四五式爆撃機天河




四五式爆撃機天河


<要目>
全幅20m 全長15m 自重8.2トン 乗員3名 20ミリ機関砲×2(内翼内×2) エンジン出力20kN×2 最大速度790km/h 航続距離2,200km


 第二次欧州大戦中において、既にレシプロエンジンとプロペラによる推進では原理的にこれ以上の抜本的な航空機の高速化が望めないと判断した列強各国は競ってジェットエンジンの開発に乗り出していた。
 英国では、ジェットエンジンの研究自体はドイツとほぼ同時という早い時期から開発が進められていたものの、予算不足や軍上層部の無理解などからドイツに対して一歩遅れている感は否めなかった。
 また、英国内の各社で並列して非効率に開発が進められていることもあって、ジェットエンジンの開発は遅滞していた。

 このような状況を抜本的に解決するために、開戦以後になって英国空軍は抜本的な開発計画の見直しを開始していた。英国本土では、早期に実用化が可能と考えられていた遠心式ターボジェットエンジンに技術力を集中するとともに、同時期に参戦していた日本帝国に難航していた幾つかの技術開発を移行していたのである。
 日本においても、海軍航空技術廠などが中心となってジェットエンジンの開発を開始していたのだが、逆に遠心式エンジンの開発者の一部は英国開発陣に加わるために英国本土に派遣されていたが、大部分の技術者は「疎開」してくる英国人技術者や開発機材の受け入れに従事することとなった。
 この疎開する英国人技術者の中には、ジェットエンジンの創始者とも言えるホイットルが含まれていた。英空軍の将校でありながらジェットエンジンの特許を出願する技術者でもあったホイットルは、遠心式ターボジェットエンジンを早くから研究していたこともあって英本土に残留するものと考えられていたのだが、ジェットエンジン研究開発初期に保守的な英国空軍から援助が得られなかったことなどから、この時期のホイットルは頑迷で自己の技術を過信する傾向が強くなっており、ロールス・ロイス社などにジェットエンジンの試作開発が引き継がれていたこともあって、英国本土では行き場を無くしていたのだ。
 ホイットルは遠心式エンジンの他に、バイパスエンジンやフロントファンという名称で後のターボファン・エンジンを考案していた。燃料消費率低減の観点からターボファン・エンジンは注目されていたのだが、それ以前にターボジェットエンジンに開発力を集中させるために研究は中断されており、半ばこれ幸いと英国空軍は開発促進を促すとして日本帝国に送り込んでいたのである。

 疎開とも厄介払いとも取れる英国技術陣の日本本土送りだったが、受け入れる日本帝国側の一部では異なる捉え方をされていた。明治期のお雇い外国人のように考えられていたのである。
 ジェットエンジンの考案者として知られていたホイットルもその対象であり、特にジェットエンジンの開発主導権を握りたい重工各社は彼を厚遇していた。
 日本本土に送られた当初は失望からから塞ぎ込むことも多かったホイットルだったが、この高待遇から次第に態度を軟化させており、戦後日本を離れる頃には大分性格が丸くなったと同僚英国人技術者達から驚かれることも多かったとされている。

 英国と比べると遅れているとされている日本帝国のジェットエンジン開発だったが、利点もあった。日本本土はともかく、周辺には東南アジア植民地帯やシベリア―ロシア帝国などの天然資源の豊富な地域が含まれており、耐熱素材に必要な希少金属の使用も英国と比べると自由にできたからだ。
 ホイットルが考案した世界初のターボファン・エンジンは、日本人技術陣の参画もあって比較的順調に進められており、大戦中盤以降は試作エンジンの空中試験も行われていた。
 この内エンジン単体の試験は余裕のある四発機を利用していた。二式貨物輸送機などがエンジン試験に多用されており、従来のレシプロエンジン1基をジェットエンジン試験機と交換して、空中でより実機に近い状況で試験を行っていたのである。
 試験が進んだ後は、エンジン自体だけではなく機体構造を含めた試験を行うため、海軍の15試陸上爆撃機、仮称銀河が使用された。銀河は航空機整備方針の変更から制式化はされなかったものの、海軍航空技術廠が惜しみなく先端技術を投入した機体構造は高く評価されていた。
 また、製造業者に指定されていた中島飛行機ではライセンス生産を行っていたブリストル、セントーラスエンジンの空中試験機としても使用されており、ここから発展してセントーラスエンジンを搭載した四三式夜間戦闘機極光が制式化されていた。
 銀河で行われたエンジン試験は、概ね順調に進められており、機体構造には大きな変化が無いにも関わらず銀河から時速100キロ以上の高速性能を発揮できた。ジェットエンジンは燃料消費は多かったものの、同時期に開発されていた軸流式の純ジェットエンジンや英国本土で試作されていた遠心式ジェットエンジンと比べると想定通り燃料消費率は低くなっていた。

