一式戦闘機一型




一式戦闘機一型


<要目>
全幅11.4m 全長8.9m 自重1.7トン 乗員1名 武装12.7ミリ機関砲×2 エンジン出力1140hp×1 最大速度540km/h 航続距離1,200km(常装)、2,400q(最大)


 1930年台半ば、相次ぐソ連―シベリアロシア帝国間の国境紛争に加えて、中華民国内の国共内戦などの戦訓に加えて、スペイン内戦などの戦況を分析した日本陸軍航空本部は、次期主力機の開発方針となる兵器研究方針の大改定を実施した。
 当時は軽快な複葉単座の九五式戦闘機の後継として、単葉だが九五式同様に軽快な空冷エンジン搭載機九七式戦闘機と、高速を狙って水冷エンジンを搭載した九八式戦闘機の二機種が採用されるところだった。
 改定された兵器研究方針は、このような二機種同時採用を反映したのか、この方針書では、従来日本陸軍に存在していなかった複座戦闘機に加えて、単座戦闘機を対戦闘機戦闘に用途を絞って機関銃装備に留めることで軽快な格闘性能を重視した軽単座戦闘機と、大出力エンジンによって大口径砲を装備して敵爆撃機への迎撃を行うと共に、軽単座戦闘機と共に敵戦闘機との戦闘をも行う、ある種の万能機とも言える重単座戦闘機の二種類に単座戦闘機を分類していた。
 この軽単座戦闘機構想の元で開発されたのが、キ43、一式戦闘機であった。

 研究方針に沿って開発された初めての機体であるキ43は、大出力エンジンの存在が必要となる高速重武装の重単座戦闘機に比べて、従来の陸軍戦闘機の延長線にあるとも言える概念の軽単座戦闘機であり、事実試作を行った中島飛行機では、基本的に九七式戦闘機の拡大発展型として堅実な設計を行っていた。
 このような事情から試作開発は概ね順調に進み、1938年には、九七式戦闘機を引き込み脚として、後の零式艦上戦闘機11型と同じ940馬力を発揮するハ25を搭載したキ43原型機が完成し試験飛行を行っている。
 だが、試作開発こそ順調であったものの、キ43の制式採用はすんなりとは決まらなかった。戦闘機隊の教育、研究を行うとともに、試作機の実用審査にも関わっていた明野陸軍飛行学校が、キ43試作機に対して弱武装に加えてエンジンの出力不足によって速度と上昇力が不足していると指摘していたのである。
 元来、格闘性能を重視して、相手を軽防備の戦闘機に絞って機関銃装備に留めることで非力なエンジンでも軽快さを発揮させるのが軽単座戦闘機の基本方針であったのだが、明野飛行学校の教官らは、各種文献などから、各国の次期主力戦闘機でも機関銃程度に対する防弾が装備されつつあることを把握していた。
 相手を戦闘機に限定したとしても、既に7.7ミリ機関銃弾程度の火力では相当に集中射を行わなければ撃墜は困難になっていた。
 また、既に制式採用されていた水冷エンジン搭載機の九八式戦闘機では、後期型が搭載するケストレルエンジンは1000馬力程度を発揮する予定であり、速度面で不利なはずの固定脚機の九八式戦闘機よりも、次期主力戦闘機であるはずの単葉引き込み脚のキ43が鈍足であるという矛盾した事態になりかねなかった。

 明野飛行学校の意見はかなり強硬なもので、これを受けた中島飛行機でもキ43の速度、火力を強化した改良を行わなければならなかった。これにはエンジン出力の向上が不可欠であり、キ43二号試作機は、それまでの試作機とは異なり、二速過給器を搭載したハ115(海軍呼称栄21型)を搭載していた。
 エンジンの大出力化以外にも、一号試作機で明らかとなった不具合点などの是正のため機体構造にはかなりの手が加えられており、実質上一号試作機と二号試作機は異なる機体となっていた。
 防弾装備は一部が12.7ミリ弾対応に強化されており、搭乗員の生存率を高めていた。これはそれまで日本陸軍が関わっていた紛争時の空戦において、僅かな被弾であっさりと搭乗員が死傷して戦力を喪失してしまったという戦訓を反映させていたからである。
 最も重要と考えられていた火力は、7.7ミリ機関銃から格段に強化されており、12.7ミリ機関砲二門に換装されていた。本来、重単座戦闘機に装備されるはずであった機関砲装備であったが、急激な航空技術の発展は、既に軽単座戦闘機でさえ機関砲装備が求められるまでになっていたのである。
 この時、軽単座戦闘機と重単座戦闘機の違いは曖昧なものになっており、すでにハイローミックスという高価な機種と安価な機種の混合採用という意味合いしかなくなっていたとも言える。

