四三式貨物輸送機




四三式貨物輸送機


<要目>
全幅38.2m 全長28.0m 自重21.8トン 乗員5名 武装無し エンジン出力1850hp×4 最大速度480km/h 航続距離7,000km

 日本海軍の飛行艇及び水上機の専門メーカーとなっていた川西航空機では1940年代に入る頃から次期主力機の開発を巡って社内で論争が巻き起こっていた。この頃から航空技術の発展から川西航空機の主力機の一翼を担う水上機の有用性が低下しているとの認識を得ていたからである。
 従来水上艦に搭載されて航空偵察や連絡などの雑用を担う艦隊航空の一翼を担ってきた水上機だったが、巨大なフロートを抱えていることから陸上機形態に比べて不利な点が少なくなかった。
 また、このフロートの配置や短いカタパルトからの射出時に強い衝撃を受けることなどから実用化が進んでいた電探を搭載することも難しく、連絡機としての任務も、いずれはより運用が簡便な回転翼機に取って代わられることが予想されていた。

 しかし、川西航空機の次期主力機選定は迷走することになった。艦上攻撃機や陸上戦闘機といった単発機の開発は早々に断念されていた。
 川西航空機には単発陸上機開発のノウハウが存在しない上に、どちらも三菱や中島と言った大手メーカーに独占されて、新規参入するには余程の高性能を発揮しないかぎり採用は難しいと思われた。
 一時期は就役を間近に控えていた二式飛行艇の設計を転用した大型陸上攻撃機の開発で纏まりかけていたのだが、欧州戦線での陸上攻撃機の損害の大きさから陸攻隊の規模そのものが減少するに至って最終的に断念されていた。
 最終的に残されたのが、この二式飛行艇の大型陸攻化をもとにした陸上輸送機型の開発だった。すでに二式飛行艇には武装を減じて収容人数などを拡大した輸送型の31型が企画されていたから、実際にはこれを陸上機化するはずだった。
 しかし川西航空機には未だ懸念があった。二式飛行艇の主要な設計を転用する以上は、この陸上輸送機は前例の無い高翼配置の大型機になり、主翼やエンジンナセル内に脚を収納することが出来ないために主脚収納や陸上移動時の安定性に不安があった。
 さらに川西航空機の立ち位置にも支障が予想されていた。同社はこれまで飛行艇、水上機に特化したメーカーであるため海軍専用メーカーともなっており、輸送機としての本格的な販売を考えると陸軍への販路が存在しないのは生産数の点で不利になるのではないかと思われたのだ。

 同時期、川崎航空機も別の問題を抱えていた。九八式戦闘機に続く水冷エンジン搭載機の三式戦闘機や二式複座戦闘機が陸軍の主力戦闘機として大量受注があったものの、川西とは真逆に海軍との関係がない陸軍専用メーカーであったこと、戦後の大量航空輸送時代が想定される中で大型機の設計、生産ノウハウがないのが問題となっていたのだ。
 この時期にはすでに陸軍航空隊と海軍航空隊の一部の合流による独立軍種の創設、すなわち空軍化が各メーカーでも予想されるようになっており、どの航空機メーカーでも両軍への伝手を作ろうとしていた。

 川西航空機における大型輸送機開発に関して、最終的に陸上機開発ノウハウを持つ共に、陸軍とのつながりが強い川崎航空機が共同開発のパートナーとなることとなった。
 このパートナーは双務的なものであり、川西航空機は二式飛行艇の主翼構造を転用するとともに海軍への販路を担当、川崎航空機では主脚設計と陸軍への販路を担当し、胴体に関しては両社の設計陣を集結して設計開発を行うこととされ、この時代にしては珍しい複数社の共同開発機となっていた。

 お互いに以前からの取引のある両社から提案された陸海軍は、第二次欧州大戦の激化に伴う航空輸送量拡大を受けて、両軍共有の大型貨物機として四三式貨物輸送機として採用された。
 先行する中島飛行機の二式貨物輸送機が一式重爆撃機の設計をほぼ転用せざるを得なかったのに対して、四三式貨物輸送機は良くも悪くも新規設計部分を増やさざるを得なかったため、結果的に運用者側の意見を設計時から反映させることが出来た。
 主翼、水平、垂直尾翼はほぼ二式飛行艇からフロートを取り外したものと言ってもよく、自然と胴体との接合部も同様の設計となっていた。
 これらの翼構造が二式飛行艇から流用されたた為に、新規設計された胴体も規模は二式飛行艇同等となった。大型機の設計ノウハウがない川崎航空機と、陸上機の設計ノウハウがない川西航空機の両社の設計となった胴体部は、機体強度を保つために胴体部には大口径の開口を設けることが断念されたため、胴体後部の尾翼取付ブームの下部に計算上は強度を分担しない油圧駆動の貨物搭載用の扉を設けることとなった。
 ブームに尾翼取付上の強度を分担させたことと、強度上の問題からこの位置に設けられた後部扉だったが、結果的に車両が自走して機内に進入することが出来たことと、飛行中に扉を開放することも出来たため、使い勝手は良かった。
 胴体は、大雑把に言えば、主翼取付部と操縦席が配置された上層と貨物室などが設けられた下層の2階建てとなっており、貨物室は機首から後部扉までのほぼ全長に渡っていた。
 この胴体は前後に強度を分担する縦枠が設けられており、この縦枠を一貫した形状とするために重心近くの主翼下部の胴体下部横に主脚を格納する張り出しが設けられていた。
 機首近くにも前脚が設けられた前輪式となっていたが、こちらは縦枠の隙間を潜り抜けられるため内装式の収納庫が設けられていた。

 四三式貨物輸送機は結果的にとはいえ高翼配置や前輪式主翼などといった近代的な外見をもつ輸送機となったが、その配置は貨物搭載の使い勝手などは良かったものの、航空機としての性能には不満が無いわけでもなかった。
 この時代の高揚力装置とエンジン出力は機体寸法に比して非力であり、飛行艇から設計を転用された為か離着陸距離は比較的長く、設備の不十分な前線飛行場で運用するのは不可能だった。

 実際には軽戦車までの輸送能力があったことから、日本本土から設備の整った後方兵站拠点までの移送を行う貨物輸送機と前線での輸送を行う戦術輸送機という住み分けが進んでいたためさほどの問題とはならなかったようである。
 後にはもっと大型化した戦略輸送機は長尺貨物などを輸送する有用な機種として認識されるようになっていったが、四三式貨物輸送機が戦略輸送機とされたのは、むしろ機体性能の限界からなるものだったといえるだろう。
 だが、製造業者である川西航空機と川崎航空機の2社にしてみれば大型貨物機の製造ノウハウや陸海軍との販路拡大と言ったものに加えて、2社の共同開発は後々まで有用な経験となっていたようである。


 


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