一式砲戦車





<要目>
重量28トン、全長6.50m、エンジン出力500hp、乗員5名、装甲厚60ミリ(最大)、武装38口径75ミリ砲、7.7ミリ機関銃×2(車体前方、随時司令塔に取付)、最高速度45km/h

 高初速の長砲身57ミリ砲を搭載した対戦車戦闘用の戦車として、一式中戦車を制式採用した日本帝国陸軍ではあったが、その対戦車能力は速射性能を重視した限定的なものと開発段階から想定していた。
 仮想敵であるソ連赤軍次期主力戦車は一回り以上大きい76ミリ砲を装備し、主砲に耐えうる強固な装甲を有していると予想していたからである。この重装甲の戦車を撃破するには、一式中戦車の主砲では数発を続けざまに命中させる必要が有ると陸軍は判断し、乗員向けの操典にもそのような記載があった。
 一式中戦車は、いわば大威力の次期主力戦車砲、対戦車砲を搭載した戦車の開発、整備までのつなぎとして認識されていたが、日本陸軍は、同時に対戦車戦闘において大口径砲を搭載し、遠距離から迅速に敵戦車を撃破しうる砲戦車を支援用として配備することを計画していた。

 最終的にこの支援用戦車は、砲塔を有せずに固定式戦闘室を設けた一式砲戦車として制式採用された。
 開発コスト低減のために、同時期に開発されていた一式中戦車の車体部分をほぼそのまま流用し、これに固定式戦闘室を被せたスタイルは、すでに海軍陸戦隊向けの九八式装甲車で前例があり、開発陣の一部も九八式装甲車に引き続き参加していたから、一式砲戦車は、一式中戦車のバリエーションとして再開発された九八式装甲車と言っても間違いではなかった。

 一式中戦車の砲塔に代わって据え付けられた固定式戦闘室は、巨大な防盾を備えた強固な溶接箱組み構造で、特に前面装甲は強力な敵主砲から身を守るために一式中戦車よりも増厚されていたが、実際にはこれでも足りずに後期型では、追加の装甲板が取り付けられていた。
 重装甲と大口径砲の搭載によって一式砲戦車は、一式中戦車と比べて車体重量は増していたが、足回り、主機関はそのまま変更がなかったため最高速度は低下している。
 また、固定式戦闘室に主砲を据え付けられているため、おおまかな照準のために車体ごと旋回する必要があり、一式中戦車と変わらない一式砲戦車の足回りには負担が大きく、頻繁な旋回操作のために駆動系関係部品の消耗率は高かった。
 そのため、陸軍では、九八式装甲車を戦車同様に運用する海軍陸戦隊とは異なり、待ち伏せや一式中戦車の支援に限って必要以上の機動を避けるように運用していたが、それでも整備部隊の負担は中戦車装備部隊よりも高かった。

 遠距離から重装甲の敵戦車を撃破するために、長砲身の3インチ級砲が仕様要求に上げられ、実際に陸軍技術本部では次期主力戦車用として75ミリ砲が開発されていたが、一式中戦車支援用として同時期までに開発終了、制式化が求められていた一式砲戦車に搭載するには制式化が間に合わないのは確実だった。
 そこで、一式砲戦車の主砲には、開発時点で陸軍が現実的に入手しうる最も有力な3インチ級砲として、九〇式野砲を改造して搭載することとなった。
 同時期に別系統で開発されていた砲兵部隊向けの一式自走砲が、九〇式野砲をほぼそのまま搭載したのに対して、一式砲戦車では使用用途の違いから砲架や照準装置が間接砲撃用から直接照準向けのものへと改造されており、発射装置も九〇式野砲の拉縄式から砲手が操作する引き金式へと変更している。
 逆に、一式自走砲に搭載するにあたって原型の九〇式野砲から取り外された砲口制退器が、一式砲戦車ではそのまま採用されている。
 砲口から噴出される発射ガスの一部を変更させて後方に向けることで反動を抑制する事の出来る砲口制退器だったが、後方に噴出する発射ガスにより瞬間的に高まった圧力によって、砲手が負傷する事例が報告されていた。
 防盾が前面及び側面のみで開放式戦闘室の一式自走砲では、この砲操作員への被害を防ぐために砲口制退器を取り外し、代わって補強用の砲口環が取り付けられていた。
 しかし、一式砲戦車は発射ガスによる圧力上昇の影響を受けづらい閉鎖式の戦闘室を備えており、また狭い車内での長大な砲座の取り回しを考慮して、後座長を抑制するために原型砲同様に砲口制退器を装備している。

 一式中戦車の支援用として制式採用された一式砲戦車は、通常は中戦車を装備する部隊に随伴して運用された。
 始めての一式砲戦車運用部隊となった第七師団では、当初隷下の戦車連隊の各第9中隊を一式砲戦車装備隊に指名して、実戦では第1〜第8中隊を支援することとしたが、実際に師団級の大演習において実験的に運用してみたところでは、第9中隊の各車両を配分するために中戦車を配備した各中隊は大隊結節点を自隊と第9中隊が所属する第3大隊の二つを飛び越えてて要請しなければならず不都合が多かった。
 北アフリカ戦線投入時の第七師団は、既に第9中隊を中戦車配備の他中隊と同様の編制にしており、代わりに独立した砲戦車大隊を編成して、各小隊、中隊単位で戦時に編成される支隊に状況に合わせて配属されるようになっており、1941年終わりから1942年頭にかけて再編成を行ったものと考えられる。
 その後編成された戦車旅団も、概ね同様に砲戦車部隊を中戦車隊と分けて編制していた。

 一式中戦車の支援車両として概ね高い評価を受けていた一式砲戦車だったが、北アフリカでは強力な砲を生かして四号戦車F2型ともロングレンジでの砲戦を行えたが、北アフリカ戦線終盤に登場したティーガー重戦車には対抗できず、また後のイタリア戦線では山岳地帯での近接戦闘に対応できなかったことから、長期間機動砲兵部隊で使用された一式自走砲とは異なり、最前線で活躍できた期間は短かった。


 


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