 機体構造の変更はこれだけではなかった。実は、一号試作機の時点では、純粋な軽単座戦闘機としての機能の他に、他の重爆撃機等の攻撃機編隊を援護するために遠距離戦闘機としても使用するために、参謀本部が策定した遠戦仕様書に従って航続距離を進捗させるため、大型増槽の採用に加えて翼内燃料タンクの増設などが施されていたのだが、明野飛行学校では、長大な航続距離と引き換えに、往路を飛行して空戦にはいった際にも、機内に燃料が大部分残ってしまい、機体重量が実質上増大してしまうこと、可燃物である燃料油が被弾面積の大きい翼内に満載した状態になってしまうことなどから空戦時に危険であると強く反対していた。
 比較的近距離の対戦闘機戦闘を目的とする軽単座戦闘機と、遠距離戦闘機では、求められる性質が異なることから、一機種でこれを兼ねることは基本的に無理があるというのが明野飛行学校の意見だった。

 本来であれば上部組織である参謀本部の遠戦方針は、それなりに考慮されてしかるべきであっただろうが、一式戦闘機試作時点においては、九七式中戦車の開発方針において安価な低速戦車案であるチニ車を押していた参謀本部の技術開発方針に関して、各実施部隊などから疑問視されていた時期であったため、搭乗員を代表する立場であった明野飛行学校の意見が安易に押し通せる状況であった。
 また、一式戦闘機の試作開発時期は、欧州での情勢が悪化していた時期と一致しており、いずれ日本陸軍も欧州での戦闘に参戦する可能性が強まっていたが、欧州ではそれまでの戦闘経緯から、比較的短距離での戦闘行動が多くなることが予想されており、島嶼部などでの戦闘を前提として航続距離を高める必要性は薄かった。
 結局、参謀本部が求めた遠戦案は最終的に撤回され、純粋な軽戦闘機としてまとめ上げられた一式戦闘機は、翼内の燃料タンクは縮小されており、その代わり構造が強化されて一号試作機よりも降下制限速度が上昇していた。

 1940年に審査を終えたキ43は、1941年に制式採用されて一式戦闘機と呼称されたが、制式採用前に増加試作機の形で百機程度が発注されており、1941年に日本帝国が独伊枢軸に対して宣戦布告した時点では、既に複数の飛行戦隊が機種改編を終えた状態だった。
 すでに英国本土防空戦において義勇隊の形で実戦参加していた海軍の零式艦上戦闘機よりも実戦投入は遅れることとなったが、宣戦布告直後から主に北アフリカ戦線に投入された一式戦闘機は、本命であったはずの重単座戦闘機が不在、不調を示す間、実質上の主力戦闘機として活用されることとなった。
 カタログスペック上ではドイツ空軍の新鋭戦闘機に劣っていたはずの一式戦闘機ではあったが、機体重量が軽量にまとめ上げられている割には、千馬力級のエンジンは強力なものであり、翼面荷重の値は小さく、逆に機体重量あたりのエンジン出力は大きかった。
 そのためハ115の特性もあって、低空、低速時の加速性能や旋回性能は群を抜いており、しばしば低空での巴戦でドイツ空軍の新鋭戦闘機を撃墜していた。
 また、当初の対戦闘機戦闘に用途を絞った軽単座戦闘機本来の用途とは異なり、ドイツ空軍の急降下爆撃機Ju87シュツーカを半ば専門に狙う搭乗員も少なくなかった。一式戦闘機部隊は優速な敵戦闘機に対しては、敵速の利を打ち消すため巴戦に持ち込もうとする傾向が強かったが、搭乗員達の間でシュツーカ狩りなどとも呼ばれたこの攻撃では、逆に爆撃機援護に随伴していたイタリア空軍の複葉戦闘機CR.42などと共に行動する低速のJu87に対して、高速を活かして編隊による上空からの一撃離脱を主な戦法とするなど、柔軟に対応することが多かったようである。


 


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