三式対戦車自走砲





三式対戦車自走砲



<要目>
重量14.2トン、全長5.7m、エンジン出力240hp、乗員7名、装甲厚20ミリ(最大)、武装56口径75ミリ砲×1、最高速度40km/h

 1930年代末、仮想敵であるソ連軍の高い性能を有すると予想される次期主力戦車の諜報情報に接した日本陸軍は、軽歩兵戦車として開発された既存の九七式中戦車ではこれに対抗するのは難しいと判断し、後に一式、三式中戦車として採用される対戦車戦闘を主任務とする中戦車の開発を開始した。
 これと同時に、対戦車戦闘の中核となる対戦車砲(速射砲)も既存の九四式37ミリ速射砲に代わって戦車砲と構造、弾薬の共通性が図られた大威力砲の開発が進められることとなった。
 九四式速射砲は既に九五式軽戦車の主砲と共通化が図られており、同程度の能力を要求される戦車砲と対戦車砲では砲架などの一部を変更する他は同一構造とするのが日本陸軍では常識的な設計だったのである。

 九四式速射砲の後継砲としては当時既に47ミリ及び57ミリの二種類が同時に試作されていたのだが、この内47ミリ砲の方は、同様に次期主力対戦車砲となる6ポンド砲の開発に取り込んでいた英国からの情報もあって早々と試作開発が中断されて開発対象はより大威力の57ミリ砲に統一されていた。
 開発が進められた57ミリ砲は、対戦車砲として一式5.7センチ機動砲の名で制式化された他、一式中戦車の主砲としても採用されていた。
 砲自体の開発が順調に進められる中で、運用面では支障が生じ始めていた。大威力と引き換えに重量が増大したため配備された部隊では砲以外にも多くの機材物資が必要になっていたのである。
 例を上げれば37ミリ口径の九四式速射砲では駄馬や簡易な自動貨車による牽引が可能であったが、放列重量が300キログラム強であった九四式に対して、57ミリまで拡大された一式機動砲は同重量が1.5トンにも達しており歩兵部隊において使用すべき砲でありながら、砲兵用の牽引車が必要なほどだった。

 これらの対戦車砲は自走砲化も図られていた。機動する敵戦車を砲撃する対戦車砲は迅速な移動を行うとともに、隠蔽された陣地内では急速な回頭などの動作が必要不可欠だったからだ。
 37ミリ砲では長距離移動はともかく、陣地内での射撃位置転換などは人力で行うことが出来たが、57ミリ砲ではいささか困難になっており、扱いの困難さから歩兵連隊司令部が直率する速射砲中隊の人員も増員が図られていたほどだった。
 また、自走砲化も重量の問題と無関係ではなかった。37ミリ砲の場合は、短砲身の歩兵砲等と同様のレイアウトで本来は歩兵輸送用である一式半装軌装甲兵車に搭載される簡易な自走砲が採用されていたが、1.5トンの57ミリ砲は一式半装軌装甲兵車では車内への搭載は難しく、牽引して使用された。
 57ミリ砲に関しては一式中戦車の配備に伴い旧式化による退役が予想された九七式中戦車を転用した一〇〇式砲戦車が採用されたが、中戦車を原型とした一〇〇式砲戦車は自重15トンにも達しており、自走対戦車砲というよりもはドイツ軍の駆逐戦車の概念に近しいものだった。

 57ミリ砲を主砲とする一式中戦車の性能にも満足できなかった日本陸軍は、75ミリ口径の野砲を原型とする砲を固定式戦闘室に装備する一式砲戦車を支援戦車として同時に採用するとともに、一式の後継となる後の三式中戦車の開発に乗り出した。
 同時に三式中戦車の主砲としてボフォース社製の高射砲を原型として開発中だった75ミリ砲も対戦車砲との共通化が図られることとなったが、それまでの対戦車砲の運用実績や戦訓などから当初から自走砲化が図られることとなった。
 大重量の75ミリ砲では人力での牽引は不可能になるし、陣地内での移動すら難しくなるのが確実だったからだ。しかも、軽量級の半装軌車への搭載は重量や操砲スペースの関係から無理があった。
 そこで、自走砲の原型は完全装軌式の一式装甲兵車、そのなかでも兵員輸送能力と共に20ミリ機関砲砲塔を有する歩兵戦闘車仕様である三型を原型として自走砲化を図ることとなった。
 改設計の方針は大雑把に言えば三型で20ミリ機関砲塔を搭載していたスペースに前方と側面の一部を覆う防盾を備えた75ミリ砲を搭載し、その後部の兵員収容スペースを拡大して操砲と弾薬搭載のためのスペースとしたものであった。

 三式中戦車と同じ打撃力を有する大威力砲を搭載して就役した三式対戦車自走砲だったが、自走砲化したとはいえその大威力砲は従来の対戦車砲と同じように運用するのは難しかった。
 何とか最小限の改造で装甲兵車の車体に大威力砲を搭載したのは良かったものの、車体前部にエンジンや操縦室が配置してあることや車体後部を操砲空間と設定しなくてはならないことなどから砲架の搭載位置が高くなりすぎて安定性を欠いていた。
 また、原型である装甲兵車では機関砲塔は全周射界を有していたのだが、対戦車砲では重量があり、また反動も強烈であるために左右方向の射界は極端に狭く実質上前方にしか射撃はできなかった。
 同時に搭載位置が高すぎるために従来の対戦車砲と比べて戦車壕クラスの深い壕でも構築しないかぎり待ち伏せ攻撃のための隠蔽も難しかった。

 運用面での問題は、砲自体だけではなかった。戦闘状態で15トン近くの自重に加えて高初速の75ミリ砲は砲弾重量も大きく、対戦車戦闘で消費する弾薬量を考慮すれば従来通りに歩兵連隊の指揮下に配置する速射砲中隊に配備するには補給面から見ても難しかったのである。
 三式装備の改編時期は連隊砲、大隊砲として運用されていた直射弾道の歩兵砲が迫撃砲に切り替わる時期でもあった。
 そこで三式改編を受けた師団では、歩兵連隊の連隊砲を自走式の大口径迫撃砲、大隊砲を同じく自走式の中口径迫撃砲として、速射砲中隊を三式噴進砲装備の対戦車中隊に改編していた。
 三式改編師団で歩兵連隊の制式装備から外された速射砲、対戦車砲は、ドイツ軍やソ連軍のように師団直下に専用の段列を有する対戦車大隊を新設して集約するようになっていた。


 


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