四五式戦車




四五式中戦車(56口径75ミリ砲装備初期生産型)



四五式中戦車(55口径105ミリ砲装備正規生産型)



<要目>
重量45トン、全長7.3m、エンジン出力600hp、乗員4名、装甲厚90ミリ(最大)、武装56口径75ミリ砲(初期生産型)、12.7ミリ機関砲(主砲同軸)、12.7ミリ機関砲×1(随時司令塔に取付)、最高速度45km/h(初期生産型)
重量47.5トン、全長7.3m、エンジン出力600hp、乗員4名、装甲厚90ミリ(最大)、武装55口径105ミリ砲、12.7ミリ機関砲(主砲同軸)、12.7ミリ機関砲×1(随時司令塔に取付)、最高速度43km/h(正規生産型)

 1930年代半ば以降、日本陸軍の戦車開発は仮想敵ソ連軍の次期主力戦車の予想性能に対抗するために機甲部隊の主力である中戦車に集中していた。実際にはシベリアーロシア帝国経由でもたらされたソ連軍主力戦車の情報は後のT-34中戦車とKV重戦車の都合の良い数値が入り混じった虚報であったのだが、結果的に予想性能に一応は対応する能力を持たされた三式中戦車が制式化される頃には同程度の能力を有する敵戦車も出現していた。
 ソ連やドイツ軍の機甲部隊に対抗できる能力を有すると判断された三式中戦車であったが、この幻の戦車に対応するために従来構造の踏襲等といった形で些か開発が急がれていたのも確かだった。そこで陸軍技術本部では三式中戦車の制式化と同時にこれまで開発されていた技術を惜しみなく投入した三式中戦車の発展型とも言える新型戦車の開発に着手していた。

 三式中戦車の制式化から2年後の1945年に登場した四五式戦車は、概ね三式中戦車の構造を踏襲していた。傾斜角は多少きつくはなっているものの、車体部は防弾鋼板を溶接で箱組構造に組み上げられていたが、その配置にはいくつか差異もあった。
 最も大きな違いは車体前面上部に分割や開口のない一枚板の分厚い防弾鋼板が配置されたことにあるだろう。三式中戦車の時点で防御構造の弱点となる一方で効果の薄い車体前方機銃は廃止されていたのだが、四五式戦車の場合はこれを更に徹底させて操縦士用の覗き窓用の開口さえ無くされていた。これに代わって操縦士席にはペリスコープ式の監視装置が被弾の可能性が少ない車体上部に設けられていたが、これは奇しくも同時期に開発されていたソ連軍重戦車IS-3と同様の構造であった。
 また、横から見ると三式中戦車同様に楔形の傾斜を持たされて組み上げられているのだが、四五式戦車の場合は車体底面も若干の傾斜がつけられた舟形の構造とされていた。三式中戦車制式化後に、対戦車地雷に触雷してしまった場合に底面が平坦である場合は逃げ場のない爆圧を受けてしまうという事例があったからである。舟形構造はこの爆圧を車体側面に逃がして残存性を向上させるためだった。
 車体底面には三式中戦車のものから可搬重量の増大したトーションバー式のサスペンションが設けられていた。制式化以後の改良による重量増加をある程度見越してダンパーなどのバネ構造物の周囲には余裕が持たされていたが、サスペンションの構造は概ね三式中戦車同様であった。むしろ転輪数減少による一軸辺りの重量増大の方が構造の変化としては大きかった。

 四五式戦車の特徴としては駆動方式の一新があった。搭載されたエンジンは一式中戦車、三式中戦車と続いた航空機エンジンに由来するガソリンエンジンではなく、水冷ディーゼル方式のものであった。元々日本陸軍はソ連軍と並んで戦車用ディーゼルエンジンの開発に取り組んでいたのだが、急遽予想されるソ連軍次期主力戦車に対抗するために重量化した一式中戦車を駆動させるのに十分な出力のものが用意できなかった。そこで手法としては軽戦車で実績のあった航空機用エンジンの転用を余儀なくされていたのである。
 水冷ディーゼルエンジンは新規に採用されたものではあったが、実際には補機や気筒数の変更を行いつつも一式中戦車制式化の頃から日本陸軍技術本部が関係会社と共に執念で開発していた十分に熟成されていたものであった。九七式中戦車で採用されていたものは、シベリアから満州に至る広大な日本陸軍の予想戦場で使用することを想定して冷却水の補充がいらない空冷式であったが、その後の使用実績からエンジン冷却水の補充程度は問題ないために水冷エンジンの採用に至っていた。

 駆動方式の変更点はエンジンだけではなかった。遊星歯車式の二重差動式操向装置が採用されて効率化された変速装置を含む駆動装置一式が車体後部に集中されて、駆動輪も後部に変更されていたのである。操作装置と駆動部の間は油圧サーボ機構で繋がれており、車体前後をつなぐ長大な駆動軸を廃していた。
 エンジンと変速装置からなる駆動装置を一体化させたパワーパック方式の走りともなったこの方式の採用にはいくつかの理由があった。
 三式中戦車から採用されたトーションバー式懸架装置は、従来のシーソー式では車体側面に配置できた構造物の大半が車体底部に設けざるを得なかったのだが、車体横方向に走るトーションバーは車体の前後にあるエンジンと変速装置をつなぐ駆動軸と交差するために車高の拡大を招いていたのである。
 四五式戦車では機関部は駆動装置を収めるために高さがあるものの、砲塔部分から前方では駆動軸を廃した分だけ一段車体天井が下げられており、砲塔を含む車体高さ全体の低減に寄与していた。
 ただし、理由は機関関係の要求によるものだけではなく、防御力向上の目的もあった。車体前方に配置された複雑な変速装置は、整備を行うために大型の扉を設けなければならなかった。それに大威力の対戦車砲、戦車砲の出現によって第二次欧州大戦中は戦車の装甲板、とくに射撃の集中する砲塔、車体前面の装甲厚は増大する一方であり、車体前方に重量が集中する傾向が出ていた。
 そこで大重量の変速装置を車体後方に集中させて重量配分を見直すと共に、弱点となる車体前面の防弾鋼板開口部を設けない配置が採用されていたのである。