 予想以上の性能に加えて、早期に実用化可能なジェットエンジン搭載機として、このエンジン実験機を原型として実用機化が決定されていた。
 大戦終盤の時期、既に日本陸軍と日本海軍の航空士官の一部は戦後における統合、空軍化を想定して動いており、その中で相次ぐ改修を行ってはいたものの旧式化した双発の九七式重爆撃機の後継となる機体を求めていたのである。
 より大型の四発機である一式重爆撃機が日本陸軍が想定していた重爆撃機の本来の任務である厳重に防護された敵航空基地への襲撃を行う航空撃滅戦に投入されていたのに対して、使い勝手の良さから九七式重爆撃機は従来は双発軽爆撃機の任務である敵地上勢力への反復攻撃などにも投入されることが多かった。
 また、この時期においては熱源誘導の徹甲爆弾が限定的ながら従来の損害の大きい雷撃に変わる対艦航空兵装として開発が進められており、一式陸攻以降途絶えていた陸上対艦攻撃機としても運用が期待されていた。一度は制式化が断念されていた15試陸上爆撃機計画がターボファン・エンジンという新たな心臓を得たことで再び対艦攻撃機の主力とされていたのである。

 四五式爆撃機天河として就役したジェットエンジン搭載型の機体は、概ね原型機である銀河の構造を踏襲していたが、四三式夜間戦闘機極光で採用された電子兵装なども転用されていた。極光では前方監視、射撃指揮用の電探と機銃が装備されていた機首は、原型機同様の爆撃手用席に戻されていたが、機体後部は極光に搭載されていたものの発展形である後方監視電探、逆探が配置されていた。
 ただし、爆撃手席内部は原型機と完全に同一というわけではなく、高速化に対応した爆撃用電探、前方監視電探などが追加されており、居住性や肉眼による監視能力は低下していた。
 左右両内翼部に装備された20ミリ機銃も極光同様だったが、ジェットエンジン化に伴ってプロペラ同調装置が省かれた事から発射速度は向上していた。この兵装は本来自衛用と考えられていたが、四四式艦上攻撃機流星などと同様に爆撃手が操作する対空誘導噴進弾を装備する事もあったため、戦闘爆撃機という見方は必ずしも誤っているわけではなかった。

 統合後の日本空軍初期の主力攻撃機として活躍した四五式爆撃機は、概ね満足する性能を有していたが、レシプロエンジン搭載機として設計されていたためにジェットエンジン搭載機としては不合理な箇所も少なくなかった。
 尾輪式の配置は、離陸時に機体後部が下方を向いてしまうことで、エンジン推力を有効に加速に使用できなかったし、全長を抑えるためにエンジンナセル下部に収められてる前輪も、高温のジェットエンジンに隣接するために劣化が激しく、またエンジン整備時にも不具合が多かった。
 早期の実用化を図るために従来の機体構造が踏襲されたことがこのような不具合をもたらしていたのは明らかであり、完全にジェットエンジンに対応した四五式爆撃機の後継機を求める声も大きかった。
 しかし、少なくとも空中に上がってしまえば初期ジェット爆撃機として満足する性能を発揮できたのは、海軍航空技術廠が原型機となる15試陸上爆撃機の時点で最新鋭の技術を惜しみ無く投入したためと言ってよかっただろう。


 


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