一式中戦車





<要目>
重量25トン、全長6.50m、エンジン出力500hp、乗員5名、装甲厚50ミリ(最大)、武装57口径57ミリ砲、7.7ミリ機関銃×2(車体前方、随時司令塔に取付)、最高速度50km/h

 一式中戦車は、日本帝国陸軍が九七式中戦車に続いて開発した主力中戦車である。
 ただし、九七式中戦車が、重装甲だが鈍足の多砲塔戦車である九五式重戦車の簡易版、いわば軽歩兵戦車として設計されたのに対して、一式中戦車は長砲身高初速砲と、装甲、機動力を兼ね備えた後の主力戦車に近い性質を持つ機動戦車として開発されたため、単純な後継というわけではない。

 九七式中戦車の制式採用と同時期、欧州のスペインではフランコ将軍率いる反乱軍と共和政府との内戦が起こっていた。日本帝国は同盟国英露などと同様に中立を保っていたが、派遣した観戦武官や海外派遣報道員から戦闘の詳細を入手していた。
 さらに、仮想敵であるソビエト赤軍と日本帝国、同盟国ロシア帝国、彼我の戦車保有数や予想戦場の面積と、スペイン内戦の戦訓などから、機甲科将校達は実際の戦場では、九七式中戦車の性能要求時の想定とは異なり、我が戦車が敵戦車と遭遇する可能性は、必ずしも低くはないと考えるようになっていた。
 また、ポーランド侵攻の際にドイツ軍が大量の戦車を用いて機動戦を行ったことも、対戦車戦闘を主目的とする主力戦車の開発を促していた。

 一式中戦車の開発を促した存在は、このような国際状況や他国戦車の性能予想だけではなかった。九七式中戦車と同時期に、日本帝国海軍がシベリア特別陸戦隊向けに正式採用していた九八式装甲車も次期主力中戦車の要求性能に影響を与えていた。
 ソ連赤軍の次期主力戦車を想定とした対戦車車両である九八式装甲車は、砲塔を持たない固定戦闘室式とはいえ、長砲身大口径砲を搭載しており、当時の大抵の戦車をアウトレンジで撃破できた。
 一式中戦車の要求性能は、この九八式装甲車と想定していたソ連赤軍次期主力戦車を前提としたものだった。

 また、一式中戦車の開発には、陸軍技術本部やこれまで戦車の生産開発に携わってきた三菱の他に、海軍艦政本部や日立、小松といった九八式装甲車を開発した組織、技術者も参画していた。
 シベリア特別陸戦隊及びロシア帝国陸軍に配備された九八式装甲車は、有力な対戦車車両ではあったが、要廃となった旧式兵器を再利用していたため、生産数には限りがあり、また固定式戦闘室のため混戦となる近接戦闘では格段に不利となるなど問題点も少なく無かった。
 そこで海軍艦政本部では九八式装甲車の制式採用と同時に、次期主力となる対戦車車両の開発が行われることとなったが、従来通りの海軍技術将校が艦政本部から派遣されたたった一人の担当官という貧弱な開発体制では新型戦車の新規開発は難しく、陸軍への委託、あるいは共同開発を選択せざるを得なかった。
 それ故、一式中戦車は、九七式中戦車とは異なり接合部は海軍の溶接技術を導入し、機動性を高めるために九八式装甲車で採用されたクリスティー式サスペンションを搭載していた。

 一式中戦車の開発は、陸軍機甲科にとって急務となった。九八式装甲車を開発した海軍特別陸戦隊上層部と同じ結論に達した陸軍機甲科将兵たちの予想では、想定するソ連赤軍の次期主力戦車に対抗できる戦車が陸軍に存在していなかったからである。
 この九八式装甲車開発時に想定されたソ連赤軍の次期主力戦車の主用要目は明らかに過大な数値のものだったが、その後もソ連赤軍の情報が更新されていなかったことから、一式中戦車もこの幻の戦車を想定して要求性能が決定されていた。
 最もこの時期には、既にT-34の試作車が製造されており、装甲厚を除けばあながち間違ったものではなくなっていた。
 このように明確な仮想敵の出現が間近であると考えられたことから、一式中戦車は全くの新規開発を断念し、既存車両の設計を最大限活かすことが開発開始段階で決められていた。
 一式中戦車のベース車両となったのはかつて九七式中戦車の競合試作で敗れたチハ車だった。
 後に九七式中戦車となるチニ車と比べると、チハ車はより大型で、高速の戦車だった。その主砲はチニ車と同じ18.4口径5.7センチ砲だったが、砲塔はより大きく、車長と砲手の二人乗りとなっていた。
 またチハ車を設計した三菱重工と陸軍技術本部の一部将校は、将来大口径砲を搭載する可能性を考慮して、ターレットリングを予め短砲身57ミリ砲が要求するよりも大型に設計していた。
 基本的に、一式中戦車は、試作段階に終ったチハ車を搭載主砲やエンジンの大出力化にあわせて大型化したものとして再設計されていた。

