機型への変更にあたっては主翼などの折りたたみ機構追加と。震電そのままでは着陸速度が高すぎるため震風と愛称が変更された震電艦上戦闘機仕様ではフラップの面積拡大といった高揚力装置の見直しが行われていた。
 高揚力装置を働かせても速度が過大となるために着艦時には上向き姿勢を余儀なくされていたが、皮肉なことにプロペラを捨てたことで一度は短縮された震電の前輪脚は、震風では着艦作業のために元の長さに戻されていた。

 各種の新機軸のために従来機とは著しく操縦特性の変化した震電、震風であったが、意外なことに操縦士達からの反発は小さかった。ある意味で当然のことであったのだが、震電は日本帝国で初めてのジェットエンジン戦闘機であるため、鹵獲されたドイツ製のMe262や英国のミーティアなどの操縦経験のある極少数の操縦士を除けは、大抵が初めて操縦するジェットエンジン戦闘機でもあったのである。
 当時の操縦士とすれば、ジェットエンジン搭載という時点で従来機とは異なる航空機であるという意識が強く、操縦特性の変化に関してもジェット機とはこういうものなのかという感想で済ませてしまったという回想が数多く残されている。

 実験機から実用機とされた震電であったが、将来にある問題も残していた。少数生産の実験機であればこそ空技廠や中小業者に任せられたのであり、海空軍の実用機として大量生産を行うには九州飛行機はあまりに製造体制が貧弱であった。
 そこで震電はエンジン実証機段階までは九州飛行機で製造されていたものの、実用機としては海軍航空本部および新設された空軍実験航空団からの指導によって空軍機としては中島飛行機、海軍機としては艦上戦闘機改造の段階から三菱飛行機に開発、生産が移管されていたのである。  これは海軍の身内である空技廠との共同開発であるために製造権が九州飛行機から移管しやすかった為だったが、自社の製造体制が貧弱であったことが原因とはいえ空軍、さらには兵部省の航空行政関係者に九州飛行機から遺恨を抱かせる結果になっていた。


 


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