四三式滑空機




四三式滑空機


四三式滑空機二型


<要目>
全幅35.0m 全長19.3m 自重5.5トン(二型7.5トン) 乗員2名(二型4名) 武装無し エンジン出力1,080hp×2(二型のみ) 最大速度300km/h 航続距離2,000km

 第二次欧州大戦序盤におけるドイツ軍による目覚ましい空挺部隊の活躍を見た各国は、対抗するように大規模な空挺部隊の設立、空挺作戦で使用する機材の開発に乗り出すこととなった。
 日本軍も例外ではなく、戦前より仮想敵ソ連に対抗するために半ば研究目的で設立されていた部隊の拡大に乗り出すこととなった。
 ただし、日本軍やその影響を受けたシベリア―ロシア帝国、満州共和国における空挺部隊は空中挺進の名が示す通りに敵地での遊撃戦に従事する挺身部隊としての性質が強く、選抜された少数精鋭の特殊部隊的な存在だった。
 事実、シチリア島上陸作戦時に投入された日本陸軍機動旅団、英第77特殊旅団などは枢軸軍の機動を阻害するための島内に存在する橋梁の破壊などを実施していた。
 このような特殊部隊としての性質を持つ高い練度を持つ空挺部隊の規模を拡大する場合、問題となるのは練度の低下だった。空中の輸送機から落下傘降下を行うには特殊な技能が必要だったからだ。
 これに加えて、挺身部隊として小規模に運用するのならばともかく、大規模に運用するのであれば正規軍との正面からの戦闘にも対応する必要があると思われたが、落下傘降下では投下できる物資が個人携帯可能な小火器程度でしかなく、精々が対戦車戦闘が辛うじて可能な噴進砲が限界であった。

 このような状況に対応可能な機材として開発されたのが、他機に牽引される無動力機ながら重器材を搭載可能な大型滑空機だった。
 大戦勃発から程なくして開発開始されたこの滑空機は軽戦車級の車両や軽野砲程度までの搭載が可能であり、しかも滑空機に搭乗した兵員は落下傘降下の技能を使うこと無く地上に降下可能だった。
 1943年には、何段階かの試作実験機を経て開発時ク7と呼称されていた機体が兵員であれば1個小隊、空挺作戦用の軽戦車や野砲と言った重装備の安全な降下も可能となる四三式滑空機として制式化された。
 四三式滑空機は主中央胴体と高翼配置の主翼から伸びる双ブーム式の特異な機体構造を持っていた。この機体構造は貨物庫となる中央胴体の空間を大きく取ると共に、胴体後部に設けられた扉からの迅速な重器材の積み下ろしを可能とするためだった。

 しかし、この四三式滑空機の運用には軍上層部にある懸念があった。それは最大離陸重量が15トン前後の大型の滑空機を牽引可能な曳航機が限られていることだった。
 当初は双発で生産数も多い九七式重爆撃機かその輸送機型といっても良い一〇〇式輸送機の使用が想定されていたのだが、軽貨状態ならばともかく最大離陸重量の状態で速度や高度が実用上に達しなかったどころか、離陸すら危ぶまれたほどだった。
 そのため四三式滑空機の運用には大出力エンジンを多数備えた四発機を牽引機として運用せざるを得なかったのだが、この時点では飛行分科爆撃機戦隊の主力となる一式重爆撃機を転用するのは戦力上難しく、またその貨物機型で制式化間近だった二式貨物輸送機もその能力から前線と後方との輸送で精一杯の状態であり牽引機として大々的に運用するのは困難だった。
 このような問題に対して陸軍航空本部では逆転の発想をもって対応するとした。つまり、滑空機そのものにエンジンを搭載して自力での飛行を可能としたのである。
 幸いなことに四三式滑空機は双ブーム式の双胴部分の前方を延長すれば少改造でエンジンや各種補機、燃料タンクの搭載が可能であり、四三式滑空機二型と呼称された機体は短時間の改設計で開発が済んでいた。
 四三式滑空機二型の機体構造はエンジン搭載部や操縦席内の機器以外は大部分が一型を転用しており、乗員増加分を除けば搭載重量などもほぼ同等だった。

 四三式滑空機二型に搭載されたエンジンは、一〇〇式司令部偵察機や零式艦上戦闘機の原型機などに搭載されていた三菱製の瑞星だった。このエンジンは非力なことからすでに一線級機に搭載するものとしてはより大口径大出力の栄などに取って代わられていたものの、それだけに需要はさほど高くないことから取得は容易であり、また同社製の金星や火星との部品共通性もあって補助機用のエンジンとしてはまだ現役と考えられていた。
 もっとも四三式滑空機二型の機体規模からすると双発であっても瑞星エンジンはやや非力であることは否めなかった。元々このエンジンは補助用のものと割り切られていたからだ。
 つまり滑空機を牽引する際に抵抗が最も大となる離陸時にこのエンジンを使用することで曳航機の補助とすることで、抵抗の少ない通常飛行時に支障がない程度の双発機でも曳航機として使用することが出来るようにするのが目的だったのだ。
 また、過荷重状態での飛行は不可能だったが、軽苛状態までであれば自力での飛行も可能だったから、通常の飛行機のように単独での進出も可能だった。
 同時に自力離陸が可能であれば、半ば使い捨ての運用が前提の滑空機の回収も容易では無いのかと考えられていたようである。

 しかしながら、結果的に四三式滑空機二型の開発は成功とは見なされなかった。四三式滑空機が正式化される頃になると、牽引機として運用可能な大型四発機の余裕が出ていたからである。
 この時期、一式重爆撃機の主力が従来型の一式重爆撃機二型からエンジンの大出力化などの改良を施された四型に移行していたのだが、機体製造時期からすると現役の爆撃戦隊からは用廃機となった二型も十分耐用年数が残っており、これを牽引機として転用することが可能だったのである。
 つまり、牽引機不足によって双発機であっても運用可能となるという四三式滑空機二型の開発理由は制式化の頃には大部分解決していたのだ。

 二型は純粋な滑空機である一型と比べると操縦員以外にエンジンの面倒を見る機関士などの乗員が余分に必要なことや、補助機用とは言え高価なエンジンが必要であったことが本来安価な滑空機であったはずの四三式滑空機の取得価格、運用費を高く釣り上げていた。
 さらに、実運用を行ってみた所、空挺戦車として運用する軽戦車を搭載した場合などは機体重量が大きくなることや仮に降下地点が空港などであったとしても戦闘時の損害で不整地と化していることが多く、降下時に自力での離陸が不可能となるほど損傷する場合も少なくなかった。
 これでは高価なエンジンを搭載した意味が無いことから、イタリア本土上陸作戦以後は一型とは異なり、四三式滑空機二型は前線から引き上げられて後方で軽輸送機や練習機として運用されていた。


 


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