 一式中戦車の主砲となった57口径57ミリ砲は、当時開発段階であった一式機動57ミリ砲と大部分の部材が共用化された派生型であった。
 この砲は、当初47ミリ砲と並行して次期対戦車砲(速射砲)として試作されていたのだが、同時期に英国で開発されていたオードナンス6ポンド砲の影響もあって47ミリ砲は威力不足とされ、57ミリ砲が対戦車砲と戦車砲を兼ねる砲として採用されている。
 九八式装甲車に採用された40口径8センチ砲、あるいはそれと同等の3インチ級の大口径砲を搭載することも一時期は計画されたが、3インチ級主砲を搭載するのにはターレットリングを更に拡大する必要があり、また旋回機構も一から再設計する必要があった。
 このため一式中戦車では、後継車両ではさらなる大口径砲の搭載が順当とされながらも、長砲身57ミリ砲の搭載で妥協することとなった。
 とはいえ、40年代初頭の戦車砲としては、この57ミリ砲は有力な砲であることは間違いなく、初陣となった北アフリカ戦線でもアフリカ軍団の主力である三号戦車を1000メートル以遠で撃破することが可能であった。
 この長砲身57ミリ砲を搭載する砲塔は、チハ車やチニ車のものから寸法は大きく取られていた。車長1人乗りで著しく戦闘能力を削ぐことになった九七式中戦車の砲塔はもちろん、チハ車の二人乗り砲塔であってもまだ容量不足とみなされるようになっていた。
 九七式中戦車の1人乗り砲塔の不評からの反動もあったが、海軍の九八式装甲車は、戦闘室に車長、砲手に加えて専任の装填手を配置することで装填速度の向上を図っていたからである。
 57ミリ砲弾は確かに九八式装甲車が採用した8センチ砲弾よりもは軽いが、一式中戦車は仮想敵である赤軍次期主力戦車よりも小口径の砲を搭載することになっていたため、発射速度を高くし、続けざまに敵戦車に発砲するつもりだった。
 この砲塔は、乗員が三人と増えたこと、大重量のため砲塔旋回用の電動モータが追加されたことで砲塔旋回速度が上昇したことなどから、日本軍の戦車としては初めて砲塔バスケットを採用している。
 主砲弾は、長大で重量のある長砲身57ミリ砲のカウンターウェイトを兼ねて、砲塔後部に弾庫を設けている。

 この主砲に対応して前面の装甲厚は50ミリとなっていた。装甲厚自体は九八式装甲車や九五式重戦車と大差ないが、海軍担当者の意見により避弾経始及び見かけ上の装甲厚のとれる傾斜配置となっていた。
 本来であれば九八式装甲車も傾斜配置としたい所ではあったが、車内容積確保のために垂直に近い角度で設計しなければならなかった反省によるものであった。

 一式中戦車は、これらの重装備から、九七式中戦車の倍以上、九五式重戦車に近い二五トンという大重量になってしまった。
 この重量車両に運動戦に用いる中戦車として必要な機動力を与えるために、九七式中戦車のディーゼルエンジン搭載を改めて、中戦車としては初めて水冷ガソリンエンジンを搭載している。
 極寒のロシアで使用するため、エンジン冷却水には新たに開発された不凍液を混入させることとしていたが、皮肉にも一式中戦車の初陣は北アフリカ戦線であったので、急遽不凍液ではなく、ラジエーターには防塵フィルターが追加されている。

 一式中戦車は、開発が急がれたことや設計の参考となるベース車両が存在したこともあって、1940年半ばには審査が終了し、量産が許可されていたが、書類上での制式採用年度は翌年の1941年となった。
 これは陸軍が皇紀2600年に制式採用したものをどう呼称するのか決定が遅れたためと言われているが、同時期に採用した軽爆撃機は九九式となるなど、これも一定した見解とはなっていない。
 いずれにせよ一式中戦車は、書類上の制式年度である1941年にはすでに量産体制に入っており、北海道に駐留する機甲師団である第7師団隷下の戦車連隊とシベリア駐留の第20師団に優先して配備が開始されていた。


 


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