四五式司令部偵察機




四五式司令部偵察機


<要目>
全幅27m 全長17.7m 自重8.2トン 乗員3名 武装 無し エンジン出力2300hp×2 最大速度660km/h 航続距離7,400km


 日本陸軍は長距離、広範囲における敵基地の偵察を行うために司令部偵察機を運用していた。30年代に行われた陸軍装備の開発方針を定めた兵器研究方針の改定によって再分類された偵察機は、短距離で師団級陸上部隊の直掩を行う直協機、より上級の軍や方面軍司令部の元で長距離の戦術偵察を行う軍偵察機、最後に陸上部隊に隷属せず航空部隊独自に実施する航空撃滅戦のための司令部偵察機だった。
 司令部偵察機として初めて制式化されたのは三菱航空機製の九七式司令部偵察機だったが、その僅か三年後にはより洗練された形状の同社製一〇〇式司令部偵察機が採用されていた。
 だが、一〇〇式司令部偵察機に続く機体は中々開発が進まずに、一〇〇式司令部偵察機が新司偵と呼ばれる時代が長く続いていた。それは一〇〇式司令部偵察機の性能が卓越していたためでもあったが、陸軍航空隊が司令部偵察機に求める能力が二転三転したためでもあった。

 日本陸軍が考えていた偵察機に最優先に必要な能力は生存性だった。どのような情報であれそれを持ち帰って指揮官に提供できなければ意味がないからだ。一〇〇式司令部偵察機は当初これを高速性能で実現しようとしていた。敵戦闘機の迎撃を高速飛行で逃れようとしていたのであり、一〇〇式司令部偵察機が一型から二型に改修される過程で空気抵抗の極限を狙ったのもこれが理由であった。
 だが、航続距離の長い大型の双発機が戦闘機から逃れるのは難しかった。制式化当初は高速性能を生かして迎撃をすり抜けていた一〇〇式司令部偵察機も次第に高速化する敵戦闘機によって損害が増大していた。
 これに対応するために次に日本陸軍が求めたのは高高度飛行能力だった。一〇〇式司令部偵察機三型ではこの方針に従って機体構造には大きな変更は加えられなかったものの、中間冷却器付の排気過給器を装備したのである。
 同時に高高度飛行時に空中勤務者に与える影響を考慮して操縦席には与圧装置が加えられたものの、その能力は想定された飛行高度に対応できる能力ではなかった。元々この与圧装置は次期司令部偵察機向けに開発されたものを転用したものであり、空気抵抗削減を優先して大型化した一〇〇式司令部偵察機の風防ではその性能を活かしきれなかったのである。

 日本陸軍が本命と考えていた四五式司令部偵察機は、一〇〇式司令部偵察機と比べると異様な姿で就役していた。高高度飛行時に使用する与圧装置の能力は大きかったが、与圧装置を最大稼働させた際に発生する内外圧は大きく、これに対応するため風防枠は太く頑丈に作られていた。
 与圧装置自体は一〇〇式司令部偵察機に搭載されていたものと基本的に同じものであったが、その能力は四五式司令部偵察機の強化された構造によってその真価を発揮することが出来たと言え、操縦士などの回顧録等においても高高度を飛行している際にも平地と変わらない環境であったと記述されることも多かった。
 ただし風防枠の増大によって視界は悪化しており、これを補うためもあってか逆探などの電子兵装も強化されていた。逆探は操縦士などに警告するだけに留まらず記録装置も備えられており電子偵察機としての機能も与えられていた。もっともこの機能は限定的なものであり、機上では受信した電波の分析を行う事が出来ず、操縦席で可能なのは一定量以上の強度で指定された範囲の周波数帯を受信した際に警告音が出るだけだった。
 風防からの視界もあって主要な偵察行動も目視ではなく高解像度の大判写真を用いた写真偵察が専らであった。偵察写真機は斜角撮影用を含めて複数備えられており、最前部の偵察員が操作するものの他に固定式の写真器用窓が機体各部に開口されていた。

 四五式司令部偵察機はそれまでの一〇〇式司令部偵察機三型を上回る高高度をより高速で飛行する卓越した性能を発揮したものの、日本陸軍での就役期間はさほど長くはなかった。
 もっともこれは就役時に既に予想されていたことだった。既に時代は高速機にはジェットエンジンを搭載する流れとなっており、早晩長距離偵察機もジェット化されるのは明らかだったからだ。
 一〇〇式司令部偵察機の就役後、早々に次期司令部偵察機の開発計画は始まっていたものの、最終的に頓挫した高高度爆撃機との兼用計画や一〇〇式司令部偵察機への与圧装置の転用などによって開発計画は遅延しており、あるいはこれらの回り道さえなければ第二次欧州大戦中盤に就役した四五式司令部偵察機は時代の名機として活躍することも出来たのかもしれなかった。


 


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