二式装甲車(ディアハウンド)




二式装甲車



二式装甲車(対空型)



二式装甲車(英国仕様)



<要目>
重量10.5トン、11.7トン(英国仕様)全長4.6m、エンジン出力150hp、乗員3名、装甲厚30ミリ(最大)、武装46口径3.7センチ砲×1、7.7ミリ機関銃×1(通常型)、連装2センチ高射機関砲(対空型)、2ポンド砲×1、7.92ミリ機関銃×1(主砲同軸)(英国仕様)、最高速度70km/h

 仮想敵をソ連をはじめとする共産主義勢力と捉えていた日本陸軍では、主要仮想戦場をソ連軍とシベリア−ロシア帝国との国境線となっていたバイカル湖の南岸からモンゴル人民共和国と満州との国境線に至る大陸中央部と定めていた。
 これらの地域は幹線道路や鉄道を除くと荒蕪地が連続する地形が多く、路外走行性能を重要視して日本陸軍では戦闘車両は原則的に装軌式としていた。
 履帯で駆動する装軌式は、タイヤを備えた装輪式に対して相対的に速度は遅く、重量も大きくなるが、原理上接地圧が低くなることから不整地走破性能や耐荷重性能から第一次欧州大戦の塹壕戦で初投入された戦車に採用されていたのであり、日本陸軍でもそれを踏襲していた。
 装輪式には構造が単純で安価になることや、特に道路上での速度に優れるという利点もあったが、不整地走破性能は当時は履帯式と比べるまでもなく劣っており、戦闘用に重装甲と火力を与えられて重量化した車両には向いていなかった。
 国内においても機甲部隊の創設が始まった頃は未だ舗装道路も少なく、自家用車の保有率も低かったことから装輪式の利点はそれほど高くはなかったのである。
 装輪式の装甲車も日本陸海軍で若干数保有してはいたものの、これは輸入されたものばかりで、市街地での警備などに用途を限定されていた。

 このような日本陸軍の方針は、第二次欧州大戦の勃発に前後して揺らぐことになった。
 友邦英国で機甲化部隊の前路警戒を行うダイムラー偵察車、さらにこれに軽戦車の砲塔を搭載したダイムラー装甲車などが採用されたことや、北アフリカ戦線でイタリア軍が投入したAB40/AB41装甲車の使い勝手の良さなどから装輪式装甲車の評価が見直されていたのである。
 また、日本国内の道路事情が工業化の進捗でここ数年で急速に改善されつつあったことと、懸架装置の改善によって装輪式車両でもある程度の不整地走破性能を有するようになっていたことから、日本陸軍でも装輪式の戦闘車両の開発を開始した。

 日本陸軍の中でも装輪式戦闘車両の開発に乗り気であったのは機甲科の中でも旧騎兵科閥の将校団だった。機甲科統合前の騎兵科では重装甲車との呼称で警戒用の実質上の豆戦車を保有していた。
 その後継を兼ねる機動用戦車として九五式軽戦車が開発されたが、それもその後の日本陸軍の戦車開発リソースがソ連軍新型戦車の開発を受けて後の三式中戦車に繋がる火力と機動性、装甲のバランスを重視した重量級主力中戦車の開発に集中してしまったため、本格的に量産された後継車両が中々投入されなかった。
 そこで師団捜索連隊において威力偵察などを実施する軽戦車中隊に配備する九五式軽戦車と以前の装甲車の代替として装輪式戦闘車両を捉えていたのである。

 このような事情から開発が急がれた装輪式戦闘車両は、可能な限り従来車両のコンポーネントを流用して開発期間を短縮することが図られていた。
 車台は懸架装置を含めて6輪式の自動貨車から転用されており、原型では動力輪である後部の四輪をドライブシャフトを介して駆動するエンジンは運転手前方に配置されていたのだが、原型に搭載されていたものから一式半装軌車に搭載されていたより大出力のエンジンに換装されて動輪上部の車体後部に搭載位置を変更されていた。
 重量のあるエンジンを後部に移動したのは重量配分対策でもあり、運転手や車体を防護するために機甲化将校からの要求で前方装甲は強化されており、開発中だった一式中戦車に準ずる最大30ミリに達する装甲板が備えられていた。
 その操縦用の区画と後部の機関部の間が上部に砲塔を備えた戦闘室となっており、二名用の砲塔が搭載されていた。この砲塔は3.7センチ砲と7.7ミリ機関銃が備えられた九五式軽戦車の物をそのまま流用しており、旧式化して訓練用に転用されたものや、一式対空戦車に改装された車両から取り外されたものが再整備の上搭載されていた。
 また、一部の車両は互換性を有する一式対空戦車用の砲塔を搭載して対空型としていたが生産数は少なかった。通常の九五式軽戦車の砲塔を搭載した型では運転手、砲手、車長兼装填手の三名だったが、対空戦車型では運転手、砲手、車長と装填手の四名だった。

 従来の騎兵科の装備から二式装甲車の名称で制式採用された装輪式戦闘車両だったが、幾つかの理由から日本陸軍への本格的な装備は見送られることとなった。
 旧騎兵科将校の構想である軽戦車代替としての威力偵察任務を行うには、要求していたものに二式装甲車の性能が達していないのが明らかだったからである。
 原型である6輪自動貨車は機甲部隊や機動歩兵部隊の支援にも使用するためにある程度の不整地走破性能はあったものの、戦闘車両としてみれば路上での性能に対する不整地での性能低下が大きかったのである。
 もっとも、この不整地での性能低下は自動貨車を原型としたためだけではなかった。原型よりも装甲の追加や武装、エンジンの強化で重量が増大したのが主な理由だった。
 さらに、反動の強い3.7センチ砲を搭載する戦闘車両としては、懸架装置の特性から適切とは言いがたいものがあった。何よりも兵装が軽戦車と同様でありながら10トンを超えるかつての中戦車に匹敵する重量級の車両となってしまった為に中途半端な存在と日本陸軍には認識されていたのである。

 二式装甲車は日本陸軍では本土で訓練用に使用された他、戦地での後方警備に当たる憲兵隊に限定配備されただけだったが、戦闘車両が不足していた英国軍の要請で最終的に約1000両ほどが売却された。
 この再生産型とも呼ばれる英国軍仕様では当初は2ポンド砲に換装した九五式軽戦車の砲塔を搭載していたが、過剰武装として憲兵仕様のものから取り外された砲塔まで転用しても旧式化した九五式軽戦車から取り外された純正品では足りず、大部分は英国仕様と俗称される最初から2ポンド砲用に設計された鋳造砲塔が搭載されていた。
 なお、英国軍で使用された二式装甲車はディアハウンドと呼称されており、九五式軽戦車の砲塔を搭載したものがディアハウンドMk.T、英国仕様砲塔を搭載したものがディアハウンドMk.Uと呼称されていた。

 


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