三式連絡直協機




三式連絡直協機


<要目>
全幅3.5m 全長12.7m 自重1.9トン 乗員2+3名 武装無し エンジン出力1000hp×1 最大速度185km/h 航続距離650km


 日本陸軍はオートジャイロであるカ号観測機の後継として日本初の回転翼機である二式観測直協機を制式化した。二式観測直協機はシコルスキー航空工業製の機体を原型として国産エンジンに換装して三菱で半ライセンス生産された機体だった。
 シベリア―ロシア帝国では未整備の資源地帯が多いために、滑走路の無い場所でも運用できる航空機として、回転翼機の開発が盛んに進められていたのである。

 だが二式観測直協機は、観測気球やカ号観測機の後継として、空中からの着弾観測を行う砲兵情報連隊指揮下の観測機中隊に配備されたが、九八式直協機の後継機としては完全に置き換えるわけには行かなかった。
 二式観測直協機は並列複座配置の視界の良さや垂直離着陸、空中静止能力から短距離観測機としては高く評価されたものの、九八式直協機は短距離偵察だけではなく、連絡機や簡易な攻撃機としても運用されることが多く、そのように多目的に使用するには二式観測直協機の搭載量は不足していたのである。

 最も搭載能力の不足は航空本部でも把握していたし、その対策も考慮されていた。二式観測直協機の原型となったシコルスキー航空工業のR4もあくまでも連絡機として開発された機体であり、資源開発地帯との物資人員の輸送用に使用されるより大型の機体が平行して開発が進められていた。
 当然のことながら航空本部でもこの機体、R5の開発状況は把握しており、二式観測直協機と同じく三菱でのライセンス生産が命じられていた。

 シコルスキーR5は言ってみれば初の実用化された輸送用回転翼機であり、良くも悪くも黎明期らしい独特の機体構造となっていた。
 R4の並列複座配置から、R5では搭乗員及び同乗者は二人が直列に並んで搭乗するダンデム配置に変更されており、これは重量化した機体の高速化を図るために最大幅を抑えるための配置だった。
 しかしながらR5では乗員席の後方がエンジン装備位置となっており、大出力化されたエンジンを格納するために、この箇所が最大幅となっていた。
 ライセンス生産された三式連絡直協機では搭載エンジンは零式艦上戦闘機や一式単座戦闘機に搭載されていた中島製栄系列を回転翼機故に垂直配置されることを前提にして所要の改造を施したものに変更されており、固定翼機と比べて飛行速度が遅いことから冷却効率の悪化が予想された為に信頼性を考慮してデチューンされたものが搭載されていた。
 エンジン収容部の後方がキャビン部になっており、三名までの搭乗が可能だった。エンジン出力からすれば同乗者数は少ないが、これは回転翼機黎明期による効率の悪さとカウンタートルクを打ち消すためのテールローターとの干渉回避の関係からこの配置のキャビンでは大型化が難しかったのが原因とも思われる。
 なおこのキャビンは同乗者用の座席を取り外せば200キログラム程度の貨物室に転用することが出来たほか、患者輸送機として担架収容用に使用されることもあった。

 二式観測直協機と平行して開発されていた三式連絡直協機は、観測機としてではなく主に連絡機や患者輸送機、救難機として運用されており、水上機の代替として着陸脚を車輪ではなくフロート式に換装された機体も少なくなかった。
 主な配備先としては師団や軍に配属される直協機配備の独立飛行中隊が多かったが、秋津丸などの航空機運用能力を向上させた特殊船に搭載される独立飛行中隊も少なくなく、海軍でも運用の難しい水上機に代わって簡易な連絡機として一部の艦の艦載機として採用されており、シチリア島上陸作戦の頃から陸海軍共用機として使用されていた。

 簡易な連絡機としては成功作と言っても良かった三式連絡直協機だったが、やはりエンジン出力の割には搭載量は大きくないため、本格的な輸送機としての回転翼機の形式が模索された他、九八式直協機の残る機能である軽襲撃機としての機能を満たすものではなく、さらなる発展型の開発が進められることとなった。


 


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