百式砲戦車





<要目>
重量15トン、全長5.20m、エンジン出力120hp、乗員3名、装甲厚35ミリ(最大)、武装57口径57ミリ砲、7.7ミリ機関銃×1(随時司令塔に取付)、最高速度25km/h

 日本帝国陸軍は、1930年代なかばから、実質上の八九式中戦車の後継として歩兵支援用戦車として九七式中戦車を開発、配備していたが、軽量、安価な軽歩兵戦車としてまとめあげられため、ソ連軍の次期主力戦車が大口径砲を装備した対戦車能力に優れたものと判明した後は評価が著しく下がっていた。
 実際、海軍陸戦隊が開発した九八式装甲車や陸軍が九七式中戦車制式直後から開発を開始した一式中戦車、一式砲戦車はどれも対戦車能力を優先して開発されていた。
 しかし、安価であった九七式中戦車は、歩兵支援用の軽歩兵戦車として一般の歩兵師団の戦車部隊向けに配備が進められていた。
 この配備済みの九七式中戦車を転用して、対戦車能力を持つ装甲車両を、機甲化されていない一般師団に配備するために開発されたのが百式砲戦車である。
 この後に制式化された一式砲戦車は、同時期の旋回式砲塔を持つ戦車よりも大口径砲を装備した支援用戦車であったが、百式砲戦車の主砲として採用されたのは一式中戦車の主砲として一式機動57ミリ砲の派生型として開発されていた長砲身五七ミリ砲であった。

 百式砲戦車は、師団戦車隊に配備するために砲戦車と呼称されたものの、実際には牽引式の一式機動57ミリ砲を装甲化した自走対戦車砲であり、戦術的に見ればドイツ陸軍が開発配備した駆逐戦車に近く、長砲身57ミリ砲は高初速の徹甲弾による対戦車攻撃を主目的としていた。
 しかし、主砲弾の口径は九七式中戦車の18.4口径5.7センチ砲と同一であり、砲身長の違いから発射装薬の量が違うため弾薬の互換性は無かったが、徹甲榴弾、榴弾の炸薬量は同一であり、歩兵支援用途にも用いられた。

 安価に対戦車能力を九七式中戦車に兼ね備えさせることを目的としたため、百式砲戦車の構造は比較的単純で、砲塔を取り除いた後に、操縦席より後方の機関室隔壁までの間に新たに固定式戦闘室を設けて主砲である長砲身57ミリ砲を備えている。
 この固定式戦闘室の構造は溶接箱組みで、リベット構造の車体にやはり強固な溶接留めで取り付けられている。溶接脚長は改造時の手順書では多めに取られていたが、元々溶接鋼ではない車体部に、戦闘室を溶接したため、接合部に応力集中が起こりやすく、北アフリカ戦線では被弾時の衝撃で溶接部が剥離する事例が報告されている。
 車体が軽く、被弾時の衝撃を重量で十分に吸収することが出来ないためか、同様の構造であるはずの九五式重戦車改造型よりも溶接不具合による損害は多かったようである。
 それに加えて、固定式戦闘室の装甲は従来の砲塔のそれとほとんど同様の装甲厚しかなく、防御力は弱体だった。
 固定式戦闘室は容易に改造を行えたが、その高さを十分に確保できなかったためか、仰俯角を取りづらく、再装填などの操砲作業が難しかった。
 なお、固定式戦闘室に改造するにあたって取り外された従来の短砲身57ミリ砲の砲塔は95式重戦車の改造時に再利用されている。

 様々な問題はありながらも、百式砲戦車は機甲化ではない一般師団にとって貴重な対戦車車両であり、対戦車戦闘、歩兵支援にと重宝がられた。
 その分損耗率も少なくなく、機甲化師団の配備を解かれた一式中戦車や、より大口径砲を装備する三式中戦車が順調に生産されるに連れてそれら中戦車へと一般師団の戦車隊も装備改変が進められていた。
 もっとも百式砲戦車の歩兵支援兵器としての後継は、本質的にはこれら中戦車ではなく、歩兵部隊に直接配備された装甲兵車の火力支援型であったとも言えるだろう。


 


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