一式戦闘機三型




一式戦闘機三型


<要目>
全幅11.4m 全長9.3m 自重2.4トン 乗員1名 武装20ミリ機関砲×2 エンジン出力1800hp×1 最大速度620km/h 航続距離1,000km


 1940年代初頭、日本陸軍は諸外国軍の動向などを見極めながら、軍用機の開発指針となる研究方針において、主力となる単座戦闘機をエンジン出力は低いものの軽量な機関銃装備に留めて対戦闘機に用途を絞った軽戦闘機と、大出力エンジン搭載を前提とした万能の重戦闘機の二種類に分類していた。
 しかし、このうち軽戦闘機分類は早々に有名無実化していた。戦闘機搭乗員の育成と戦技研究にあたる明野飛行学校の強い要求で、実質上唯一の軽戦闘機であった一式戦闘機は12.7ミリ機関砲装備と高速化が図られていたからである。

 改良を重ねた一式戦闘機は、主力となる重戦闘機として開発された三式戦闘機の制式化後も生産と配備が続いていた。
 大出力水冷エンジンによって高速性と大火力を両立させた三式戦闘機だったが、空冷エンジン搭載で軽量な一式戦闘機と比べると生産工数は高く、整備能力も高いものが要求されていた。
 比較的構造が単純で安価な一式戦闘機は、東南アジア植民地からの志願兵部隊などの諸外国軍部隊に貸与、売却された機体も多かった。

 活躍を続けた一式戦闘機だったが、地中海戦線中盤にはやはりエンジン出力の低さからなる非力さが目立つようになっていたのは否めなかった。
 その一方で、一式戦闘機の製造業者である中島飛行機では迎撃戦闘に特化しているとして制式化されるも少数生産で終わってしまっていた二式戦闘機の後継となる重戦闘機の開発を行っていた。
 しかし、この重戦闘機用のエンジンは中島飛行機のエンジン部門の貧弱さなどを鑑みて英国ブリストル社よりライセンス生産権を受けたセントーラスエンジンの採用が決定されていた。
 予てより中島飛行機と技術提携を行っていたブリストル社との関係を考慮したものであったが、中島飛行機のエンジン開発部門としては忸怩たる思いがあった。
 また、日本陸軍も三式戦闘機のエンジンが川崎航空機でライセンス生産されるロールスロイスマーリンであることから、日本製戦闘機エンジン開発の隔絶に危機感を抱いていた。
 そこで、当時中島飛行機の自社製エンジンとして唯一開発が継続されていた誉エンジンを既存の一式戦闘機に搭載する案が日本陸軍によって進められることになった。

 このようにいささか政治的な要因が絡んだ開発計画だったが、エンジンと機体双方が既存機をもととしたものであったから、比較的開発は順調に進んでいた。
 完成した機体は一式戦闘機三型として制式化されたが、二型以前とは異なり諸外国軍に供与された機体は少なかった。
 三型の機体構造自体はそれまでのものと大きな変化はなかった。機体重量の増大に合わせて若干の補強材の追加やエンジン出力増強に伴う垂直尾翼の拡大が図られた程度である。
 搭載された誉エンジンは排出量の割に大出力というコンパクトなエンジンだったが、それ以前に一式戦闘機に搭載されていたものよりもは大口径であった。
 そのままでは機体外形に大きな段差が生じて乱流源となるところだったが、それまでの鹵獲機やソ連からの亡命機、La5などの調査で得られた設計手法を踏襲して高速のエンジン排気を利用してこれを排除していた。
 エンジン排気はより積極的に吸い込み効果を利用したエンジン冷却空気の排出にも利用されており、この時期急速に進んでいたエンジン架周りの設計が採用されていた。

 エンジン出力が格段に上昇した一方で、兵装も強化が図られていた。補強が加えられえた上にもとから薄い主翼にはこれ以上の兵装を受け入れる余地はなかったが、エンジン上部に押し込まれた機関砲は20ミリ径のホ5に換装されていた。
 この時期の日本軍は陸海を問わず20ミリ機関砲はエリコン系列が採用されていたが、ホ5はこれとは別系統で開発されていたもので、初速は遅いが口径の割にはコンパクトに仕上がったことでぎりぎりながら一式戦闘機の機首に収める事が出来ていたのである。

 かくして全般的な強化が図られた一式戦闘機三型だったが、その生産数はそれほど多くは無かった。
 確かに軽戦闘機よりとはいえ一式戦闘機三型は強力な戦闘機だった。三式戦闘機などと比べれば兵装は貧弱なものの20ミリ2門の火力は戦闘機相手であれば必要十分と言えるレベルであった。
 また、二トン級の軽量な機体に1800馬力級という大出力エンジンを組み合わせた機体は高い機動性をもたらしていた。

 しかし、その一方で精緻な設計のエンジンは潤沢な予備部品や高い整備能力を要求されるために、実質的に本国からの補給ルートが充実した日本陸軍でしか運用出来なかったのである。
 また、トラックに戦車のエンジンを搭載したとまで言われたエンジンの大出力化はじゃじゃ馬と言われるほどの操縦性の低下をも招いており、熟練の搭乗員を要求する機体でもあったのである。
 強化された火力も、長砲身のエリコン系列と比べるとホ5は低初速であるために弾頭の落下率が大きく、実用射程は短かった。

 結果的に二型以前の操縦容易な軽戦闘機としての姿を失った形の一式戦闘機三型だったが、実際にはそれを問題視する声は少なかった。三型を受領した部隊の多くは以前より一式戦闘機を運用していた部隊ばかりであり、当時の主力である三式戦闘機への機種転換を実施していなかったそれらの部隊の搭乗員の多くが熟練者だったからだ。
 火力に劣る一方で軽快で機動性の高い一式戦闘機は、敵機を落とすのは難しくとも敵機が撃墜するのも難しい機体であり、自然と生存率も高かったのである。
 熟練者を揃えた一式戦闘機三型は特にヤーボ狩りと俗称される対戦闘爆撃機に従事することが多かった。第二次欧州大戦中盤以降は、急降下爆撃機の旧式化や後継機開発の失敗などからドイツ空軍の対地攻撃機の主力は戦闘爆撃機に移っていた。また、このような任務にはFw190が多用されていた。
 大戦序盤の英国本土航空戦において大出力空冷エンジンを搭載した高性能機として颯爽と出現したFw190だったが、戦闘爆撃機として多用されるようになった大戦中盤以降はエンジンの大出力化に失敗した事もあってその性能は伸び悩んでいた。
 その一方で一式戦闘機三型はエンジン出力ではFw190に追いついており、機体重量の軽さから低空における飛行性能ではこれを凌駕していた。特に対地攻撃のために低空に降下していたFw190は対地攻撃用の兵装による重量もあって一式戦闘機に追いかけ回されることになった。
 軽量級の機体と大出力エンジンの組み合わせは低高度でも抜群の加速性能を発揮させており、熟練者故に短砲身のホ5でも必中を期すことが出来るほど接近して射撃を行うことで実用射程の短さを補っていた。

 


戻る
inserted by FC2 system