 車体部に新機軸が採用される一方で、火力は三式中戦車と同じ56口径75ミリ砲が搭載されていた。ただし、ターレットリング径は三式中戦車よりも大口径とされており、大型化した砲塔を支えるために車体中央部もやや外側に膨れた構造となっていた。
 実はこの備砲は暫定的に採用されたものだった。その証拠に砲塔後部が拡大していたにもかかわらず、砲架周辺の構造は三式中戦車のものがそのまま流用されていた程であったからだ。
 配備数で全体の10分の1にも満たないドイツ軍重戦車、重駆逐戦車と遭遇でもない限りは差し当たって長砲身3インチ級砲で十分と判断された為でもあったが、改良型に置いて備砲の換装を行うことも想定されていた。そのために大口径砲の運用に差し支えないようにターレットリング径も予め大きく取られていたのである。
 これには45式戦車単体ではなく、日本陸軍の戦車整備方針の変化に理由があった。

 1930年代の日本陸軍機甲科には2つの流れがあった。旧騎兵科閥による機動戦車と旧歩兵科閥による歩兵戦車である。この対立は長く尾を引いており、機甲科としての纏まった意識ができた後も重装甲大火力の対トーチカ用戦闘車両である重戦車という類別が残されていたのである。
 ところが、予想以上に高性能であると誤認されていたソ連軍次期主力戦車に備えるために、九七式中戦車以後は主力となる中戦車に戦車開発能力が集中しており、九五式軽戦車の後継となる二式中戦車でさえ観測車や対空戦車の母体を兼ねるという理由がなければ新規開発が行われないほどであった。
 そのためにシベリアーロシア帝国、ソ連国境地帯に集中配備されていた重戦車の後継開発は等閑に付されており、既存の重戦車は旧式化してしまっていた。その一方で三式中戦車の重量は既に九五式重戦車に匹敵するものにまで達しており、戦力という意味では従来型の重歩兵戦車という意味合いでしか無い重戦車は第二次欧州大戦の戦訓からしても無力化していた。
 それに加えて三式中戦車の火力支援型である105ミリ榴弾砲装備型は、中戦車の備砲であっても対トーチカ戦に必要な大口径砲を搭載可能であることを示唆していた。
 そこで日本陸軍は従来の中戦車と重戦車というカテゴリー分けを廃して四五式戦車をこの2種類を兼ねる「戦車」としていたのである。なお、使用用途の違いや派生型の開発需要などから軽戦車カテゴリーは残されていた。
 また、従来は中戦車の採用時に戦車回収車である力作車が派生型として開発されていたが、三式中戦車と四五式戦車では、一式と三式中戦車の差程には重量増大がなかったことから、バラストの搭載などによる牽引力増大で三式力作車でも牽引に対応できた為に当初は専用の回収車は製造されていなかった。

 四五式戦車は制式年度は1945年であるが、当初は対独戦では三式中戦車で十分な性能を有すると考えられていたことなどから初期の生産数は少なく、第二次欧州大戦ではごく一部の初期生産型が実質的には増加試作機のような扱いで実戦投入されたのみだった。
 大戦直後も余剰となった三式中戦車があったことから、四五式戦車の配備はさほど進んでおらず、本格的な配備が開始されたのは当初から本命視されていた105ミリ砲装備型の正規生産型とも言える型式が生産が開始されてからとなった。

 正規生産型から装備された55口径という長砲身の105ミリ砲は、三式中戦車が装備していた75ミリ砲と比べて格段に威力が増大しており、第二次欧州大戦末期に投入された重戦車であっても主砲戦距離で撃破可能なものだった。この主砲の採用によって四五式戦車は当初の予定通りに実際に重戦車というカテゴリーを過去のものにしたと言えるだろう。
 この長大な主砲を収めるために正規生産型では釣り合いを兼ねた弾庫が拡大されたために砲塔後部の張り出しが増大していたが、車体部には特に変更がなく初期生産型との違いは主砲分の重量増大とこれに伴う若干の速度低下といった程度であり、書類上も初期生産型の製造数が少なかったことから特に型式の名称変更はなされなかった。
 これに加えて初期生産型の配備先が戦前より機甲化されていた第7師団や富士の教導旅団の一部に限られていたために、三式中戦車から四五式戦車に装備改変を受けた部隊の多くは105ミリ砲装備型しか知らず、逆に大戦終結直前の戦闘で四五式戦車の存在や備砲が三式中戦車と同一であったことを察知していた米ソなどは正規生産型を単なる不具合対策による形状変更と判断しており、正確な四五式戦車の性能を米国などが把握したのは太平洋戦争開戦後のことだった。


 


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