四四式重装甲車(ボアハウンド)






<要目>
重量21.5トン、全長6.4m、エンジン出力180hp、乗員4名、装甲厚40ミリ(最大)、武装38口径75ミリ砲×1、7.7ミリ機関銃×1(主砲同軸)、最高速度80km/h

 第二次欧州大戦序盤における各種装甲車の活躍や日本国内の道路網整備の進捗状況を鑑みて、日本陸軍は本格的な装輪装甲車として二式装甲車を開発していた。
 しかし、実用化を急がれた二式装甲車はその足回りを六輪式の自動貨車から流用しており、原型よりも増大した重量を支えるにはその懸架装置の能力が不足していたことから、路上はともかく路外走破性能は期待していた程ではなく、英国軍などへの供与分はともかく、日本陸軍が装備する同車の数は少なかった。
 そこで日本陸軍では新たに大重量を支える装輪装甲車専用の懸架装置から開発を行う事となったのだが、同時に中途半端な立ち位置であった二式装甲車の反省から、後方地帯における警備を主任務とする軽装甲車と前線近くで偵察戦車として運用する重装甲車の並行開発を試みていた。
 四四式重装甲車はその後者として開発された重装備の車両であったが、騎兵部隊が装備する言わば豆戦車であった機甲科創設以前の「装甲車」の概念にはより近しいものであったとも言えただろう。

 軽装甲車と重装甲車は開発費用を圧縮するために部品の共通性が図られており、特に開発費用と期間のかかる懸架装置は大型化されたタイヤ共々同形状のものが使用されていた。この懸架装置は三式中戦車の開発経験が生かされた高性能なものであり、四輪から八輪へと装輪数が増大したこともあって、重装甲と大火力を実現するために倍以上の重量となってしまった四四式重装甲車に良好な路外走行性能を与えていた。
 備砲として採用されたのは、三式中戦車の一部や一式中戦車乙型が装備する野砲弾道の38口径7.5センチ砲だった。当初はより小口径ながら初速の高さから対戦車能力は同等である長砲身57ミリ砲の搭載も検討されていたものの、重量では有利だが汎用性にかけることもあって同砲の採用は見送らていた。
 砲塔は本車専用に開発されたものであり、当時の日本軍の戦車同様に大重量砲のカウンターウェイトを兼ねて砲塔後部が延長されて弾薬庫が設置されていた。ただし、本車は強力な通信能力が要求される主力前方の斥候任務の機会が多いために、砲塔後部に大型無線機を搭載する事が多く、実運用における即用弾数は少なかった。

 四四式重装甲車は、火力面では強力であった一方で防御の点では些か不満を持たれることが多かった。装甲板そのものは砲塔、車体前面で傾斜した40ミリと従来の装甲車よりも分厚いものが備えられていたものの、戦車並の図体を持つことや最前線での任務が多いことから被弾率は比較的高かった。その一方で第二次欧州大戦では急速に戦車の大火力化が進んでいたことから、相対的に四四式重装甲車の防護力が弱体と思われていたのだろう。
 ボアハウンドと呼称した英国軍や日本陸軍では当初の想定どおりに威力偵察や斥候任務に限定されていたために然程防護力に関して指摘する声はなく、むしろ複数のタイヤを失った状態でも帰還出来る機関部の余裕を評価されることも少なくなかった。
 ただし、両国よりも余裕のない国際連盟加盟諸国では供与、売却された四四式重装甲車をより積極的に火力支援などにも投入することが多く、戦車部隊など火力に優越する敵部隊と遭遇した際は不利は否めなかった。

 後に装輪戦車と俗称されたように、四四式重装甲車の火力、装甲は概ね一世代前の一式中戦車に匹敵する強力なものだった。主に警備や前路警戒任務が想定された軽装甲車とは異なり、ある程度の戦力が必要な威力偵察まで想定されていたからだったが、その重量もまた一式中戦車並の20トン超に達してしまっていた。
 日本陸軍では、四四式重装甲車は師団捜索連隊内の装甲車中隊に配備されて師団主力前方の警戒や威力偵察任務に用いられていた。
 そのような任務に投入される四四式重装甲車は概ね高い評価を受けたものの、機械化された第7師団など一部優良部隊の師団捜索隊では装甲車中隊に変えて一式中戦車や三式中戦車といった戦車連隊配備と同型の戦車が配備されていた事実は、日本陸軍における重装甲車の評価と限界を示すものだったのかもしれなかった。

 他の装輪装甲車同様に日本陸軍よりも他国軍において四四式重装甲車は長く使用されていた。特に新たに独立した東南アジアの旧英仏植民地においては、植民地時代に旧宗主国の手によって整備された道路網が独立の際にも維持されていたこと、本車がある程度の路外走破性を持つことから代用戦車として重宝されていた。
 旧植民地諸国同士の紛争や反政府組織の討伐といった任務において高価な装軌式の戦車が姿を見せることは滅多になく、敵対する勢力がどちらも四四式重装甲車を投入した場合もあったようである。
 最も東南アジア諸国は植民地時代を引き摺った不条理な国境線を起因とする緊張状態こそ長らく続いていたものの、これが戦闘に至ることは殆どなかったことから、同車も長く使用された一方で第二次欧州大戦後に実戦を経験した車両はさほどなかった。


 


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